第三十四話 おやすみ、律くん
翌日。
夕方。
マンションのエントランスで偶然、一緒になった。
律はローファーの踵を鳴らしながら、鍵を指の先で回していた。
彩音はビジネスバッグを肩に掛け直した。
二人とも目は合わなかった。
エレベーターに乗った。
扉が閉まった。
——密室。
律の顔がゆっくり、赤くなった。
彩音の顔もゆっくり、赤くなった。
「……」
「……」
エレベーターの表示が五、に変わった。
六、に変わった。
「——あの先生」
「はい」
「昨日のこと」
「はい」
「夢じゃ、ないですよね」
「……」
彩音は扉の継ぎ目を見つめていた。
「……夢じゃ、ないわよね」
「夢じゃ、ないです」
「そう」
「夢だったら、困ります」
「困る?」
「夢だったら、もう一回、告白しなきゃ、いけないから」
「……ふふ」
彩音の肩が少し、揺れた。
「律くん、ずるい」
「先生の方がずるかったです」
「何が」
「泣きながら、笑うとこ」
「……そう?」
「そうです」
エレベーターの扉が開いた。
廊下の蛍光灯の白い光。
二人は並んで歩いた。
「——ね、律くん」
「はい」
「一つだけ、決めない?」
「はい」
「卒業までは、秘密」
「はい」
「学校では、先生と生徒のまま」
「はい」
「——でも」
彩音は廊下の途中で立ち止まった。
「この廊下と」
「はい」
「お互いの部屋と」
「はい」
「マンハッタンでは」
「はい」
彩音は律を見上げた。
「正直でいましょう」
「……はい」
律は自分のローファーの先を見ていた。
(……学校では、嘘)
(ここでは、正直)
(——僕もずっとそうだった)
(「余ったから」、で隠して)
(本当のことは、ベランダ越しでしか、言えなかった)
(千影さんもマスターに本当のことを言えなかった)
(——嘘が終わる場所を)
(先生と二人で作るんだ)
「——先生」
「はい」
「合鍵、返したほうが、いいですか」
「え」
「誤配達を届ける用、でもらった合鍵、です」
「……」
「付き合う前の理由で渡してもらったものなので」
彩音は唇を一度、噛んだ。
噛んでから首を横に振った。
「返さないで」
「いいんですか」
「……理由はちょっと更新したけど」
「更新」
「付き合う前と付き合ったあとで同じ鍵を持ってる、ってなんか、素敵でしょ」
「……はい」
「差し入れは、どうする」
「続けます」
「え」
「付き合っても先生のごはんが、心配なのは、変わらないので」
「……」
彩音が俯いた。
俯いたまま、小さな、声で呟いた。
「……ねえ、律くん」
「はい」
「彩音って呼んで」
「無理です」
「え?」
「いきなりは、無理です」
「……」
「練習、させてください」
彩音は顔を上げて噴き出した。
噴き出しながら、目の端を指で拭った。
「律くん、ほんとに」
「はい」
「真面目」
「はい」
「——大好き」
「先生、攻撃力、高いです」
「ふふ」
二人のローファーとヒールの音が並んで廊下を歩いていく。
——彩音が歩きながら、ふと声を落とした。
「ねえ、一つだけ、聞いていい?」
「はい」
「寝言で、『りっくん』、って呼んでたの覚えてる?」
律の足が止まった。
彩音も止まった。
「……覚えてます」
「あのベランダの夜よね」
「はい」
「——あれね」
「はい」
「寝言じゃ、なかったの」
「え」
「半分、起きてた」
「……」
「りっくん、って呼んでみたかっただけ」
律は何も言えなかった。
うなじのあたりが、熱かった。
彩音は両手をビジネスバッグの持ち手の前で組んだ。
「ごめんね、ずるいよね」
「——ずるくないです」
「え?」
「嬉しかったので」
「……」
「あのとき、僕たぶん、世界で一番、幸せ、でした」
「律くん」
「はい」
「……それ、直球すぎる」
「すみません」
「褒めてる」
「ありがとう、ございます」
彩音はまた、笑った。
笑い、ながら、また、目尻を拭った。
律の部屋の扉の前。
その隣の扉の前。
二人はそれぞれのドアの前で向かい合った。
仕切り越しの声だけの距離、だった二つの玄関が——
今はお互いの顔が見える、距離にあった。
彩音は自分の鍵を指に引っかけた。
引っかけたまま、回さなかった。
「——おやすみ、律くん」
「おやすみなさい」
律は自分のドアノブに手をかけた。
かけたまま、回さなかった。
「……あや——」
「ん?」
「……先生」
「惜しい」
「練習、します」
「毎晩、する?」
「……毎晩、します」
「ふふ」
彩音は先に鍵を回した。
扉を開けた。
振り返った。
「おやすみ、律くん」
「おやすみなさい、先生」
扉が閉まった。
律はその場に数秒、立っていた。
——自分のドアノブに額を当てた。
冷たかった。
冷たいのは、ありがたかった。
(練習)
(練習、か)
(……「彩音さん」)
(……「彩音」)
(……無理だ)
(無理、だけど)
律は額をドアノブから離した。
笑っていた。
自分でも気づかずに口元が上がっていた。
律は鍵を回した。
扉を開けた。
——玄関の暗さの向こうで台所のコンロが見えた。
焦げた鍋は昨日、全部、洗って片付けた。
今夜は新しい、鍋で肉じゃがを作る予定、だった。
(明日)
(先生に持っていく)
(——「余ってません」、で渡す)
律は扉を閉めた。
鍵を回した。
内側の廊下が静かになった。
翌日の午後。
マンハッタン。
千影がカウンターの中でエプロンをつけていたとき——
柊一が黒板の前でチョークを握っていた。
黒板に書かれていた。
『今週のスペシャル 菜の花とアンチョビのペペロンチーノ』
「——マスター」
「なんだ」
「それ」
「これか」
「誰にリクエスト、されたんですか?」
「誰にも」
「え?」
柊一はチョークを棚に戻した。
「菜の花が出てた」
「はあ」
「春だからな」
「経営的、判断、ですか」
「経営的、判断だ」
千影はエプロンの紐を結び終わった。
結び終わって顔を上げて柊一を見た。
柊一はもう、カウンターの内側でカップを磨いていた。
(——マスター)
(誰にも頼まれてない)
(「三日後、また来い」も言われてない)
(——自分から作ってる)
千影の口の端が動いた。
動いた瞬間に自分で気づいた。
笑っていた。
素の顔で笑っていた。
(これ)
(マスターが変わったってことだ)
そのスペシャルが黒板の上で白い、チョークの粉を落としていた。
——午後の光が店内に斜めに入ってきた。
閉店後。
千影が厨房の方へ足を向けたその瞬間——
「——千影」
「はい」
「豆の発注、今月分、まだ、確認してないだろ」
「え、今?」
「今だ」
「……わかりました」
千影はカウンター側に戻った。
帳簿を開いた。
(……マスター)
(今、わざわざ)
ページをめくりながら、視線を上げた。
厨房の戸がほんの少しだけ、開いていた。
内側からかすかに甘い、匂いが、した。
千影は眉を少しだけ、上げた。
上げた瞬間、柊一と目が合った。
柊一は視線だけでやんわり、遮った。
「見るな」、では、なかった。
「今はいい」、だった。
千影はそれ以上、聞かなかった。
(……ん)
帳簿に目を戻した。
戻しながら、もう一度、柊一を見たそのとき——
柊一がカウンターの内側でカップを磨くために身体を傾けた拍子にエプロンの腰のあたりが、見えた。
——白い、粉がついていた。
小さな、粒。
粉砂糖、だろうか。
(……粉砂糖)
(マスターが粉砂糖?)
千影は眉をもう一度、上げた。
上げて下ろした。
帳簿の数字に目を戻した。
——深くは、考えなかった。
蛍光灯がジ、と一度、鳴った。
厨房の戸がまた、ほんの少しだけ、動いて止まった。
店内に甘い、匂いが、さっきよりもかすかに強く、漂っていた。
千影はページをめくった。
豆の今月分の数字を書き込み始めた。
カウンターの上に蛍光灯の白い光が平らに落ちていた。




