第三十五話 全ペアの放課後
春が来て夏が過ぎた。
桜が散った。
蝉が鳴いた。
商店街の風鈴が片づけられた。
その間もマンハッタンは毎日、開いていた。
柊一がコーヒーを淹れ、千影がカウンターに立ち、彩音が放課後に来て律が閉店までいた。
——何も変わらない、日常。
ただし、全員が少しだけ、正直になった日常。
柊一が千影の淹れたコーヒーを毎朝、飲むようになった。
千影が次のドラマの脚本をカウンターの隅で柊一に見せるようになった。
言葉は相変わらず、少ない。
でもカウンターの中の空気が変わっていた。
秋。
窓の外の街路樹が色づき始めた夕方。
マンハッタンは全常連が揃っていた。
夏のクールから放送されていた千影のドラマ——『カウンターの向こう側』。
その最終回が今夜、放送される。
柊一はカウンターの内側から店内を見渡していた。
ボックス席。
高峰の連れの男子高校生が高峰の隣に座って何も言わずにコーヒーを飲んでいる。
(嘘がつけないだけの不器用な、正直、だな)
カウンターの端。
長谷川が、「別にあんたと来たくて来たんじゃ、ないし」と言いながら、佐伯の隣に座っている。
(誰も信じてない、嘘だ)
いつもの席で蓮司が小鳥遊に向かって今日も同じことを言っていた。
「ここのコーヒー、最高」
「うん」
小鳥遊が笑った。
(——あいつだけが、正直者だな)
カウンターの中で千影がコーヒーを淹れていた。
ふと顔を上げた。
柊一と目が合った。
千影の顔がふっ、とほどけた。
素の顔。
(……その顔で客の前に出るな)
(……いや)
(その顔のほうが、いい)
(……何を考えてるんだ、俺は)
彩音はカウンター席でコーヒーを飲んでいた。
隣——いや。
二席、空けた先に律が座っていた。
店内では、「先生と生徒」の距離。
(二席、空けてるのが、ちょうどいい、距離なのよね)
(近すぎず、でも声は届く)
(……でも今日の律くん、ちょっとおかしい)
律が自分のコーヒーに砂糖を入れたついでに彩音の方に砂糖壺を押した。
一回目は自然、だった。
律が自分のコーヒーを一口、飲んで少し、経ってから砂糖壺をまた、彩音の方へ押した。
二回目で彩音は気づいた。
三回目。
彩音は口元を掌で押さえた。
「——瀬尾くん」
「はい」
「砂糖はもう、足りてるわよ」
「あ、すみません」
律はスプーンをそっ、とソーサーに戻した。
彩音はコーヒーに視線を落とした。
(可愛い)
(……でもバレるから)
(ここでは、先生と生徒、なんだから)
(我慢、しなさい、律くん)
(……我慢、しなさい、私)
カウンターの中で千影がカップを磨きながら、目だけで二人を見ていた。
(あの二人)
(バレバレ、なんだけど……)
柊一はポットの湯を注ぎながら、律の手元を目だけで確認した。
(……律の挙動がおかしい)
(先生に砂糖を三回、渡した)
(先生は二杯目だ)
(……まあ、俺が口を出すことじゃ、ない)
そのとき——
カウベルが鳴った。
扉から学生服姿の男子が入ってきた。
「あれ、瀬尾?」
律の肩が跳ねた。
「ここ、来てんだ」
「……うん」
「——あ」
同級生がカウンターの先を見て目を丸くした。
「日野先生!」
「——!」
彩音の背筋が一センチ、伸びた。
「先生もこの店、来るんですか」
(来た)
(学校の子だ)
(……担任じゃ、なくなっても学校で会えば先生と生徒)
(大丈夫)
(私はここの常連)
(律くんは、学生パスの客)
(それだけ)
(それだけ、のことよ)
「え、あ、はい」
「た、たまたま、です」
律と彩音の声が重なった。
「私はここの常連、だから」
「偶然、です」
「……へー」
同級生がカウンターに腰を下ろした。
「先生と瀬尾って仲、いいんだ」
「別に仲良くないです」
「そうそう、たまたまよ」
——また、声が揃った。
彩音はコーヒーカップに口をつけたふりでカップの裏側を見ていた。
(……声が揃った)
(最悪)
(「たまたま」、が、二回、重なった)
(これ、宗方監督の、『共犯のワルツ』、第五話と同じ展開、じゃ、ない)
(あのドラマでは、この後、バレるのよ)
(やめてやめて)
(——また、宗方監督を引用してる)
(前は、「観客」、として引用してたのに)
(いつの間にか、「出演者」、になってる)
(恋愛のプロが聞いて呆れる、わ)
同級生の首が少し、傾いた。
「?」
その瞬間。
柊一がカウンターの内側からカップを一つ、同級生の前に置いた。
「——学生パスの客か」
「あ、はい、お願いします」
「……座れ」
「ういーす」
同級生の視線がカップに落ちた。
千影がトレイを持ってカウンターの前を通った。
彩音の横を通る、時、小声で。
「先生、張りぼて丸出しでしたよ」
「……うるさい」
千影の口の端が少しだけ、動いた。
彩音はコーヒーを一口、飲んだ。
(……マスター、ナイス)
(秘密ってこういう、ことなのね)
(——手が震えるし、声は裏返るし)
(お洒落でも何でもない)
(ドラマで全話、観たはず、なのに)
(実戦は一話目で詰んでる)
(……いや)
(ちょっとだけ、楽しい)
閉店後。
常連のほとんどが、残っていた。
「マスター」
「なんだ」
「ここで最終回、見ましょうよ」
「ここは、映画館じゃ、ない」
「お願いします」
「お願いします」
誰も動かなかった。
柊一は一度、天井を見上げて息を吐いた。
「……しかたない」
律が通学バッグからノートパソコンを取り出してカウンターに置いた。
「配信で見れますよ」
「よし、これで観るか」
「拍手」
千影はカウンターの内側にしゃがみ込んでいた。
「千影ちゃん、こっち、おいで」
「嫌です」
「千影さん、出ますよ」
「やめて」
画面にドラマのオープニングが流れ始めた。
白河凛が喫茶店のカウンターの内側に立っていた。
画面の中で白河凛が呟いた。
『——好きなのに言えない』
マンハッタンが静まり返った。
全員が同時にカウンターの裏を見た。
千影がカウンターの内側で顔を真っ赤にしていた。
「……見ないで」
「言えよ」
「嫌です」
柊一はカップを磨いていた。
磨きながら、ぼそっ、と呟いた。
「……うまいな、お前」
千影の耳がもっと赤くなった。
最終回のエンドロールが流れ始めた。
律がスマホを見ていた。
「——千影さん」
「なに」
「配信ランキング、一位です」
「え」
「トレンドも、『白河凛』が、一位」
律が画面を千影に見せた。
SNSのハッシュタグが秒ごとに増えていた。
『あの喫茶店、どこ?』
『ロケ地、聖地巡礼、したい』
『マスター役の人、演技じゃ、なくて本物の店主にしか、見えなかった』
千影のスマホが震え続けた。
柳瀬副社長から。
『お疲れ様。雑誌取材、三本、バラエティ、二本、オファー殺到。来週から通常運転の三倍、忙しい』
鷹宮社長から。
『ロケ地の検索数がすごい。店に客、押し寄せる、可能性。一応、伝えとく』
(……来た)
(「ただの女優」じゃ、済まない、レベルの反響)
店の固定電話が鳴った。
柊一が受話器を取った。
「——はい、マンハッタンです」
相手の声が細く、漏れた。
『あのテレビで見たんですが、場所を教えていただけますか』
「……予約は受けない」
「はあ」
「満席のときは、帰ってもらう」
柊一は受話器を置いた。
——すぐ、また、鳴った。
二回、鳴って柊一は受話器を外したまま、カウンターの上に伏せた。
「マスター、それでいいんですか」
律が眉を上げた。
「客は客の順番で来い」
「はあ」
「テレビ見て押しかける分も普通の順番で並んで入る」
千影はその横顔を見ていた。
(この人)
(芯が動いてない)
(社会が騒いでも)
(マンハッタンのルールが揺れない)
店の前の通りで通りかかった若い、女性が二人、立ち止まって看板を撮っていた。
ガラス越しにスマホの小さな、光が見えた。
「……明日からしばらく、大変、そうですね」
律が小声で言った。
「そうか」
「マスター、明日からシフト、増やしますか?」
「いや」
「え」
「いつもの営業で捌けなきゃ、うちの器じゃ、ない」
千影はその横顔をもう一度、見た。
口の端が少しだけ、動いた。
千影のスマホがまた、鳴った。
個別に着信。
鷹宮社長。
「——千影。今、ドラマ、見たわ」
「はい」
「宗方さんから連絡があったの」
「はい」
「次のクールでも使いたい、って」
「……」
「——あとあの喫茶店、また、使えないかって聞かれたんだけど」
千影はカウンターの内側で額を手で押さえた。
「…………鷹宮さん」
「何」
「お願いだから」
「ん」
「勝手に推薦しないでください」
「何、言ってるの。良い店、じゃない」
「はい」
「店長さんもいい人だし」
「いい人、です」
「でしょう」
「いい人、だから、困ってるんです」
「ふふ」
鷹宮の声が電話の向こうで少し、弾んでいた。
「……次のドラマのロケ地なんだけどね」
「はい」
「——また、そのうち、話しましょうか」
(……また、ですか)
千影は視線を柊一に向けた。
柊一は何も聞いていない、顔でカウンターを拭いていた。
「——マスター」
「ん」
「もし……また、撮影の話が来たら、どうします?」
柊一は布を畳む動作を、一拍、遅らせた。
千影を見た。
「……お前が出るのか」
「まだ、わかりません」
「…………来たら、考える」
短い、沈黙。
(「来たら、考える」)
(断らなかった)
(前のマスターなら)
(「もう、勘弁してくれ」、だったはずなのに)
「——鷹宮さん」
「何よ」
「……ありがとうございます」
「は?」
「全部」
「は?」
「三対三対一を飲んでくれたのも」
「……」
「二十四時間、演技しろ、って言ったのも」
「……」
「あの無茶があったから」
「……」
「私は——ここにいます」
電話の向こうで数秒、沈黙があった。
「……何よ、急に」
「はい」
「気持ち、悪い」
「……すみません」
「ふふ」
鷹宮の声の角が少しだけ、取れていた。
電話が切れた。
千影はスマホをエプロンのポケットに戻した。
「——誰だ」
「事務所の社長です」
「……あの派手な、人か」
「え」
「会ったことあるんですか」
「一度、来た」
「え」
「十分で帰った」
「——」
千影はスマホをポケットからもう一度、出しかけてやめた。
(やっぱり)
(来てたんだ)
(……全部、あの人のせい、だった)
(……全部、あの人のおかげ、だった)
常連が一人、また一人、帰っていった。
最後の二人は律と彩音だった。
千影はカウンターの内側で柊一の手元を見ていた。
カップを磨く、手。
いつも通り。
——いつも通り、のはず、なのに。
(……ん)
千影は目を細めた。
「マスター」
「なんだ」
「手に何か、ついてます」
「……気のせいだ」
「爪の間」
「……」
「白い、粉」
「……小麦粉、か」
柊一はカウンターの内側で手を布で拭った。
「片付けのついでに何か、こぼれただけだ」
千影はそれ以上、聞かなかった。
(気のせいじゃ、ない)
(明らかに小麦粉だ)
(……何を作ってるんだろう)
(でもマスターが黙ったら、聞かない)
(それが)
(二人の暗黙の了解、だ)
千影は視線を帳簿に戻した。
——そのとき。
律がドアの前で靴を履きながら、彩音に小声で話していた。
「先生」
「ん」
「マスターの手に白い粉、ついてませんでした?」
「え、気づかなかった」
「ついてました」
「粉砂糖じゃ、ないの?」
「……たぶん、そうですね」
「ふふ、マスターが粉砂糖?」
「似合わないですよね」
「でも可愛い」
「先生、声、聞こえますよ」
二人が顔を見合わせて笑った。
笑って扉を開けた。
カウベルが鳴った。
扉が閉まった。
——マンハッタンに柊一と千影だけが、残った。
柊一はカウンターの内側でカップをもう一つ、磨き始めた。
千影はカウンターの内側で柊一の隣に立っていた。
窓の外で街路樹の葉が風に揺れていた。
千影は店内を見渡した。
蓮司と小鳥遊の座っていた席。
高峰とあの男子高校生の座っていた席。
長谷川と佐伯の座っていた席。
律と彩音の座っていた席。
全部、空になっていた。
でも空席の並び方の中にそれぞれの距離が残っていた。
千影の目の奥が少しだけ、熱くなった。
(嘘から始まった場所なのに)
(ここにいる、みんなが)
(——本物、だな)
「——千影」
「はい」
「戸締まり、頼む」
「はい」
柊一はカウンターの内側でカップを棚に戻した。
千影は鍵を手に取った。
店内の蛍光灯の白い光がカウンターの上で平らに止まっていた。
窓の外に秋の夜の匂いが、した。
——その夜。千影の自宅マンション。
シャワーの熱い湯が、千影の肩を叩いた。
流れた湯が背中を伝って、腰のくびれをなぞり、太ももの裏側を滑って足元のタイルへ落ちていく。
千影は両手をシャワーの下で開いた。白河凛のメイクの粉も、ウィッグの締め付けの痕も、撮影現場の照明の熱も、湯気の中に溶けて流れ落ちていく。
肩を伝う泡が鎖骨の窪みで一度ためらって、胸の膨らみへ滑った。柔らかい稜線。肋骨の窪み。くびれた腹の上。素足の指先で、シャワーの湯がタイルを叩いて跳ねた。
(一年、長かった)
湯気の中で、目を閉じる。
——あの春の朝。男の役者を演じる、その勝負の前のシャワー。同じこの体に、同じこの湯が落ちていた。
(あの朝の私は、これから演じる、と決めていた)
千影は唇を、ほどいた。
(——今夜は、演じ切った、夜だ)
白河凛のメイクを落とす作業も、もう、明日の現場に繋ぐためのものでは、ない。
この湯はただ、真白千影に戻るための、湯だった。
誰にも見せるためではない、自分だけの、夜の湯。
千影はシャワーを止めた。
湯気の中で、髪をタオルで挟む。地毛のショートが、肩のあたりで軽く、跳ねた。
窓の外で、秋の夜風が、街の音を遠くへ運んでいた。




