第八話 鉄板ナポリタン事件
その日の夕方、千影は事務所からの帰り道で駅前の小さな書店に立ち寄っていた。
今日は明日のバイトの前日で女装モードの「白河凛」で動く日だった。長めのウィッグ。淡い色のニット。脚を強調しないテーパードのパンツ。リップは控えめ。鏡で何度も発声を確認した白河凛の声。
次のオーディションで使う台本に役立ちそうな、薄い小説を探していた。
演劇関連の薄い書架のいちばん奥。指を伸ばして背表紙の細い一冊を取ろうとしたとき、隣の棚からすっと長い指の手が伸びてきた。
「これ、お探しですか」
——低い声。
聞き覚えのある、低い声。
千影の指が止まった。心臓も止まった。
顔を向けないまま、視界の端だけで隣の棚を見た。
——東堂柊一が千影が取ろうとしていた本を棚から取ってこちらへ差し出していた。
長い指。手の甲のしわ。爪の短さ。毎日カウンターで見ている、あの手。
(——どうして)
(なんでマスターがここに)
千影は息を腹の奥のほうから吸い直した。低くしていた声を慌てて女性の声に作り変える。「白河凛」の発声。
「あ……ありがとうございます」
声が震えそうになるのを腹の力で押さえつけた。本を受け取る。指先が触れそうになって反射的にほんの少し引いた。
柊一は本を渡したあと顔を上げて千影の顔をじっと見た。
一秒。二秒。
千影の血が指先のほうからすうっと下がっていった。
(——見られてる)
(バレる)
(バレる、バレる)
白河凛の表情を必死で動かさない。眉の角度を変えない。口元の力を抜く。
柊一が軽く眉を寄せて口を開いた。
「……失礼。人違いだった」
「え?」
「うちのバイトに似てた」
千影の心臓が跳ねた。
しかし柊一はもう一度、首を傾けて千影の顔の輪郭を目だけで一回なぞった。それからふっと視線を逸らした。
「いや。よく見たら、別人だ。——失礼した」
そう言って柊一は反対側の棚へ長身を回した。コーヒー関連の書架のほうへ迷いのない足取りで歩いていく。背中だけを残して。
千影はその場に立ち尽くしていた。本を抱えた手がちょうど胸の前で震えていた。
白河凛の声をあと一度だけ、軽く喉で確認する。声を表情に貼り付ける。
「ありがとうございましたー」
会計のとき、店員に渡した小銭が指から零れ落ちなかったのが、奇跡のような気がした。
自動ドアを抜けて歩道を一歩、二歩。
角を曲がって人気のない路地に飛び込んだ。
千影は電柱に手を突いてようやく息を吐いた。
「——っ、はあ、はあ、はあ……」
膝が震えていた。
(生きてる)
(私、生きてる)
(バレなかった)
(「別人だ」って言ってくれた)
電柱に額を一度押し付けた。冷たいコンクリートの粒の感触が額の汗を吸った。
(マスターの目)
(一瞬、本気で私を見てた)
(あの目で見られたのは、初めてだ)
(バイトの私を見るマスターの目とは、違った)
(観察してる、みたいだった)
(あの数秒、私は——)
千影は電柱に背中を預けた。空を見上げた。電線の隙間から暮れかけた紺色の空が一筋だけ見えた。
(明日はバイト日だ)
(男装モードに戻していつも通り、カウンターに立たないといけない)
(マスター。明日、私の顔を見たら、思い出すのかな)
(「あの書店の人に似てる」って)
(……それとも忘れてくれるかな)
夜風が千影のニットの裾を一度、めくり上げて降ろした。
何もなかった顔で明日も働く。何もなかったように。
それが、できるのかな。
翌朝。
千影はマンハッタンの裏口の前で深呼吸を一つだけした。鏡の前でもう一度、男装モードの低い声を口の中で確認した。
ドアを押す。
「おはようございます」
カウンターの中、柊一が振り返った。
「おう」
それだけ。千影の顔を本当に一瞬だけ見てもう手元の作業に戻っている。
(……気づかれてない)
(マスターの中に、「あの書店の人」と、「バイトの千影」は、別人として残ってる)
千影はエプロンを取って首から掛けた。後ろで紐を結ぶ手がいつもより、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。
その日はいつもより少しだけ、柊一の手元を見るのが、怖かった。
昼下がりのマンハッタン。
常連の高校生がカウンターの隅で粘っていた。体格のいい男子高校生のほうが、半分テーブルに突っ伏すようにメニュー表を恨めしそうに眺めている。
「マスター」
「なんだ」
「ナポリタン、食べたい」
「……ここはコーヒー専門店だ。飯屋じゃない」
「マスター、それ、もう何回も聞いた」
「だから、何回も同じことを答えてる」
男子高校生は隣の友人と顔を見合わせた。それから息を一つ吸って宣言するように両手を広げた。
「マスター。俺、サンドイッチ全種制覇したんすよ。ケーキも、もう全部食い尽くしたんで」
「……」
「もう、この店で食うものが、ないんです」
「……知らん」
男子高校生はしばらく天井を見てそのあとで悪気なく、ぽろっと言った。
「ナポリタンとか、出ないんすか」
「……」
「俺、この店、好きだから、ここで食いたいんすよ」
「……」
「ナポリタンぐらいなら、店長、ちゃちゃっと作れちゃうんじゃないすか?」
——柊一の手が止まった。
布がカップの上で動きを忘れた。
千影はカウンターの内側でその背中を横目で見ていた。
(……マスター)
(その止まり方、知ってる)
(カチン、って音、聞こえそうな止まり方)
柊一がゆっくり、振り返った。
「……アンタ、名前は?」
男子高校生がぽかんとした。
「俺すか?」
「アンタしかいないだろ」
「桐島蓮司です」
「……桐島」
柊一はカウンターの天板に布を置いた。
「三日後、また来い」
「……え?」
「三日後だ」
蓮司はしばらく口を開けてそれからゆっくり、満面の笑みになった。
「マジっすか!」
「……マジだ」
柊一はそれだけ言って奥のレシピノートを取りに厨房へ消えた。
千影は磨きかけのカップを天板に置いて口の端で笑いを噛み殺した。
(「ちゃちゃっと」が、効いたな)
(マスターの「ちゃちゃっと」を雑にやってると思われたくない、っていうこの人の地雷をピンポイントで踏んだ)
奥の厨房からコーヒーミルではない、何かを叩く乾いた音がことことと聞こえ始めた。
千影は布を絞り直してカウンターを拭く作業に戻った。
(……いつからこうなんだろう)
(「しかたない」って言って追い返してた人なのに)
(最近のマスター、「やる」って決めたら、ちゃんとやるんだよなあ)
(……たぶん、本人は自覚ないんだろうけど)
厨房の奥からまた、ことことと音が続いていた。
三日後。
夕方の時間帯、ドアのベルが乾いた音を立てて桐島蓮司が満面の笑みで店に飛び込んできた。
「マスター! 来ました!」
「……座れ」
「はい!」
蓮司はカウンターの一番手前の席に勢いよく腰を下ろした。両手をカウンターの上で組んでまるで授業の挨拶を待つ小学生のように背筋を伸ばしている。
柊一は無言で厨房に下がった。
奥からフライパンが熱せられる音が立ち上った。続いて玉葱とピーマンを炒める、香ばしい匂い。ベーコンの脂の音。それから太めの麺をフライパンに放り込んでケチャップを絡める音。最後に別の鉄板の上で薄く卵が広げられる気配。
数分後。
柊一は店内の客の視線を全部背中で受けながら、鉄板を一枚、両手で運んで出てきた。蓮司の前にゴトッ、と置いた。
ジュウジュウ、と音が立った。
熱々の鉄板の上に薄焼き卵が一面に敷かれていてその上にケチャップの色を吸った太麺のナポリタンがこんもりと盛られていた。湯気が鉄板の縁から立ち上る。麺の表面のケチャップが軽く焦げた香ばしい匂い。
「……うわっ」
蓮司が椅子の上で半立ちになった。
「これ、これっ、めっちゃ、ジュウジュウいってる」
「冷めるぞ」
「いただきますっ」
蓮司はフォークを取って麺を一掴みすくい上げた。卵の縁が鉄板から麺に巻き付いてくる。一気に口に運ぶ。
「——うめえ!!」
店内の客が一斉に蓮司のほうを向いた。
「うっめえ! マスター、これ、めっちゃうまいです!」
蓮司は二口目、三口目と勢いを止めずに食べていく。フォークが鉄板を叩く軽い音とジュウジュウという音が店内に競い合うように響く。
柊一は無表情でカウンターの中に戻っていた。布を取ってまた、カップを磨き始めている。
(なぜ、俺はフライパンを振っているんだ)
(コーヒー専門店だぞ、ここは)
しかし、布を持った手がふっと止まった。
蓮司が二杯目の大盛りを「もう一回お願いしますっ」と頭を下げて頬を紅潮させながら鉄板に向き直っている。三杯目を頼む頃には、もう何も話さず、ひたすら麺と卵を口に運んでいた。
柊一の口元がほんの一ミリだけ、緩んだ。すぐに引き締めた。引き締めたつもりだったが、布を握る手の圧がいつもより、ほんのわずかだけ抜けている。
千影はカウンターの内側からその横顔をちらりと見た。
(マスター、嬉しそう)
(……絶対に認めないだろうけど)
柊一がふと千影のほうを向いた。
「千影」
「はい」
「お前も食うか」
「え、いいんですか」
柊一は何も答えずにもう一度厨房に下がった。フライパンの音とケチャップの匂いが、もう一度立ち上る。数分後、千影の前にも湯気の立つ鉄板が一枚、置かれた。
「いただきます」
千影はフォークを取って麺を一掴み、口に運んだ。
ケチャップの甘み。麺の少し焦げた香ばしさ。卵の優しい甘さ。ベーコンの塩。
「……美味い」
千影は一拍だけ、目を細めた。
「これ、本当に三日で作ったんですか」
柊一は何も答えずに布を取り直した。カップをもう一度磨き始める。
(……なぜだ)
(蓮司が食ったときと千影が食ったときで自分の中の手応えが、違う)
(蓮司の「うめえ」も悪くない)
(けど、千影の「美味い」は……)
(なんだ、この安心感は)
柊一はそれ以上、その違いの正体を追わなかった。
(……まあ、いい)
(味が良ければいい)
(それだけだ)
布を握り直してもう一つカップを取って光にかざした。
その日のマンハッタンはいつもより、客が多かった。
ボックス席では、女子高生と男子高生の二人組が額を寄せて何やら深刻な顔で会議をしていた。「だから、彼に告白するなら、文化祭の前か、後か、っていう問題なのよ」「……俺は、後派かなあ」「私は前派」と白熱している。
(——付き合えばいいのに)
柊一はカウンターの中で彼らの肩越しに鉄板の余熱を冷ましていた。
別のカウンター席には、明らかに口喧嘩中の男女が隣同士に並んで座っていた。横を向いて互いに目を合わせない。
「……べつに隣に座りたかったわけじゃ、ない」
「……私もたまたま、ここしか空いてなかったから」
(座る場所がなかったなら、別の店に行けばいいだろう)
柊一はそう内心で吐き捨てて二人の前にコーヒーを置いた。
蓮司はもう三杯目を平らげて満腹そうにカウンターに突っ伏していた。
(うるさい)
(……まあ、いい)
(コーヒーの味は変わらない)
柊一は自分のために淹れた一杯のブレンドを口元に運んだ。
その夜。
律はいつものように副菜のタッパーを抱えて隣のドアの前に立った。
ポケットから合鍵を取り出そうとしたところで、ドアが内側からふっと開いた。
「あ、瀬尾くん」
彩音が寝間着ではなく、まだ仕事帰りのブラウス姿で玄関に立っていた。
「また、余ったの?」
「……余りました」
「今日は中で食べていきなさいよ。一人で食べるの味気ないし」
「えっ」
「いいでしょ?」
律は断る言葉を頭の中で組み上げかけて結局、頷いていた。
「……お邪魔します」
彩音の部屋に上がる。リビングに通される。前回、寝落ちしていたソファのある部屋。
律はリビングの壁際に並ぶ、背の高い棚に目を奪われた。
ブルーレイディスクがぎっしり。棚の高さの三分の二まで背表紙が並んでいる。
「……ドラマのブルーレイ、すごい量ですね」
彩音の目がぱっと輝いた。
「ああ、それ!」
彩音は棚の前に駆け寄った。
「全部、宗方鉄哉監督の作品なの。学生の頃からの大ファンで」
「は……はあ」
「もうね、心がぬぅぅぅぅぅん、ってなるような、切なさの奥に潜む、甘苦い恋模様がたまらなくてねぇ」
「ぬぅぅぅぅぅん……」
律は繰り返した。意味はまったく、わからなかった。
彩音は棚の中でもいちばん目立つ位置に飾ってある一枚を迷わず引き抜いた。
「これ!」
「はい」
「まず、これを観て。『隣の窓』。宗方監督の最高傑作」
「最高傑作」
「もうね、隣同士に住んでる二人の話なんだけど、一人が毎日、相手に手料理を作り続けるの」
——律の喉が半拍だけ詰まった。
(隣同士。毎日、手料理)
(……)
「でも相手は全然、気づかないの。料理に込められた想いに」
(……気づかない)
「切なくて温かくてもう、ぬぅぅぅぅぅん、どころじゃない。号泣。号泣よ」
「……面白いんですか?」
律は思わず手を伸ばしかけた。
「借りようかな」
「もう最高よ!」
彩音は両手でブルーレイケースを胸の前に抱えて興奮して続けた。
「最終回なんてね、ずっと『余ったから』って嘘ついて差し入れしてた側が最後に『余ってない。お前のために作った』って言うの。そこで画面が——」
律の手が空中で止まった。
(……余ったから)
(……差し入れ)
(……僕がやってることと同じだ)
彩音はまだ興奮していた。
「——でもう一人が、『知ってた。ずっと余ってなかった』って返して。二人の間にある壁が全部、溶けて。性別という壁を越えて二人の愛が結ばれるのが、もう——」
「え?」
律の声が出た。
彩音が止まった。
彩音の口元がピクッと不自然に固まった。それからゆっくり、左右に動いて最後に申し訳なさそうに半分だけ笑った。
「ごめん」
「……はい」
「これ、律くんには、ダメだわ」
「えっ」
彩音は何も言わずにブルーレイケースを棚に戻した。律の手の前からケースがすっと消えた。
「……えっ、なんでダメなんですか」
「ダメ」
「何が」
「まだ、早い」
「何がですか」
彩音はもう別の一枚を棚から引き抜いていた。
「こっちにしなさい」
「……はい」
「『沈黙の果て』。言えない想いがテーマ。これなら、大丈夫」
「(……何が大丈夫なんですか)」
律は口の中だけでそう呟いた。
彩音は満足げに新しい一枚を律の手に押し付けてテーブルに副菜を並べる作業に戻った。鼻歌交じりに箸を二膳並べている。
律は押し付けられた『沈黙の果て』のケースを両手で受け取ってぼんやりと表紙を見た。
帰宅後。
律は自分の部屋で押し付けられた『沈黙の果て』を机の上に置いてそれからスマホを取り出した。
検索窓にさっきの作品のタイトルを打ち込む。
「隣の窓」。
検索結果が画面に並んだ。
あらすじ。レビュー。ジャンル。
律の指が画面の上で止まった。
ジャンルの欄にはっきりと書かれていた。
「男性同士の恋愛もの」。
律は画面を二回、瞬きしながら読み直した。
(先生のいちばんのお気に入りが)
(……BL……?)
律はスマホをローテーブルの上に伏せて置いた。
しばらく、天井を見上げた。
(……いや、それは、先生の趣味だ)
(趣味は自由だ)
(趣味は自由)
(——でもなんで僕にいちばんに勧めようとした?)
(僕が男だから?)
(先生、もしかしてかなり、ズレてないか?)
律は伏せたスマホの背面を指の腹で一度、軽く撫でた。
それから机の前まで歩いて椅子に座って原稿用紙を取り出した。書きかけの感想文の四行目。彩音の赤ペンの丁寧な字が空白の隣で待っていた。
(……隣同士)
(毎日、手料理)
(気づかない)
(……それ、僕と先生じゃないか)
(僕は毎日、先生に差し入れを作ってる)
(「余ったから」って嘘をついて)
(先生は気づいてない)
律は原稿用紙の四行目にシャーペンの先を当てかけてそのまま、止めた。
(……先生は全部、見てるのに何も見てない)
(自分が号泣したドラマと同じことが、目の前で起きてるのに)
(先生が好きな、ドラマの主人公と僕がやってることは、同じなのに)
(先生は気づかない)
(ドラマでは、泣くのに)
(現実では、何も見えてない)
律はシャーペンを原稿用紙の上に置いた。
しばらく、机に肘を突いていた。
ふと頭の隅で別のことが、引っかかった。
(千影さんが、マスターを見る目)
(あれが、また、引っかかった)
(……考えすぎ、か)
律はその引っかかりもペンと一緒に机の端へ寄せて原稿用紙の白い四行目をもう一度、ぼんやりと見た。




