第三十三話 正直になりましょう
夜。
律の自室の台所。
コンロの上に焦げた鍋が二つ、並んでいた。
一つは、肉じゃがの成れの果て。もう一つは、きんぴらの成れの果てと言いたかった。
でもきんぴらは、そもそも、「炒める」という工程の途中で律の意識が、「先生」の辺りに飛んだため、「黒い何か」、と言った方が正しかった。
律はスポンジで鍋底を擦っていた。
全然、落ちない。
(……なんで)
(こう、なった)
頭の中で今日の昼の光景がリフレインしていた。
先生が店に入ってきた瞬間。
自分の膝が勝手に跳ねた。
カップが倒れた。
彩音の、「え、私が入ってきたから……?」、の呆然とした声。
(——僕が悪いんだ)
(完全に僕が悪い)
律はスポンジを置いた。
手を洗った。
窓の前でしゃがみ込んだ。
(「余ったから」……?)
(余ったことなんか、一度もない)
(今は完成、すら、しない)
千影さんからメッセージが来ていた。
『明日、閉店後、マンハッタンに残って。四人で話します』
(……四人)
(先生も来る)
律は膝の上に顔を伏せた。
(マスターに言われた)
(「好きなら、好きと言え」)
(先生にも言われた)
(「直球が一番」)
直球。
その一語が頭の真ん中に刺さっていた。
(——直球で行く)
(「余ったから」、じゃ、なくて)
(「先生のために作りました」って言う)
(……たぶん)
(言える)
(たぶん)
あの日の彩音先生の声が遠くで蘇った。
『もう、強引に——押し倒す!!』
律は床を見つめたまま、頭を振った。
(ダメ)
(千影さんにも、「事件です」って言われた)
(押し倒しは、しません)
(……たぶん)
(しない、と思う)
(……できない、が、正解)
律は膝の上に顔を伏せたまま、深く、息を吐いた。
吐いたあとで小さく、呟いた。
「——明日、ちゃんと言う」
翌朝、律の流しには、依然として二つの焦げた鍋が沈んでいた。
翌日。
閉店後。
マンハッタンの扉の外の電光看板が消えていた。
内側の蛍光灯だけが、淡く、灯っていた。
カウンターに三つのスツール。
カウンターの内側に柊一。
カウンターの外側に律、彩音、千影。
千影がカウンターの前に立っていた。
柊一はブレンドのポットから四つのカップにコーヒーを淹れていた。
三つをカウンターの上に並べた。
最後の一杯を自分の前に置いた。
律の心臓が鳴っていた。
彩音の心臓も鳴っていた。
——ただし、全く、違う、理由で。
千影は深呼吸を一つ、した。
「——もう、正直になりましょう」
「彩音先生」
「な、何」
「律くんのことが、好きなんでしょ?」
「——!」
「律くんも」
「は、はいっ」
「彩音先生が好きってなんで言わないの?」
「——!!」
一瞬の沈黙。
カップの湯気が揺れた。
——その一瞬のあとで。
彩音が立ち上がった。
「——千影ちゃん!」
「はい」
「私じゃ、ダメなのよ!」
「は」
「律くんは、年上の男性、それこそ、千影ちゃん(男装モード)、みたいな子が好みなんだから!」
「は!?」
律が椅子の上で跳ねた。
「何、言ってるんですか、先生!」
「律くん、自分の気持ちを誤魔化さないで!」
「誤魔化してません! そんな趣味は無いし、大体、それは、先生の方でしょ!?」
「私の方!?」
「先生こそ、千影さんのこと——男だと思ってその恋愛対象として——」
「は?」
彩音は両手をカウンターについた。
「何、言ってるの瀬尾くん!」
「え」
「私が千影ちゃんを!? 千影ちゃんは、私の元教え子で——」
「え」
律が動きを止めた。
「——元、教え子?」
「……あら」
彩音が自分の口を両手で押さえた。
「律くん、あの千影『ちゃん』って今、私——」
「先生」
「はい」
「千影さんの性別を知ってるんですか」
「……」
「先生?」
「……」
「「——え」」
律と彩音の声が揃った。
揃って同じ、方向を向いた。
千影の方を。
千影はカウンターの前で両手を胸の前で組んでいた。
組んでいる、指先が止まっていた。
「……」
長い、沈黙。
蛍光灯がジ、と一度、鳴った。
「——落ち着いて」
千影が口を開いた。
「整理しましょう」
「はい」
「はい」
「えーと」
千影は宙を見た。
「律くんは、先生が千影さんを……」
「はい」
「いや」
「はい」
「先生は律くんが、千影を……」
「はい」
「あれ」
「はい」
「私は男で……」
「はい」
「いや、女で」
「はい」
「って先生は知ってて……」
「はい」
「……」
千影の口が止まった。
カウンターの内側で柊一が布でカップを磨く、手を止めていた。
「——よし」
千影が顔を上げた。
「——そうだ!」
「え」
「え」
千影は踵を返してカウンターの裏に消えた。
バックヤードからガラガラ、と何かを引っ張り出す、音。
キャスターの鳴る音。
現れた。
——キャスター付きのホワイトボード。
マンハッタンのテーブルの間をギリギリ、通した。
椅子の脚にキャスターが一度、引っかかった。
柊一が嫌な、顔をした。
千影はボードをカウンターの前に据えた。
マーカーのキャップを外した。
「まず、事実から書きます」
ホワイトボードの中央に大きく、書いた。
『千影=女』
その下に三つの名前。
『律』
『彩音先生』
『マスター』
千影は矢印を引き始めた。
「律くんは、私が女だと認識してる」
「はい。去年の秋から」
千影が書き足した。
彩音がマーカーの先を目で追っていた。
「……それで、『千影さんは、男でしょ』、って私に言ったのは」
「千影さんの秘密を守るためです」
「え」
「先生が知ってると思ってなかったから」
「……私もあなたが、千影ちゃんを男だと思ってる、と思って必死に話を合わせてた」
「は」
矢印が増えた。
交差した。
彩音が立ち上がった。
「——千影ちゃん、その矢印の向きが、違うわ」
「え」
「そこは、こう」
彩音は千影のマーカーを奪って矢印を引き直した。
(教師の本能が)
(暴走、してる)
「僕のところも間違ってます」
律がカウンターの席から立ち上がった。
「僕はマスターが先生のことを好きだと思ってました」
「は」
彩音がマーカーの先で空中を刺した。
「マスターが私を?」
「はい」
「……マスター、私のことどう、思ってたの」
「客だ」
「ストレート!」
千影がボードを修正した。
書けば書くほど、線が交錯した。
交錯した線の束がボードの中央で絡み合った。
——四人はボードを見つめた。
沈黙。
「……つまり」
律が声を絞り出した。
「先生は……千影さんが、女だと知ってて……」
「はい」
「俺のことを……」
「はい」
「千影さん(男)が……好きだと……」
「……」
千影はマーカーを持った手を一度、下ろした。
もう一度、上げた。
彩音の欄に静かに書き足した。
彩音のマーカーを持つ、手が震えた。
「——BLだと思ってた」
千影はボードの端に大きく、書いた。
『→律×千影(男)=BL(誤認)』
律の声が裏返った。
「BL!!!」
律の顔が真っ赤になった。
ホワイトボードに、「BL」の二文字が堂々と鎮座していた。
柊一はカウンターの内側で腕を組んだ。
「……」
「だって!」
彩音が叫んだ。
「『年上が好き』、って言ったのに、『年上の女性が好き』、とは、言わなかったじゃない!」
「そこまで分解して言いませんよ!」
「それで、千影ちゃんと仲良くて!」
「それは、友達です! 俺が好きなのは、最初から先生で——」
律の口が止まった。
両手が自分の口を押さえた。
——遅かった。
マンハッタンの四人が同時に律を見た。
蛍光灯がジ、と鳴った。
静寂。
彩音が律を見つめていた。
律の耳が限界まで赤かった。
「……もう、全部、言います」
律は両手を膝の上に戻した。
「先生」
「……律くん」
「三段重も」
「うん」
「副菜も」
「うん」
「ブランケットも」
「うん」
「全部、余ってません」
「え」
「ブランケット、母さんの仕送り、じゃないです」
「え」
「自分で選んで買いました」
彩音の呼吸が止まった。
律は膝の上で両手を握った。
「最初から——全部、先生のため、でした」
律は立ち上がった。
一瞬——彩音の、「押し倒す!!」が、脳裏をよぎった。
(いや)
(違う)
(そうじゃ、ない)
(直球だ)
(直球でいい)
「僕は——いや」
律は息を一度、吸った。
「俺はもう、ずっと先生が大好きでした!」
——彩音の目が見開かれた。
その耳の奥で柊一の声が蘇った。
『好きなら、好きと言え』
あの日。
律くんの相談に答えていたマスターの声。
(あれは)
(律くんだけじゃ、なくて)
(……私にも向けられてたんだ)
彩音の視界が滲んだ。
涙が頬を滑った。
自分でも驚いた。
「……なんで泣いてるの私」
彩音はカウンターに両手をついたまま、俯いた。
俯いてしばらく、何も言えなかった。
(……ずっと応援する、フリをしてた)
(律くんの恋を見守ってる、つもりで——)
(自分の恋から逃げてただけだった)
彩音は顔を上げた。
涙の粒が頬で光っていた。
「…………はい」
「え」
「……私も律くんが、好き」
沈黙。
律の目が潤んだ。
でもまだ、言葉があった。
「……先生。俺は——僕はわかってます」
「うん」
「先生と生徒です」
「うん」
「卒業するまで二年、あります」
「うん」
「二年、待ちます。待てます。だから——」
「待てない」
律の言葉が途切れた。
「……え」
彩音はカップに手を伸ばして伸ばしたまま、止めた。
自分の指先が震えていた。
律の目が彩音の指先を見ていた。
千影は動けなかった。
柊一のカップを磨く、手も止まっていた。
——閉店後のマンハッタンが息を止めていた。
「二年も待てない」
「先生」
「……私の方がずっと待ってたの」
「先生」
「気づいてなかっただけで——」
「先生」
「でも!」
「はい」
「でも困るのよ!」
「え」
「だって私——」
彩音は両手で自分の頭を抱えた。
「誰かと付き合った経験が無いの!!」
全員が止まった。
千影の涙が止まった。
律の耳の赤さが、止まった。
柊一のカップを磨く、手が止まった。
「……え?」
「……え?」
「…………」
「告白、されたことも!」
「はい」
「したことも!」
「はい」
「今のが、人生で初めてなの!」
「はい」
「二十六年で!」
「はい」
「何をどう、したら、いいか、わかんないのよ!」
沈黙。
四人の中で情報を処理する、速度が一番、速かったのは——
千影、だった。
千影は頬の涙を親指で拭った。
拭った瞬間、泣き顔が女優の目に切り替わった。
「……先生」
「何よ」
「ちょっと待ってください」
「何」
「律くんに恋愛コーチング、してましたよね」
「し、してたわよ」
「必殺技」
「はい」
「『押し倒す!!』って叫んでましたよね」
「……叫んだ、わよ」
「あの自信」
「はい」
「どこから来てたんですか」
沈黙。
長い、沈黙。
彩音が目を泳がせた。
下を見た。
カップを見た。
千影を見た。
もう一度、下を見た。
「…………宗方監督の」
「はい」
「『愛の設計図』、第八話、で……」
「ドラマ!! 全部、ドラマ!!」
律が膝から崩れ落ちた。
「あの恋愛コーチング……全部、エアプ、だったんですか、先生……」
「エアプって言わないで! 理論武装よ!」
「張りぼてじゃ、ないですか!!」
「言い方!!」
柊一はカウンターの内側でブレンドを一口、飲んだ。
(……あの自信満々の恋愛講座は)
(全部、ドラマの受け売り、だったのか)
(……道理でズレてたわけだ)
千影がまた、泣き出した。
今までの笑いの涙と感動の涙がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「良かった……本当に良かった……でも先生、ひどい、あのコーチング、信じかけてたのに……」
「千影ちゃん、ごめんね」
「謝られても、もう遅いです!」
柊一はブレンドのカップを置いた。
(……言えたじゃ、ねえか)
(恋愛経験、ゼロで)
(理論武装だけで)
(それでもこいつは)
(——言えたじゃ、ねえか)
律がまだ、膝をついたまま、顔を上げた。
彩音を見た。
「……先生にとって」
「はい」
「俺が初めてなんですね」
「……そうよ」
「——俺もです」
「え」
「先生が初めてです」
彩音の顔がくしゃっ、と崩れた。
また、泣いた。
「——千影さん」
「はい」
「ありがとう、ございます」
「私は何もしてないよ」
「え」
「全部、マスターが気づいたの」
「……俺は何もしてない」
柊一はカップを棚に戻した。
「コーヒーを淹れただけだ」
彩音が目元を指で拭った。
拭いながら、笑った。
「マスター、一つだけ、聞いていい?」
「ああ」
「律くんが、アイスコーヒー、一気飲みして出てった日、何があったの?」
「……千影のことを口走っただけだ」
「あ」
律が頷いた。
「あのとき、僕、先生の恋が完全、終了したと思って——」
「私の恋? 誰の?」
「先生が千影さん(男)のことを——」
「だから、それは、勘違いだって今、判明したでしょ!」
「あ、はい」
——そこまで言って律がふと彩音を見た。
「……先生」
「何」
「『隣の窓』、って覚えてますか」
「もちろん」
彩音の目が一瞬、輝いた。
「宗方監督の最高傑作よ」
「はい」
「隣に住んでて毎日、手料理を——」
彩音の顔が固まった。
「僕のことですよ、先生」
「……」
「あれ」
「…………」
千影が耐えきれずに噴き出した。
噴き出した肩が震えていた。
「千影ちゃん、笑わないで」
「笑わない、って無理です、先生」
「最高傑作を私、隣の部屋で毎日、見てたのね……」
「隣で見てました」
「……気づかなかった」
「そこが、先生です」
また、笑いが、起こった。
マンハッタンの店内が笑い声で満ちた。
こんなに騒がしい、閉店後は初めてだった。
柊一はカウンターの内側でもう一つ、カップを磨いていた。
(……うるさい店だ)
(……しかたない)
カウンターの上で四つのカップの湯気が同じ、温度で立っていた。
ホワイトボードの真ん中に、「BL(誤認)」の文字がまだ、堂々と鎮座していた。
誰もそれを消しに行かなかった。




