第三十話 味気ない
夕方。
彩音は自分の住む、マンションの廊下をいつもの歩幅で歩いていた。
角を曲がった。
自分の部屋の扉が見える。
その隣の扉が目に入った。
——また、閉まっている。
朝、出がけに廊下ですれ違った。律は目を逸らした。「おはようございます」の声がいつもより、半音、低かった。「彩音先生」の前のためらいの間がいつもより、半秒、長かった。
帰りも一緒には、ならなかった。
バレンタインの翌日も。その翌日も。その次の日も——
もう、三日、ベランダにも出てこない。
彩音は自分の部屋の鍵をポケットから取り出した。
回す。
扉を押す。
暗い、部屋。
いつものことだった。
靴を脱いでバッグを玄関の靴箱の上に置いて電気をつける。台所の蛍光灯がジ、と半秒、まばたきしてついた。
彩音はコートを脱いで椅子の背に掛けた。
冷蔵庫の前に立った。
扉を開けた。
——空っぽ、だった。
いつの間にか、彩音が心の中で、「律くんの棚」と呼んでいた冷蔵庫の二段目。
肉じゃが。
きんぴら。
生姜焼き。
煮物。
ローテーションのように並んでいた手料理たち。少しずつ、減っていく、タッパーの中身。空になったタッパーは洗って磨りガラスのベランダの仕切りの上に伏せて戻していた。
今は何もない。
もう、何日も何も来ていない。
(……今日もない)
彩音は扉を閉めた。
(まあ、そうよね)
(最近、律くん、避けてる、みたいだし)
(ベランダにも出てこないし)
(廊下ですれ違っても目を逸らすし)
(……何か、したかな、私)
(先生として)
(何か、傷つけること)
(言っちゃったかな)
彩音はハンドバッグからコンビニの袋を取り出した。
弁当をひとつ。
レンジに入れる。秒数を押す。三分。
ボタンのピ、という音。
ジ、とファンの回る音。
彩音は椅子に座って待った。
ビーッ。
弁当を出してテーブルの上に置く。割り箸を割る。
食べる。
……味気、ない。
食べられる。温かい。でも何かが、足りない。
同じような、弁当を何年も食べてきた。一人暮らしを始めてからずっと。これが、当たり前だった。コンビニ弁当とパックご飯。それで、十分だったはず、なのに。
(おかしい、な)
箸が止まった。
(これが)
(普通、だったのに)
(律くんが、差し入れしてくれる、前は)
(毎日、これだったのに)
(……なんで)
(こんなに味気ないんだろう)
(味は同じ、はず、なのに)
(コンビニ弁当の味は変わってない)
(変わったのは——)
箸の先が唐揚げの衣の上で止まったまま、動かなかった。
(——変わったのは)
(私、か)
彩音は半分だけ、食べて蓋を戻した。
片付ける、気力もなかった。
テーブルの上に食べかけの弁当がぽつん、と残った。
気晴らしが、必要、だった。
彩音は立ち上がってリビングの棚の前に行った。
宗方鉄哉監督のブルーレイ・コレクション。
一番、目立つ、位置にある、「隣の窓」を手に取りかけて——
止めた。
棚に戻した。
戻してから自分がなぜ、戻したのか、理由を考えないように別の一枚を抜いた。
「食卓の余白」。
(……何も考えたくない)
(ただ、大好きな、宗方監督の映像に浸りたい)
彩音はテレビの前のローテーブルにブルーレイをセットした。
毛布を肩から被った。
ソファに座ってリモコンを握った。
再生ボタンを押した。
見慣れたオープニング。何度も見た作品。カット割りもセリフ回しも全部、覚えている。
——はず、なのに。
頭に入ってこなかった。
画面の上を映像が滑っていく。音が耳を素通りする。宗方監督のあの、「ぬぅぅぅぅぅん」、ってなる、切なさが、今日は全然、響かない。
(おかしい)
(大好き、なのに)
(宗方監督、なのに)
(なんで頭に入ってこないの)
(こんなの初めてだ)
十分。
二十分。
映像がただ、流れていく。彩音の目が画面を見ているのに脳が別のことを考えている。
何を考えているのかも分からない。
ぼんやりとただ、胸の奥にもやもやしたものが、ある。
——そのとき。
ドラマの中で主人公がキッチンに立っていた。
一人分の食事。誰もいない、部屋。窓の外が暗い。
主人公の男がテーブルの椅子に座ってぽつりと呟いた。
「——当たり前って怖いな」
画面の中の低い声。
「毎日、そこにあるから気づかない」
「温かいから気づかない」
「……冷めて初めてわかるんだ」
「ああ、これは、誰かが、俺のために温めてくれてたんだ——って」
その台詞だけが——
するっ、と彩音の頭の中に入ってきた。
他の台詞は全部、素通りしていたのに。
映像も音楽も滑り落ちていたのに——
その一言、だけが。
脳の真ん中に刺さって抜けなかった。
彩音の手がリモコンをつかんだ。
反射的にテレビを消した。
画面が真っ暗になった。
部屋が静かになった。
静寂。
自分の呼吸の音だけが、聞こえる。
彩音は毛布を両手で握ったまま、ソファの背もたれにもたれていた。
頭の中でさっきの台詞がリフレインしていた。
(温かいから気づかない)
(冷めて初めてわかる——)
——律の笑顔が浮かんだ。
タッパーを差し出す、律。耳が赤い。「余ったんで」。嘘の下手な、声。
誤配達を届けに来てくれた朝。「その格好で玄関、開けない方がいいです」。
ベランダ越しの、「おやすみなさい」。
廊下で並んで歩いた帰り道。
砂糖を三回、渡してくる、あの不器用な、手。
——優しくて不器用で真っ直ぐな、男の子。
(なんで)
(なんで)
(律くんの顔が)
(出てくるの)
彩音の毛布を握る、両手の指が白く、なった。
(ドラマ、見てたでしょ、私)
(宗方監督のドラマを見てたの)
(律くんは、関係ない)
(関係ないのに——)
胸が痛かった。
息が苦しかった。
何かが、こみ上げてきていた。
(待って)
(これは)
(……これは、もしかして——)
——好き。
言葉が頭の中で弾けた瞬間。
全身から力が抜けた。
心臓が壊れたみたいに速い。手が震えてる。顔が熱い。膝が勝手に折れる。
二十六年、生きてきてこんなの初めてだった。
ドラマの中のヒロインがこうなるのを百回は見た。百回、見ていたのに——いざ、自分の胸で同じことが、起きたら、知らない身体に乗り換えさせられたみたいに息ができなかった。
(宗方監督)
(こんなに苦しいなんて)
(一度も教えてくれなかったじゃ、ない)
彩音は毛布の端を自分の口元に押し当てた。
(ダメ)
(ダメ、ダメ、ダメ)
(私は教師で)
(律くんは、生徒で)
(担任、よ)
(歳だって離れてる)
(こんなの)
(こんなのは、許されない)
(先生が)
(生徒を好きになるなんて——)
(そんなの——)
頭で否定する。
理性が全力で壁を立てる。
でも胸の奥の痛みが、消えない。
律の笑顔が消えない。
冷蔵庫の空っぽが、ベランダの沈黙が廊下で逸らされた目線が——
全部。
全部、ずっと苦しかったのだ。
「先生として心配してる」、なんて——嘘だった。
(嘘)
(それは、嘘よ)
(私が一番、嘘が下手なの)
(私自身が一番、知ってるのに)
(……分かってる)
(分かってる、のよ)
(でも分かりたくない)
(認めたら)
(戻れない)
(認めたら——)
(律くんの前で)
(先生でいられなくなる)
目が熱くなった。
視界が滲んだ。
涙が頬を滑った。
彩音は自分でも驚いた。泣いてる。私が。こんなことで。律くんが、差し入れを持ってこなくなったそれだけのことで。それだけのことなのに。
涙が止まらなかった。
一度、崩れたら、堰が切れた。
彩音はローテーブルに突っ伏した。毛布を両手で握りしめてぐちゃぐちゃに泣いた。
声を殺して。
一人の部屋で。
(なんで泣いてるの)
(……分かってる、くせに)
(——ばか、みたい)
泣きながら、ローテーブルの上のコンビニ弁当の残りが、目に入った。
半分残った唐揚げ。半分残った白米。冷め始めた漬物の緑色。
彩音は毛布の端で自分の頬の涙をぬぐった。
ぬぐってもぬぐっても止まらない、その涙の合間に。
(……律くんの肉じゃが)
彩音の口元が毛布の中でほんの少しだけ、動いた。
(食べたい)
それが——
今夜の彩音の一番、正直な、気持ちだった。
部屋の蛍光灯の白い光がローテーブルの上の半分残ったコンビニ弁当を上から平らに照らしていた。
磨りガラスのベランダの仕切りの向こう側の隣の部屋は今夜も暗かった。




