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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第1部「喫茶マンハッタン」

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第一話 喫茶マンハッタンへようこそ

 湯気が天井に立ち上がる。

 シャワーの熱い湯が千影の肩を叩いた。流れた湯が背中を伝って腰のくびれをなぞり、太ももの裏側を滑って足元のタイルへ落ちていく。

 両手で髪をかき上げる。指の腹に伝わる、自分の頭の形。耳のうしろの輪郭。

 泡を肩に乗せるとそのまま鎖骨を伝って胸の膨らみへ滑り落ちる。柔らかい稜線の上で一度ためらって肋骨の窪みを越え、くびれた腹の上へ。素足の指先でシャワーの湯がタイルを叩いて跳ねた。

 ——気持ちいい。

 湯を止める。曇った鏡を手のひらで拭うと髪を濡らした化粧を落とした、ただの女が一人映っていた。湯気でほてった頬。呼吸に合わせて静かに上下する胸。

 千影はその鏡の中の自分をしばらく見つめた。

(……今日は男の日だ)

 鏡の中の自分にそう告げて千影はバスタオルに手を伸ばした。



 バスルームを出て洗面台の鏡の前に立つ。眉を少しだけ太く描き足し、リップクリームで唇を整えた。ウィッグはしまったまま——今日は地毛のショートで出る日だ。

 スポーツブラの上から腹巻き風の薄い補正インナーを胸のラインに合わせて整える。Bサイズなので強く締める必要はない。鎖骨から肋骨までの輪郭がシャツの下で細身の男の線に収まる。

 ワイシャツに袖を通し、第一ボタンは開けたまま喉元を緩く開ける。補正インナーの縁が首筋の下にちらりと覗く高さ。

 姿見の前で喉の下のほうに息を落とした。

「おはようございます」

 低い声が出た。悪くない。

 業務用スマホをマナーモードに個人用スマホを着信ONにして二台をポケットに分けて収める。鞄を肩にかけた。

(……今から男になる)

(初日くらい、遅刻するなよ私)

 ドアを閉めると春の朝の匂いが廊下にまだ残っていた。



 四月の朝、駅前の細い路地。

 白い看板に黒い文字で「喫茶マンハッタン」と書かれたドアを千影は押した。

 カランと乾いたベルが鳴る。湿った木の匂いと濃いコーヒーの匂いが、同時に鼻をくすぐった。

 カウンターの中に男が一人。

 長身、無精ヒゲ、無表情。白いシャツに黒いエプロン。手元のコーヒーカップを布で丁寧に磨いている。

(——怖っ)

(……でも意外とイケメンだな、この人)

(無精ヒゲなのに整ってるっていうか。あと手が綺麗だ)

 千影は小さく深呼吸をして喉の奥に声を落とした。

「真白千影です。本日はよろしくお願いします」

 ——声が上ずった。

 慌てて低く戻す。

(危ない)

(今日は男装モードなのに初手でボロ出すところだった)

 男はカップを置き、顔だけこちらに向けた。履歴書を受け取って黙って目を通している。無表情。

(怖い)

(この人の顔、感情のスイッチどこにあるの?)

 視線が紙の上を左から右へゆっくり動いていく。

 ふとカウンターの端に目をやった千影はコーヒー豆の袋が倒れかけているのが視界の端に引っかかってつい口を開いた。

「あ、すみません、豆の袋、倒れかけてます」

 男が振り返り、片手で袋を立て直した。

「……よく気づいたな」

(……言わないほうが面接の印象、良かったかも)

(でも気づいたのに黙ってるのは、嫌だ)

(昔からそう。損な性格だってわかってるけど)

 男は履歴書をカウンターに置くと千影の顔を正面から見た。

「一つだけ、言っておく」

 一拍置いて低く続ける。

「——俺は嘘が嫌いだ。だから、正直に答えてほしい」

 千影は頷いた。

(ずいぶん重い前置きだ……)

「役者志望か」

「はい、役者志望です」

(あ、経歴見てくれたんだ)

「何か、隠してることは」

 ——胸のうちでわずかにムッとした感情が走った。

(隠してること? ないです)

(私は昔から正直者だ。嘘が下手で隠し事なんて早々できやしない)

(だから役者としては、まだまだなんだけど)

 千影は背筋を伸ばして答えた。

「自分の演技にまだ自信がないんです。だから日常でも役に入り込んで鍛えてます。この話し方も振る舞いも役作りの延長です」

(事務所の社長に「お前はまだまだ演技力が足りない。二十四時間役に入り込んで特訓しろ」って言われてるし)

(バイト中もイケメン男子を演じるのが修行なんだ)

(……ちょっと恥ずかしいこと言ったかも)

(でもこれが正直な私の答えだ)

 男はしばらく黙って千影を見ていた。

 感情のスイッチはあいかわらずどこにあるのかわからない。

「正直だな」

「嘘をついて入っても迷惑をかけるだけですから」

 千影はそう言った。そう思っていたから。

「——採用だ」

(え、もう?)

(受かった!)

 ——顔には出さない。役作り中だ。

 男はカウンターの奥に戻り、ネルを吊るしたポットで静かに湯を回し始めた。ゆっくりと豆の膨らみを見ながら、湯を注いでいく。無駄のない手つき。指の関節が湯気の向こうで動いている。

(……あの手、綺麗だな)

(指、長い。爪、短い。カップの持ち方、変な角度で持たない)

 湯を落とし終えると男は一杯のコーヒーをカップに注ぎ、千影の前にそっと差し出した。カップの持ち手はこちら側を向いている。

(……あ)

(利き手に合わせてくれてる)

(怖い顔して気遣い細かいな、この人)

 千影が手を伸ばした。

 ——カップの持ち手を取ろうとした瞬間、男の指がカップから離れるのが、一拍、遅れた。

 千影の指先が男の指の腹にほんの一瞬だけ触れた。

 反射的に手を引きそうになる。

(——ダメだ、男装モード、男装モード)

 表情を止めて何事もなかった顔でカップを受け取った。

 男は一度だけ、眉を寄せて口を開いた。

「……悪い。離すのが、遅かった」

「いえ」

 男の視線はもう千影の指には向いていない。自分が離し損ねたカップのほうをちらりと見てそれから布を取ってカウンターを拭く作業に戻った。

(……今のが「ビクッ」って見えてなかった?)

(見えてなかったよね?)

(マスターの目、カップのほう向いてたよね?)

 千影はそっと息を吐いた。

 カップを両手で包む。陶器の表面は火傷しそうなほど熱くはなくてちょうど手のひらに馴染む温度だった。

 一口、すする。

 ——苦い。

 でも嫌な苦さじゃない。甘さに逃げていない。雑味がない。潔い。飲み込んだ後に舌の奥にじんわりと余韻が残る。

(……なんだろう、このコーヒー)

(正直な味がする)

(この人みたいに。怖い顔してでも嘘がない)

(……あの手で淹れたんだな)

「あのこれ……なんていうブレンドですか」

「うちのブレンドだ」

「……名前は?」

「うちのブレンドだ」

(……名前ないんだ)

 マスターはもうカップを磨く作業に戻っている。

(コミュニケーション、以上って感じの人だな)

(でもこのコーヒーは覚えておこう。正直な味)

 東堂柊一、とその人は名乗った。マスターでいい、と。

 面接は何の問題もなく終わった。千影は正直に答え、柊一は正直な人間を採用した。二人とも満足している。誰も嘘をついていない。完璧な面接だった。



 初日の営業が終わった。

 日が傾き始めた時間、最後の客がドアを押して出ていった背中を見送ると店内はしんと静かになった。

 千影はエプロンの裾で手を拭って椅子に歩み寄った。

「手伝います」

「……好きにしろ」

 二人で椅子を一脚ずつテーブルの上に上げていく。カウンターから奥のボックス席までほぼ無言。柊一の大きな手が木の椅子の背をつかんで音を立てずに持ち上げる。

(……静かだな、この人)

(椅子を上げる音さえ、抑えてる)

 マスターはカウンターに戻り、最後の仕事にコーヒーカップを磨き始めた。

 布が陶器の丸みをゆっくりと撫でる。ひとつ磨いては、光にかざし、もう一度撫でる。ひとつ、また、ひとつ。

(あの手、やっぱり綺麗だな)

(……綺麗だなって思っただけ)

「明日もよろしくお願いします」

「ああ」

 千影はエプロンを外して鞄を肩にかけた。ドアのほうへ歩きかけて——ふと振り返った。

 柊一はまだ、カウンターの中でカップを磨いている。一人で。ぽつんと。客の気配が消えた店で同じ動作を繰り返している。

(……意外とイケメンだったな)

(怖い顔してるのにコーヒーを淹れるときだけ、違う顔になるんだ、あの人)

 千影はそっとドアを押した。カランとベルが鳴る。



 夜道。

 足取りが軽い。

(受かった。よし)

(マスター怖い顔してたけど、コーヒー、美味しかったな)

(明日からちゃんとやっていけるかな)

(コーヒーの淹れ方、もっと練習しないと)

(あの手みたいに淹れられるようになりたい)

 春の夜風が首筋を撫でていく。気持ちいい。男装モードの低い声の癖がまだ喉の奥に残っている。鼻歌が出そうになって千影は慌てて唇を結んだ。

(男装モードだから、抑える)

(……でも口の中だけで歌う分には、いいよね)

 小さく唇を閉じたまま、適当なメロディを口の中で転がす。

(明日は何時に行けばいいんだろ)

(開店準備、手伝えることあるかな)

(……マスター、また怖い顔で「好きにしろ」って言うのかな)

 少しだけ笑って千影は歩いていった。

 街灯の影が足元で一歩ごとに伸びたり縮んだりしている。

 ——この時の私は気づいていなかった。履歴書に性別欄がなかったことも。自分の性別を一言も告げていなかったことも。

 もし、ただ一言だけ、何も考えず、素直に「女です」と言っていれば。たぶん、全ては丸く収まっていた。


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