第三十二話 挙動不審
朝。
開店の三十分前。
千影がマンハッタンの扉を開けたとき——
もう、豆を挽く、音がしていた。
カリ、カリ、カリ。
柊一の広い、背中がカウンターの中に見える。
「おはようございます」
「ああ」
柊一は振り向かなかった。
いつも通り。
——いつも通りのはず、なのに。
千影がカウンターの中に入った瞬間。
柊一の視線がふっ、と一度だけ、上がって手元に戻った。
コンマ何秒。
言葉のない、確認。
(……これ)
(本人、無自覚、だろうな)
(「おはよう」の代わりの視線)
(でも毎日、ちゃんとある)
千影はエプロンを結びながら、スマホを取り出した。
ロック画面に通知が三件。
柳瀬副社長から。
『来週、続編プロット会議を入れます。宗方監督から白河凛続投の意向あり』
鷹宮社長から。
『千影。次のオーディション、断っといた。撮影期間がマンハッタンのシフトとドンピシャで重なる。ただし、同日録りの、CM撮影だけは、押さえたわよ。これは、文句、言わせない』
最後にスタンプ。
金髪のキャラクターが腕を組んで、「譲歩」と書かれたプラカードを突き出している。
——先週末。鷹宮プロ事務所、社長室。
千影は応接ソファに座っていた。向かいの革張りの椅子に鷹宮。鷹宮の斜め後ろの窓際で、ノートを広げた柳瀬がペン先を一度、空中で止めていた。
千影が口を開いた。
「社長。マンハッタンの男装勤務、終わりにしたいんです」
鷹宮の眉が一度、上がった。
「……は?」
柳瀬は無言でノートに何かを書き始めた。
「もう、男装で店に立つ意味、ないので」
「あるわよ。あんたのイケメン女子路線、私が三年かけて——」
「マスターが、私の素を、見たいって言いました」
鷹宮の口が一度、開いて閉じた。
「——は!?」
「何それ!?」
「男に媚びるみたいな話、誰の許可で——」
柳瀬がノートのページを一枚、めくった。
「社長」
「何よ」
「千影と東堂さん、もうお付き合いされてますよ」
鷹宮の指がソファの肘掛けで止まった。
「——は!?」
「いつ!?」
「いつから!?」
「先月から、と」
「私が知らない間に!?」
「現場の話ですので」
鷹宮は両手で顔を覆った。
覆ったまま、しばらく、動かなかった。
柳瀬が次のページを開いた。
「社長。宗方監督から続編打診が来ています。今度は男装抜きの完全女優路線で、白河凛、続投」
「————」
鷹宮はゆっくり、机に額を打ちつけた。
ゴン。
「私のイケメン女子路線がぁぁぁぁぁ」
ゴン、ゴン。
「三年かけて、育てたのにぃぃぃぃぃ」
千影は鷹宮のつむじを見ていた。
(……社長)
(このつむじ、生え方、結構、几帳面)
鷹宮が顔を上げた。額が少し、赤い。
「……認めるわ」
「男装路線は、終わり」
「代わりに、女優路線で、絶対、トップ、取らせる」
「マンハッタンのシフト、優先よ」
「文句、言わせない」
声が一気に低くなった。
千影の背筋が、勝手に伸びた。
(最後だけ)
(めちゃくちゃ、かっこいい)
柳瀬が鷹宮の方に身体を傾けた。
小声で。
「社長。最初から女優路線、推したの、私、ですけど」
「うるさい」
——マンハッタン、開店三十分前。
千影の口の端が少しだけ、動いた。
(……社長)
(「辞めさせろ派」、だったのに)
(シフト優先でオーディション、断るの)
(普通に社長の仕事の範囲、超えてる)
(「現場主義の現場調整」、ってことにしてるんだろうけど)
(柳瀬副社長はもう、伴走、どころじゃ、ない)
(——完全に共犯者)
「——ドラマの話か」
柊一が豆を挽く、手を止めて千影を見ていた。
「わかります?」
「顔で」
柊一は挽き終わった豆を静かにキャニスターに移した。
「……続編か」
「たぶん。まだ、正式じゃ、ないです」
「続編になったら——どのくらい、撮影に入る」
「今度は長いです。半年くらい」
「そうか」
「でも前回みたいに週の半分、全部、じゃ、ないです。事務所が調整してくれてて」
「そうか」
柊一はキャニスターを棚に戻した。
戻してからカウンターの端を一度、布で拭いた。
拭きながら、顔を上げずに言った。
「うちのカウンターは動かない」
「……」
「お前の予定に合わせる」
千影はエプロンの紐の結び目を一度、直した。
(……これ)
(二週間前なら、泣いてた)
(今は泣かずに笑える)
(ちゃんと受け取れる)
「——ありがとうございます」
「礼を言う話じゃ、ない」
「はい」
千影は湯を沸かし始めた。
開店、十分前。
平日の朝の豆の匂い。
カウンターの中の二人の時間。
——カウベルが鳴った。
「おはようございます」
律の声。
千影は湯のポットを置いた。
(さて)
(本日も)
(挙動不審な、二人の観察が始まる)
律がいつものカウンター席に座った。
「アイスコーヒー——あ、いや、ホットを——」
「どっちです?」
「ホ、ホット、で」
声が半音、裏返った。
千影がカップを出した。
律はカウンターに肘をつこうとして外した。
「律くん、いつもので——」
「はいっ!」
律の尻が椅子から五センチ、浮いた。
(……?)
(何、その反応)
(マスターのカウンターに電流、流れてる?)
千影が怪訝な、顔で律を見ていたその時——
カウベル。
「おはよう、律く——」
彩音の声。
律の膝がカウンターの下でがくん、と跳ねた。
椅子が傾いた。
立ち上がった。
——カップが倒れた。
カツン。
コーヒーがカウンターの上を横に走った。
柊一が無言でカウンターの下から布巾を一枚、引き抜いた。
「あ、す、すみません」
律の声がほとんど、息に近かった。
「俺——忘れ物を——」
「律くん?」
「失礼します!」
律はカウンターに千円札を一枚、置いて彩音とすれ違うようにして店の扉へ向かった。
カウベルが乱暴に鳴った。
扉が閉まった。
——彩音が入り口で立ち尽くしていた。
「……え」
彩音は扉を振り返った。
「今の私が入ってきたから、……?」
「先生」
千影がカウンターの内側から声をかけた。
「とりあえず、座ってください」
「う、うん」
彩音はふらふらといつもの席——律の隣の席、のさらに一席、空けた場所、の方に行きかけて結局、律の座っていた隣の席に座った。
そこには、倒れたカップと零れたコーヒーの跡が残っていた。
柊一が黙々と拭いていた。
「——ねえ、千影くん」
「はい」
「律くん、最近、私のこと避けてない?」
「えっと」
千影は布巾を握った。
「そんなことないと思いますけど——」
「差し入れも来ないし、ベランダにも出てこないし、廊下ですれ違っても目、逸らすし」
「……」
「今も完全に逃げたわよね?」
「……」
「私を見て」
千影は布巾を握ったまま、口をつぐんだ。
(先生)
(正解、です)
(でも今、答えられない)
「私、何か、したかしら」
彩音はコーヒーを一口、飲んだ。
「先生として何か、傷つけること言っちゃったかな」
カウンターの中で千影と柊一の目線が一度、交差した。
千影が小声で言った。
「……マスター」
柊一はカップを磨きながら、目を合わせずに小さく、頷いた。
十五分後。
カウベル。
律が戻ってきた。
「……忘れ物、なかったです」
「そう」
彩音が目を合わせずに応じた。
「おかえり」
律は彩音の席の隣——一席、空けて——座った。
彩音は膝の上で指を組んだ。
組んだまま、しばらく、カウンターの木目を見ていたあとで——
自分でも止められないような、口調で呟いた。
「……最近、差し入れ、してくれないわね」
言ってから自分で顔を真っ赤にした。
律の耳も赤かった。
(先生)
(今のは)
(完全にアウト、です)
(生徒に、「差し入れ、してくれない」、って拗ねる教師)
(いません)
「あの」
二人が同時に言った。
目が合った。
同時に逸らした。
同時にコーヒーに口をつけた。
同時にカップを置いた。
——そのとき。
ボックス席で教科書を開いていた高校生が二人、カウンターの方をちらっ、と見た。
「——なあ」
「ん?」
「あの店員さんの姉ちゃんさ」
「ん?」
「なんか、白河凛に似てない?」
千影の手がカップの上で止まった。
止まったのが、わかる前に止めない、ふりでカップを棚に戻した。
隣の大学生風の女性客がスマホから目を上げた。
視線が千影に向いた。
——合う、前に。
千影はさりげなく、湯のポットの方を向いた。
「白河凛、ってあのドラマの?」
「先週から雑誌の表紙もよく見るやつ」
「……まさか」
「こんなとこで働かねーだろ、女優が」
「……たしかに」
「でも髪の感じ、とか」
「他人の空似だって。アホか」
「……それもそうか」
カウンターの中で柊一が小さく、咳払いをした。
「——喋ってないで勉強しろ」
「あ、すんません」
「すんません」
高校生たちが、慌てて教科書に戻った。
千影は湯を沸かし直した。
手は一度も震えなかった。
(——今)
(名前が出た)
(完全に出た)
(でも誰も確信はしてない)
(まだ、「他人の空似」で流せる、ラインにいる)
(……でも)
(主演が始まったら)
(たぶん、もう、流せない)
柊一が千影の横に立った。
視線は合わせない。
ただ、カップを拭く、手が一秒、止まってまた、動き出した。
「——マスター」
「なんだ」
「この前、律くんが、変な帰り方、したって言ってましたよね」
「ああ」
「何があったんですか」
「先生のことをどう思ってるかと聞いてきた」
「……」
「客だと答えたら、顔面蒼白で帰った」
千影は湯のポットのハンドルを握り直した。
(——そりゃ)
(崩壊する)
彩音がまた、「律くん」と呼びかけた。
律がまた、カップを跳ねさせた。
二杯目が横に走った。
柊一が無言で二枚目の布巾を出した。
(先に)
(片づけないと)
(カウンターが持たない)
閉店後。
店のブラインドが下りていた。
カウンターの上に律が倒したコーヒーの跡がまだ、かすかに残っていた。
千影が布巾でその跡を拭きながら——
昨夜の電話の中身を手短に柊一に伝えた。
先生は律くんの不在を心配していた。
律くんは、マスターが先生を好きだと勘違いしていた。
「一番、つらいのは、誰?」と聞いたら、「僕の方がつらい、気がする」と答えた。
——好きの自覚はない。
柊一は最後のカップを棚に戻した。
戻してから律の座っていた席を目だけで見た。
その隣の彩音の座っていた席を目だけで見た。
「——千影の話を聞く限り」
「はい」
「律は先生のことを心配してる」
「はい」
「方向を間違えてるが」
「……はい」
「先生も律のことを気にしてる」
「はい」
「方向を間違えてるが」
「……はい」
「……何かが、引っかかる」
「はい」
「あの二人、どっちも変だ」
千影は布巾をカウンターの端に置いた。
(昨夜)
(先生の声と律くんの声が同じだと思った)
(同じ、だった)
(でも何が同じなのか)
(まだ、言葉にできない)
「何がどう、間違ってるかは、知らん」
柊一はカウンターに両手をついた。
「だが——全員、どこかで間違えてる」
「……」
「……全員、間違ってます」
「議論しても始まらない」
「はい」
「あいつらを座らせて本人の口から言わせるしかない」
「……ですよね」
千影はエプロンのポケットからスマホを取り出した。
(嘘から始まった話を)
(私が締めにいく)
(——正直者に戻るなら)
(ここからだ)
「マスター」
「なんだ」
「明日、四人で集まりましょう」
「……」
「『正直になりましょう』、って」
柊一は布で両手を拭いた。
「仕切るのか」
「私が原因ですから」
柊一は答えなかった。
カップを磨く、手が少しだけ、強くなった。
カウンターの中で千影は柊一の隣に立っていた。
肩が触れそうな、距離。
「——どうした」
「え?」
「手が震えてる」
千影は自分の右手を左手で握った。
握ったら、震えが、柊一にも伝わる、気がした。
「……緊張してるんです」
「なんで」
「明日、みんなの前で、『正直になれ』、って言うのに」
「ああ」
「私が一番、正直じゃなかった人間、ですから」
柊一はカップを棚に戻した。
戻してから千影の手に指先だけ、触れた。
人差し指の腹が千影の手の甲に一秒だけ、置かれて離れた。
千影が顔を上げた。
「——お前は正直だ」
「マスター」
「……嘘が下手なだけだ」
千影は泣き笑いのような、顔になった。
「それ、褒めてないですよね」
「褒めてない」
——褒めている。
カウンターの蛍光灯が白い光を落としていた。
光の下で柊一と千影の指先だけが、まだ、繋がっている、ような、そうでない、ような、距離で止まっていた。




