第三十一話 マスターに聞く
昼下がり。
律がいつものカウンター席でアイスコーヒーを飲んでいた。
真白千影が奥でエプロンを外していた。
「マスター。今日は早めに上がります」
「ああ」
柊一はカップを磨く手を止めずに応じた。
「ドラマの打ち合わせ、だろう」
「はい」
「遅くなるなら、連絡しろ」
「はーい」
千影が笑って扉の方に歩いていった。
カウベルが鳴った。
扉が閉まった。
「……」
律は氷の溶けかけたグラスを見つめていた。
店内には、柊一と律だけが、残っていた。彩音はまだ、来ていない。
(今だ)
(今しか、ない)
(ずっと聞けなかったこと)
律はストローを噛んだ。
噛んだまま、数秒、躊躇った。
グラスを置いた。
「マスター」
「なんだ」
「正直に答えてください」
律の声が低かった。
柊一が磨いていたカップを棚に戻した。
「急に改まるな」
「……彩音先生のことどう、思ってますか」
カウンターの内側で一瞬、布の音が止まった。
柊一は新しい、カップを手に取った。
「ただの常連だが」
「……素直に答えてください」
「客だ」
「……あれ」
律の脳内の設計図の一辺がぐらっと傾いた。
(客)
(……客)
柊一は淡々とカップを磨きながら、続けた。
「何か、知らんが——」
「はい」
「俺には、千影が——」
柊一の布巾の動きが、一拍、遅れた。
磨きかけのカップの上で布が半拍、止まった。
「……」
「……マスター?」
「今のは、忘れろ」
「千影さんとそういう、関係になったんですか!?」
「子供には、早い話だ、忘れろ」
「大人ってそんなに早いの!?」
「お前が遅すぎるだけだ」
柊一は布をぱさっ、と畳んだ。
律はカウンターの上で指を組んでその指をほどいてまた、組んだ。
顔から血の気が引いていった。
(整理しよう)
(整理、整理)
(えっと)
(マスターは先生のこと、「客」って言った)
(……千影さんと付き合ってる、って言った)
(ということは)
(マスターから先生への矢印は)
(……最初からなかった)
(じゃあ、先生の恋は)
(……完全に)
(終了、じゃない、か!?)
「——おい」
「はいっ」
「顔色が悪いが、大丈夫か」
「あ、あのアイスコーヒー、一杯、急ぎで」
「注文は最初にしろ」
柊一は氷をグラスに落とした。
こつん。
律の前に新しいグラスが置かれた。
律はそれをストローを挿しもせずに一気にあおった。
喉の内側が冷たい。
頭は全然、冷えない。
「味わって飲め」
「き、今日はし、失礼します」
律は財布から小銭を出してカウンターに置いた。
半分、落として拾った。
扉へ向かった。
カウベル。
扉の向こうに律が消えた。
「……」
柊一はカウンターの内側で首を一度、傾げた。
「なんだったんだ、あいつは」
答える者はいなかった。
柊一は落ちていた百円玉を拾い上げてレジに入れた。
夜。
真白千影がマンハッタンの扉を開けた。
カウベル。
「戻りました」
「おう」
柊一が顔を上げた。
「打ち合わせ、どうだった」
「順調です」
「そうか」
千影はエプロンを取ってカウンターの奥に入った。
柊一はカップを一つ、磨き終えて棚に戻した。
「そういえば」
「はい」
「昼、律が変な様子で帰った」
「え」
「顔色、悪くてアイスコーヒー、一気飲みして走り出てった」
「……」
千影はエプロンの結び目を結んでいた指を、ふっと緩めた。
(律くんが)
(変な様子、で帰った)
「何か、言いましたか」
「いや」
「マスター、何か、喋りました?」
「……お前のことを一言、口滑らせたくらいだ」
「マスター」
「すまん」
「……ああ」
千影はエプロンを結び直した。
(なるほど)
(——律くん、それで、崩壊したのか)
「マスター、今夜電話一本、入れていいですか」
「ああ」
「ちょっと長くなるかもです」
「好きにしろ」
閉店後。
千影は自分のアパートの玄関で靴を脱ぎながら、スマホを耳に当てていた。
コール音。
二回目で出た。
「——千影ちゃん!」
「先生、夜遅くにすみません」
「いいのいいの! ちょうど、宗方監督のドラマ、三回目、見てたとこ!」
千影はドアに背を預けた。
深呼吸を一つ、した。
「先生。報告したいことあります」
「何、何」
「——マスターと付き合うことなりました」
「……」
「先生?」
「……ええええええええ!?」
スマホの向こうからドスン、と何かが、落ちる、音。
「ちょっと待って千影ちゃん! 今、スマホ、落とした——拾った拾ったもう一回、言って!」
「マスターと付き合うこと——」
「ほんとに!? いつ!? どっちから!? 告白のセリフは!? シチュエーションは!? 場所は!? マスター、跪いた!?」
「先生、情報量、多いです」
「落ち着けるわけ、ないでしょ、こんな大ニュース! 宗方監督の新作発表以来の衝撃よ!?」
「先生、跪くのは、プロポーズです」
「混ざった! 今、頭の中で混ざった!」
千影は玄関の框に腰を下ろした。
スマホを耳から少し、離した。
(先生のテンションが)
(——爆発してる)
「……あー、よかった」
彩音の声のトーンが一段、下がった。
「本当によかったわねえ」
「……先生」
「先生ね、実はずっと心配してたの。千影ちゃんが、何か、抱えてて言えなくて苦しそうで——」
「先生」
「——うぅっ」
「泣かないでください」
「嬉し泣き、嬉し泣きよ。……だって千影ちゃんが、やっと言えるようになったのが、嬉しいの。あー、鼻水が」
「ティッシュ、使ってください」
「使ってる、使ってる」
千影はスマホを反対の耳に持ち替えた。
(情報量の暴力)
(マスターと同じ、系統の勢いだ)
(——似てる)
ひとしきり、彩音が鼻をかみ、鼻をかみ、また、鼻をかんだ、あとで。
千影は少しだけ、軽い、気持ちで聞いてみた。
「そういえば先生」
「はい」
「最近、瀬尾くんとどうですか」
「……」
彩音の声のテンションが急に変わった。
「……律くん、ね」
「はい」
「……最近、差し入れが、来ないの」
「……差し入れ」
「冷蔵庫、空っぽなの」
千影の玄関の框の上で、指先が宙に浮いたまま、止まった。
「えっ」
「ベランダにも出てこないし、廊下ですれ違っても目、合わせてくれないし」
「……」
「成長期なのにちゃんとご飯、食べてるのかしら」
「先生」
「怒らせちゃったかな。先生として何か、傷つけること言っちゃったのかな」
「先生」
「ねえ、千影ちゃん。高校生の男の子って急にこう、なることある?」
千影はスマホを持ったまま、天井を見上げた。
(先生)
(それ)
(それはもう)
(完全に彼女のセリフだ)
(自分の冷蔵庫が生徒の手料理で埋まってたこと自体が)
(まず、普通じゃないんですよ、先生)
(それが、来なくなって寂しがるのは)
(……本人だけが、気づいてない)
(マスターの鈍感と先生の鈍感、いい勝負、だな、これ)
「……先生」
「はい」
「思春期、ですよ、きっと」
「そうかな」
「そうです。ほっときましょう」
「そうかなあ」
「では、また、店で」
「千影ちゃん、おめでとう! 本当におめでとう!」
「ありがとうございます」
千影は電話を切った。
スマホを玄関の框に置いた。
額に手を当てた。
(先生の恋は)
(——先生自身が一番、気づいてない)
深夜。
千影が歯を磨いて部屋に戻ったその途中で——
スマホが震えた。
ブブッ。
画面に律の名前。
ブブッ、ブブッ、ブブッ、ブブッ——
通知が止まらなかった。
『千影さん大変です』
『マスターが先生のこと客だって言いました』
『客です客』
『好きじゃなかったんです最初から』
『しかもマスターと千影さんが付き合ってるって』
『え、おめでとうございます』
『いやそれどころじゃなくて』
『先生の恋が終わりました』
『どうしよう』
『どうすればいいですか』
『先生に言った方がいいですか』
『言えません』
『どうしよう』
千影は画面を指でスクロールして——
額を押さえた。
(この師弟)
(勢いだけは、そっくり、だな)
千影は通話ボタンを押した。
一回目のコールで出た。
「千影さん! あのマスターが——!」
「律くん」
「あ」
「LINEで全部、読みました」
「……あ」
「ちょっと深呼吸して」
「は、はい」
律がスマホの向こうで息を吸って吐いた。
三回くらい、吸って吐いた。
千影はベッドの縁に座った。
(……この声)
(昼間の先生の声と同じだ)
(相手のことを心配してるのに)
(自分の気持ちには、気づいてない、人間の声)
「律くん」
「はい」
「一つだけ、聞いていい?」
「はい」
「先生の恋が終わったと思って」
「はい」
「——一番、つらいのは、誰?」
「……え」
「誰」
「そりゃ、先生が——」
「先生?」
「先生が……つらい……のは……」
沈黙。
律の呼吸の音がスマホ越しに聞こえた。
浅い。
一拍、二拍、三拍——
「…………」
「……律くん?」
「……わかんないです」
「うん」
「わかんないけど」
「うん」
「……なんか、僕の方がつらい、気がします」
「うん」
「なんでだろう」
千影はベッドの縁で膝の上に両手を重ねた。
(好きの自覚すら、ない)
(……先生と同じだ)
(二人とも相手の心配ばっかり、してて)
(自分がどうして苦しいのか、分かってない)
(——何か、根本的にズレてる)
「律くん」
「はい」
「今夜はもう、寝な」
「え」
「答え、急がなくていい」
「……はい」
「また、明日、店で」
「……はい」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
千影は電話を切った。
スマホをベッドサイドの小さな台に置いた。
天井を見上げた。
(先生も律くんも)
(両方とも相手のことばっかり、見てて)
(自分のことは、何も見えてない)
千影は目を閉じた。
閉じたまま、ふっ、と息を吐いた。
(……これ)
(何か、根本的にズレてる、気がする)
(でも具体的にどこが、ズレてるのか、まだ、見えない)
(——面白く、なってきたな)
部屋の蛍光灯が消えた。
スマホの画面が暗くなって律からの最後の通知が表示されたまま、伏せられた。
『どうしよう』
その文字だけが、闇の中で一瞬、光って消えた。




