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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第4部「答え合わせ」

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33/37

第三十三話 正直になりましょう

 夜。

 律の自室の台所。

 コンロの上に焦げた鍋が二つ、並んでいた。

 一つは、肉じゃがの成れの果て。もう一つは、きんぴらの成れの果てと言いたかった。

 でもきんぴらは、そもそも、「炒める」という工程の途中で律の意識が、「先生」の辺りに飛んだため、「黒い何か」、と言った方が正しかった。

 律はスポンジで鍋底を擦っていた。

 全然、落ちない。

(……なんで)

(こう、なった)

 頭の中で今日の昼の光景がリフレインしていた。

 先生が店に入ってきた瞬間。

 自分の膝が勝手に跳ねた。

 カップが倒れた。

 彩音の、「え、私が入ってきたから……?」、の呆然とした声。

(——僕が悪いんだ)

(完全に僕が悪い)

 律はスポンジを置いた。

 手を洗った。

 窓の前でしゃがみ込んだ。

(「余ったから」……?)

(余ったことなんか、一度もない)

(今は完成、すら、しない)

 千影さんからメッセージが来ていた。

『明日、閉店後、マンハッタンに残って。四人で話します』

(……四人)

(先生も来る)

 律は膝の上に顔を伏せた。

(マスターに言われた)

(「好きなら、好きと言え」)

(先生にも言われた)

(「直球が一番」)

 直球。

 その一語が頭の真ん中に刺さっていた。

(——直球で行く)

(「余ったから」、じゃ、なくて)

(「先生のために作りました」って言う)

(……たぶん)

(言える)

(たぶん)

 あの日の彩音先生の声が遠くで蘇った。

『もう、強引に——押し倒す!!』

 律は床を見つめたまま、頭を振った。

(ダメ)

(千影さんにも、「事件です」って言われた)

(押し倒しは、しません)

(……たぶん)

(しない、と思う)

(……できない、が、正解)

 律は膝の上に顔を伏せたまま、深く、息を吐いた。

 吐いたあとで小さく、呟いた。

「——明日、ちゃんと言う」

 翌朝、律の流しには、依然として二つの焦げた鍋が沈んでいた。




 翌日。

 閉店後。

 マンハッタンの扉の外の電光看板が消えていた。

 内側の蛍光灯だけが、淡く、灯っていた。

 カウンターに三つのスツール。

 カウンターの内側に柊一。

 カウンターの外側に律、彩音、千影。

 千影がカウンターの前に立っていた。

 柊一はブレンドのポットから四つのカップにコーヒーを淹れていた。

 三つをカウンターの上に並べた。

 最後の一杯を自分の前に置いた。

 律の心臓が鳴っていた。

 彩音の心臓も鳴っていた。

 ——ただし、全く、違う、理由で。

 千影は深呼吸を一つ、した。

「——もう、正直になりましょう」




「彩音先生」

「な、何」

「律くんのことが、好きなんでしょ?」

「——!」

「律くんも」

「は、はいっ」

「彩音先生が好きってなんで言わないの?」

「——!!」

 一瞬の沈黙。

 カップの湯気が揺れた。

 ——その一瞬のあとで。

 彩音が立ち上がった。




「——千影ちゃん!」

「はい」

「私じゃ、ダメなのよ!」

「は」

「律くんは、年上の男性、それこそ、千影ちゃん(男装モード)、みたいな子が好みなんだから!」

「は!?」

 律が椅子の上で跳ねた。

「何、言ってるんですか、先生!」

「律くん、自分の気持ちを誤魔化さないで!」

「誤魔化してません! そんな趣味は無いし、大体、それは、先生の方でしょ!?」

「私の方!?」

「先生こそ、千影さんのこと——男だと思ってその恋愛対象として——」

「は?」

 彩音は両手をカウンターについた。

「何、言ってるの瀬尾くん!」

「え」

「私が千影ちゃんを!? 千影ちゃんは、私の元教え子で——」

「え」

 律が動きを止めた。

「——元、教え子?」

「……あら」

 彩音が自分の口を両手で押さえた。

「律くん、あの千影『ちゃん』って今、私——」

「先生」

「はい」

「千影さんの性別を知ってるんですか」

「……」

「先生?」

「……」

「「——え」」

 律と彩音の声が揃った。

 揃って同じ、方向を向いた。

 千影の方を。

 千影はカウンターの前で両手を胸の前で組んでいた。

 組んでいる、指先が止まっていた。

「……」

 長い、沈黙。

 蛍光灯がジ、と一度、鳴った。

「——落ち着いて」

 千影が口を開いた。

「整理しましょう」

「はい」

「はい」

「えーと」

 千影は宙を見た。

「律くんは、先生が千影さんを……」

「はい」

「いや」

「はい」

「先生は律くんが、千影を……」

「はい」

「あれ」

「はい」

「私は男で……」

「はい」

「いや、女で」

「はい」

「って先生は知ってて……」

「はい」

「……」

 千影の口が止まった。

 カウンターの内側で柊一が布でカップを磨く、手を止めていた。

「——よし」

 千影が顔を上げた。

「——そうだ!」

「え」

「え」

 千影は踵を返してカウンターの裏に消えた。

 バックヤードからガラガラ、と何かを引っ張り出す、音。

 キャスターの鳴る音。

 現れた。

 ——キャスター付きのホワイトボード。

 マンハッタンのテーブルの間をギリギリ、通した。

 椅子の脚にキャスターが一度、引っかかった。

 柊一が嫌な、顔をした。

 千影はボードをカウンターの前に据えた。

 マーカーのキャップを外した。

「まず、事実から書きます」




 ホワイトボードの中央に大きく、書いた。

『千影=女』

 その下に三つの名前。

『律』

『彩音先生』

『マスター』

 千影は矢印を引き始めた。

「律くんは、私が女だと認識してる」

「はい。去年の秋から」

 千影が書き足した。

 彩音がマーカーの先を目で追っていた。

「……それで、『千影さんは、男でしょ』、って私に言ったのは」

「千影さんの秘密を守るためです」

「え」

「先生が知ってると思ってなかったから」

「……私もあなたが、千影ちゃんを男だと思ってる、と思って必死に話を合わせてた」

「は」

 矢印が増えた。

 交差した。

 彩音が立ち上がった。

「——千影ちゃん、その矢印の向きが、違うわ」

「え」

「そこは、こう」

 彩音は千影のマーカーを奪って矢印を引き直した。

(教師の本能が)

(暴走、してる)

「僕のところも間違ってます」

 律がカウンターの席から立ち上がった。

「僕はマスターが先生のことを好きだと思ってました」

「は」

 彩音がマーカーの先で空中を刺した。

「マスターが私を?」

「はい」

「……マスター、私のことどう、思ってたの」

「客だ」

「ストレート!」

 千影がボードを修正した。

 書けば書くほど、線が交錯した。

 交錯した線の束がボードの中央で絡み合った。

 ——四人はボードを見つめた。

 沈黙。




「……つまり」

 律が声を絞り出した。

「先生は……千影さんが、女だと知ってて……」

「はい」

「俺のことを……」

「はい」

「千影さん(男)が……好きだと……」

「……」

 千影はマーカーを持った手を一度、下ろした。

 もう一度、上げた。

 彩音の欄に静かに書き足した。

 彩音のマーカーを持つ、手が震えた。

「——BLだと思ってた」

 千影はボードの端に大きく、書いた。

『→律×千影(男)=BL(誤認)』

 律の声が裏返った。

「BL!!!」

 律の顔が真っ赤になった。

 ホワイトボードに、「BL」の二文字が堂々と鎮座していた。

 柊一はカウンターの内側で腕を組んだ。

「……」

「だって!」

 彩音が叫んだ。

「『年上が好き』、って言ったのに、『年上の女性が好き』、とは、言わなかったじゃない!」

「そこまで分解して言いませんよ!」

「それで、千影ちゃんと仲良くて!」

「それは、友達です! 俺が好きなのは、最初から先生で——」

 律の口が止まった。

 両手が自分の口を押さえた。

 ——遅かった。

 マンハッタンの四人が同時に律を見た。

 蛍光灯がジ、と鳴った。




 静寂。

 彩音が律を見つめていた。

 律の耳が限界まで赤かった。

「……もう、全部、言います」

 律は両手を膝の上に戻した。

「先生」

「……律くん」

「三段重も」

「うん」

「副菜も」

「うん」

「ブランケットも」

「うん」

「全部、余ってません」

「え」

「ブランケット、母さんの仕送り、じゃないです」

「え」

「自分で選んで買いました」

 彩音の呼吸が止まった。

 律は膝の上で両手を握った。

「最初から——全部、先生のため、でした」

 律は立ち上がった。

 一瞬——彩音の、「押し倒す!!」が、脳裏をよぎった。

(いや)

(違う)

(そうじゃ、ない)

(直球だ)

(直球でいい)

「僕は——いや」

 律は息を一度、吸った。

「俺はもう、ずっと先生が大好きでした!」

 ——彩音の目が見開かれた。

 その耳の奥で柊一の声が蘇った。

『好きなら、好きと言え』

 あの日。

 律くんの相談に答えていたマスターの声。

(あれは)

(律くんだけじゃ、なくて)

(……私にも向けられてたんだ)

 彩音の視界が滲んだ。

 涙が頬を滑った。

 自分でも驚いた。

「……なんで泣いてるの私」

 彩音はカウンターに両手をついたまま、俯いた。

 俯いてしばらく、何も言えなかった。

(……ずっと応援する、フリをしてた)

(律くんの恋を見守ってる、つもりで——)

(自分の恋から逃げてただけだった)

 彩音は顔を上げた。

 涙の粒が頬で光っていた。

「…………はい」

「え」

「……私も律くんが、好き」

 沈黙。

 律の目が潤んだ。

 でもまだ、言葉があった。

「……先生。俺は——僕はわかってます」

「うん」

「先生と生徒です」

「うん」

「卒業するまで二年、あります」

「うん」

「二年、待ちます。待てます。だから——」

「待てない」

 律の言葉が途切れた。

「……え」

 彩音はカップに手を伸ばして伸ばしたまま、止めた。

 自分の指先が震えていた。

 律の目が彩音の指先を見ていた。

 千影は動けなかった。

 柊一のカップを磨く、手も止まっていた。

 ——閉店後のマンハッタンが息を止めていた。

「二年も待てない」

「先生」

「……私の方がずっと待ってたの」

「先生」

「気づいてなかっただけで——」

「先生」

「でも!」

「はい」

「でも困るのよ!」

「え」

「だって私——」

 彩音は両手で自分の頭を抱えた。

「誰かと付き合った経験が無いの!!」




 全員が止まった。

 千影の涙が止まった。

 律の耳の赤さが、止まった。

 柊一のカップを磨く、手が止まった。

「……え?」

「……え?」

「…………」

「告白、されたことも!」

「はい」

「したことも!」

「はい」

「今のが、人生で初めてなの!」

「はい」

「二十六年で!」

「はい」

「何をどう、したら、いいか、わかんないのよ!」

 沈黙。

 四人の中で情報を処理する、速度が一番、速かったのは——

 千影、だった。

 千影は頬の涙を親指で拭った。

 拭った瞬間、泣き顔が女優の目に切り替わった。

「……先生」

「何よ」

「ちょっと待ってください」

「何」

「律くんに恋愛コーチング、してましたよね」

「し、してたわよ」

「必殺技」

「はい」

「『押し倒す!!』って叫んでましたよね」

「……叫んだ、わよ」

「あの自信」

「はい」

「どこから来てたんですか」

 沈黙。

 長い、沈黙。

 彩音が目を泳がせた。

 下を見た。

 カップを見た。

 千影を見た。

 もう一度、下を見た。

「…………宗方監督の」

「はい」

「『愛の設計図』、第八話、で……」

「ドラマ!! 全部、ドラマ!!」

 律が膝から崩れ落ちた。

「あの恋愛コーチング……全部、エアプ、だったんですか、先生……」

「エアプって言わないで! 理論武装よ!」

「張りぼてじゃ、ないですか!!」

「言い方!!」

 柊一はカウンターの内側でブレンドを一口、飲んだ。

(……あの自信満々の恋愛講座は)

(全部、ドラマの受け売り、だったのか)

(……道理でズレてたわけだ)

 千影がまた、泣き出した。

 今までの笑いの涙と感動の涙がぐちゃぐちゃに混ざっていた。

「良かった……本当に良かった……でも先生、ひどい、あのコーチング、信じかけてたのに……」

「千影ちゃん、ごめんね」

「謝られても、もう遅いです!」

 柊一はブレンドのカップを置いた。

(……言えたじゃ、ねえか)

(恋愛経験、ゼロで)

(理論武装だけで)

(それでもこいつは)

(——言えたじゃ、ねえか)

 律がまだ、膝をついたまま、顔を上げた。

 彩音を見た。

「……先生にとって」

「はい」

「俺が初めてなんですね」

「……そうよ」

「——俺もです」

「え」

「先生が初めてです」

 彩音の顔がくしゃっ、と崩れた。

 また、泣いた。




「——千影さん」

「はい」

「ありがとう、ございます」

「私は何もしてないよ」

「え」

「全部、マスターが気づいたの」

「……俺は何もしてない」

 柊一はカップを棚に戻した。

「コーヒーを淹れただけだ」

 彩音が目元を指で拭った。

 拭いながら、笑った。

「マスター、一つだけ、聞いていい?」

「ああ」

「律くんが、アイスコーヒー、一気飲みして出てった日、何があったの?」

「……千影のことを口走っただけだ」

「あ」

 律が頷いた。

「あのとき、僕、先生の恋が完全、終了したと思って——」

「私の恋? 誰の?」

「先生が千影さん(男)のことを——」

「だから、それは、勘違いだって今、判明したでしょ!」

「あ、はい」

 ——そこまで言って律がふと彩音を見た。

「……先生」

「何」

「『隣の窓』、って覚えてますか」

「もちろん」

 彩音の目が一瞬、輝いた。

「宗方監督の最高傑作よ」

「はい」

「隣に住んでて毎日、手料理を——」

 彩音の顔が固まった。

「僕のことですよ、先生」

「……」

「あれ」

「…………」

 千影が耐えきれずに噴き出した。

 噴き出した肩が震えていた。

「千影ちゃん、笑わないで」

「笑わない、って無理です、先生」

「最高傑作を私、隣の部屋で毎日、見てたのね……」

「隣で見てました」

「……気づかなかった」

「そこが、先生です」

 また、笑いが、起こった。

 マンハッタンの店内が笑い声で満ちた。

 こんなに騒がしい、閉店後は初めてだった。

 柊一はカウンターの内側でもう一つ、カップを磨いていた。

(……うるさい店だ)

(……しかたない)

 カウンターの上で四つのカップの湯気が同じ、温度で立っていた。

 ホワイトボードの真ん中に、「BL(誤認)」の文字がまだ、堂々と鎮座していた。

 誰もそれを消しに行かなかった。


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