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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第4部「答え合わせ」

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第三十六話 冬のマンハッタン

 冬。

 あの秋のドラマ最終回の夜から三ヶ月、経っていた。

 窓の外で通行人の白い息がガラスにふっ、と映っては、消えた。

 マンハッタンの中は暖房とコーヒーの湯気で温かかった。

 律と彩音がベランダで毎晩、話すようになってもう、三ヶ月になる。

 顔の見えない、距離で。

 声だけで。

 少しずつ、「先生と生徒」、以外の話をするようになった。

 好きな、映画。

 苦手な、食べ物。

 子供の頃の話。

 ——律は知った。

 彩音が宗方監督のドラマを観るとき、いつも毛布にくるまること。

 ——彩音は知った。

 律が雪の日に窓を開けたがること。

 そういう、秋と冬、だった。




 平日の夕方。

 マンハッタンはいつもの常連でほぼ、埋まっていた。

 ボックス席。

 桐生と高峰が隣り合って座っていた。

 半年前は向かい合って座っていた二人がいつの間にか、同じ側に並んでいた。

 高峰が桐生の肩にもたれていた。

 桐生は何も言わなかった。

 向かい側の席では、蓮司が小鳥遊のケーキの端をフォークで突ついていた。

「それ、美味いか」

「……うん」

「うん、じゃ、わからん」

「甘い」

「……そうか」

 蓮司はそれ以上、聞かなかった。

 カウンター端。

 佐伯と長谷川が並んで座っていた。

 佐伯は黙って長谷川の分のコーヒーも最初から注文するようになっていた。

 長谷川はもう、「頼んでない」、と言わなく、なっていた。

 ——カウンターの中で。

 柊一と千影が自然に並んで立っていた。

 肩が触れそうな、距離。

 触れても気にしない、距離。

 千影は常連たちの前で声を低く、作る、回数が減っていた。

 素の声で、「ありがとうございます」と言う、頻度が増えていた。




 カウンター席に律がいた。

 その隣に彩音が座っていた。

 店内では、もう、二席、空けない。

 隣り合って座る。

 ただし、二人の手はカウンターの上に揃って置かれていてくっつかない、ぎりぎりの距離を保っている。

「——律くん」

「はい」

「今日、学校で廊下、すれ違ったとき」

「はい」

「先生に挨拶、できてたね」

「はい」

「えらい」

「……先生、そういうのやめてください」

「何が」

「褒めると耳が赤くなるんです」

「知ってる」

「ずるい」

「知っててやってる」

 律がコーヒーに口をつけた。

 彩音がコーヒーに口をつけた。

 律がカップを置いて少し、俯いた。

「——彩音、さ——」

「ん?」

「……先生」

「今、何て言いかけた?」

「何も言ってません」

「言いかけたでしょ」

「言ってません」

「ふふ」

 彩音はカウンターの下で指先だけ、律の小指に一秒、触れた。

 触れて離した。

 律の耳が赤くなった。

 千影はカウンターの内側でカップを磨いていた。

 磨きながら、目だけで見ていた。

(……毎日、攻防してるな、この二人)

 柊一もカップを磨いていた。

(……あの二人、最近、距離がおかしい)

(隣人ってだけにしては、妙だ)

(……まあ、俺が口を出すことじゃ、ない)




 千影のエプロンのポケットでスマホが震えた。

 鷹宮社長。

『次クールの新作、ヒロイン、確定。宗方さんのご指名よ』

 千影はスマホを見て小さく、息を吐いた。

 吐いてから柊一を見た。

「——マスター」

「ん」

「次のドラマも決まりました」

「また、店が荒れるのか」

「今度はロケ地、別の場所です」

「……そうか」

 柊一がカップを棚に戻した。

 戻す、手が一拍だけ、止まった。

 千影はその一拍を見ていた。

(……マスター)

(今、ちょっとだけ、残念そうだったのは)

(——気のせい、かな)

 千影はスマホをポケットに戻した。

 半年前と違って。

 「白河凛」、としての仕事とマンハッタンのバイト、を——

 二重の嘘、では、なくて。

 二つの居場所、として両立していた。




 ——そのとき。

 ボックス席の桐生が立ち上がった。

 カウンターに歩み寄ってきた。

「——マスター」

「なんだ」

「あの」

「なんだ」

「——ラーメンとかって」

 カウンターの空気がぴたっ、と止まった。

 高峰がボックス席から首を伸ばした。

「はぁ? ここ、喫茶店、でしょ」

「いや、家の近くのラーメン屋が無くなっちゃって」

「知らないわよ、そんなの」

「他に美味いとこ、知らなくて」

 蓮司がボックス席からツッコんだ。

「喫茶店にラーメンはねえだろ」

 佐伯がカウンター端から。

「さすがに無理だろ」

 長谷川が佐伯の横から。

「常識で考えなさいよ」

 千影もカウンターの内側で口元を押さえた。

(……ラーメンはさすがに無理でしょ)

 カウンターの内側で。

 柊一が布を畳んで置いた。

 置いてから桐生を見た。

「——アンタ、名前は?」

 ——その瞬間。

 店内の時間が止まった。

 常連たちが、一斉に顔を見合わせた。

 蓮司がボックス席で前のめりになった。

「おい」

「え」

「まさか」

 千影もカウンターの内側で目を見開いた。

(その聞き方は)

(——まさか)

(いやいや)

(ラーメンだよ?)

「桐生、悠真です」

「……ある」

「え?」

「え?」

「え?」

「は?」

「は?」

「ええっ!?」

 千影の声が一番、裏返った。

 柊一は無言でカウンターの奥に引っ込んだ。

 厨房の戸の内側で何かが、動く、音。

 湯の沸く、音。

 麺を茹でる、音。

 数分、後。

 ——湯気の立つ、丼がカウンターに置かれた。

 澄んだ、スープ。

 黄色みの強い、手打ち麺。

 柊一、特製のローストポークが三枚。

 ネギの刻みが、すごく、細かい。

「……お待ち」

 店内の常連が全員、カウンターに集まっていた。

 桐生がカウンターのスツールに座り直した。

 レンゲでスープを一口、啜った。

 啜った瞬間、目が見開かれた。

「——うまっ!!!」

「おい、ラーメン出すのかよ、この店」

「スープも麺もなんだこれ!?」

 柊一はカウンターの内側で腕を組んでいた。

「手打ちだ」

「手打ち!?」

 千影が叫んだ。

「いつ、打ったんですか」

 蓮司が続けた。

「聞くな」

「なんで!」

「うるさい」

 彩音がカウンター端から手を挙げた。

「——マスター、私も一杯、頂戴!」

 柊一が天井を見上げた。

 見上げて小さく、息を吐いた。

「……しかたない」

 また、厨房の戸が動いた。

 数分、後。

 もう一杯がカウンターに置かれた。

 彩音がレンゲを取った。

 律が彩音の隣から身を乗り出した。

「——先生、一口、いいですか」

「どうぞ」

 律がレンゲでスープを一口、啜った。

 ——黙った。

 もう一口、啜った。

 ——また、黙った。

「……マスター」

「なんだ」

「これ、本当に喫茶店で出していいんですか」

「コーヒー専門店だ」

「……どこが)

 律の最後の一語は口の中で消えた。

 彩音が律のレンゲを取り返した。

「私のラーメン」

「すみません」

「ふふ」

 千影はカウンターの内側で額を手で押さえていた。

「——マスター」

「なんだ」

「なんでラーメンがあるんですか」

「……」

「いつ、作ったんですか」

「……」

「マスター」

「……秋からだ」

「秋!?」

「……ああ」

「三ヶ月!?」

「……ああ」

「いつもは、三日、なのに!?」

「……うるさい」

 柊一はカウンターを拭き始めた。

 拭きながら、視線を合わせなかった。

「しかも手打ち麺!?」

「……」

「厨房で何、やってたんですか、ずっと!?」

「聞くな」

「マスター!」

「聞くな」

「この店って何屋ですか!?」

「コーヒー専門店だ」

「もう、何も専門じゃ、ない!!」

 店内の常連が全員、笑い出した。

 桐生が高峰に自分の丼のスープをレンゲで一口、渡した。

 高峰が一口、啜って無言で頷いた。

 蓮司が、「次、俺」、とカウンターに身を乗り出した。

 佐伯と長谷川が同時に手を挙げた。

 柊一がもう一度、天井を見上げた。

「……しかたない」

 千影はカウンターの内側でカップを磨く、手が止まっていた。

 止まったまま、柊一を見ていた。

(三日じゃ、なくて三ヶ月)

(この人、裏で何をしてたんだ)

(……何を作っても客に出すためじゃ、なくて)

(「ある」、って言えるように仕込んでた)

 窓の外で雪の欠片がひとつ、ふたつ、落ち始めた。

 暖房の風がレースのカーテンをふっ、と揺らした。

 マンハッタンの店内に湯気と笑い声が満ちていた。

 ——その真ん中で。

 柊一がカウンターの内側で布を畳んで置いた。

 置いてから千影の隣に戻った。

「千影」

「はい」

「お前の分、食うか」

「……食べます」

「……しかたない」

 柊一はもう一度、厨房に引っ込んだ。

 ——マンハッタンのカウンターに。

 湯気の立つ、丼がもう一つ、置かれる、気配だけが、あった。


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