第二十九話 その顔のほうがいい
マンハッタン、閉店後。
千影はエプロンの紐を解きながら、レジ前の椅子の背にそれをたたんで掛けていた。
柊一はカウンターの中で自分の布巾を肩から外して最後のグラスを磨き終えたところ。
常連はもう、いない。律も彩音もいつもより、少し、早めに帰っていった。残った二人。残った湯気の匂い。
「……お前の出てるドラマ」
柊一の声が低く、ホールに落ちた。
「見た」
千影のエプロンをたたむ手が止まった。
振り返る。
柊一は視線を磨き終えたグラスに落としたまま、続けた。
「演技がうまい」
千影の手がエプロンの上で固まっている。
「あの役は——」
柊一はグラスを棚に戻した。
「言えない、想いを抱えてる、役、だったな」
「……はい」
「お前にしか、演じられない、だろう」
千影の視線が自分の手元のエプロンに落ちた。
たたんだ、布のシワを指の腹でゆっくり、撫でる。
(マスターは)
(わかってる)
(あの役が)
(演技だけじゃ、なかったことを)
(——でも今は)
(それで、いい)
千影はエプロンを椅子の背に掛け直した。
(マスターが)
(ドラマを見てくれた)
(「男のバイト」としてではなく)
(「女優の千影」として)
(見てくれた)
千影のエプロンのポケットの中で業務用のスマホが小さく、震えた。
千影は片手で引き出して画面を一瞥した。
柳瀬副社長から、LINE。
『続編プロット会議の件、前向きに検討中です』
千影は画面を伏せてポケットに戻した。
(……また、来た)
(最近)
(事務所からの連絡が増えてる)
(一年の契約期間も)
(もうすぐ、終わる)
(それは、それ)
(今はマスターの前にいる、時間だ)
柊一が千影の手元に目を落とした。
「スマホ、鳴ってたか」
「事務所、です」
千影はポケットの上から軽く、手を当てた。
「後で返します」
「ああ」
柊一はそれ以上、訊かなかった。
布巾を肩に掛け直して別のグラスを棚から取った。
——前日、夕方。
マンハッタンのいつもの席に口喧嘩のカップルがいた。
佐伯と連れの女。今日もいつもの口喧嘩からいつものコーヒーへいつもの流れで移行している。
連れの女がメニュー表を片手で閉じてカウンターの中の柊一に声をかけた。
「マスター」
「ん」
「バレンタインなんだから」
「……ん」
「チョコドリンクくらい、あるでしょ」
「ない」
「普通」
「ない」
「嘘」
女はメニュー表をもう一度、開いてぱたん、と閉じた。
「この店、ナポリタンもオムライスもカレーも冬の季節メニューもあったのに?」
柊一は布巾を握る指の力を、抜いた。
止めたまま、視線だけ、女の方に向けた。
「……アンタ」
「え?」
「名前は」
「え?」
女の目が瞬いた。
「……長谷川、紬だけど」
柊一は布巾を肩に掛け直した。
「……三日後、また、来い」
「は?」
「三日後だ」
「マスター、なんで急に名前を——」
「いいから来い」
長谷川は肩をすくめた。
柊一は自分のメニューの走り書き用のメモ帳を引き出しから取り出した。
三日後。
長谷川と佐伯がいつもの席に座ったその瞬間。
柊一がカウンターの中から白い湯気の立つ、トールサイズのカップをふたつ、出した。
濃い、茶色。表面に生クリームの白い渦。
「ホットチョコドリンク」
柊一の声はいつもの低い、声。
「……ベルギーチョコ、使ってる」
「えっ」
長谷川の目が二回、瞬いた。
「マスター」
「ん」
「これ、二つ、ある」
「ある」
「私、一つしか、頼んでない」
柊一の視線が佐伯の方に移った。
佐伯はすでに自分の前のトールサイズのカップを両手で包んでいた。
「俺も飲む」
「頼んでないって言ってるでしょ」
「頼んでる」
長谷川は額に片手を当てた。
柊一は自分の布巾でカウンターの自分の側の水滴を拭いた。
カウンターの中で千影が新しいグラスを磨きながら、そっとため息をついた。
(また、増えた)
(数えてる、自分がいる)
(マスター)
(あなた本当はお客さんの、「食べたい」を聞くの好きでしょ)
柊一は布巾を肩に掛け直しながら、視線を佐伯と長谷川の方に向け直した。
(あの二人は)
(いつになったら、素直になるんだ)
律がカウンターの端の席でいつものコーヒーを飲んでいる。
ここしばらく、彩音宅の冷蔵庫に律からの差し入れが届かなくなっている。
(瀬尾くん)
彩音は自分のコーヒーカップに視線を落とした。
(……いつもは)
(夜ごと、冷蔵庫を開けるたびに、あの匂いが流れてきてたのに)
(……なんだろう)
(この感じ)
(別に)
(チョコをもらえると思ってないけど)
(生徒だし)
(……ただ)
(空っぽの冷蔵庫のことが)
(ちょっと)
(気になるだけ)
彩音はコーヒーカップに視線を落とした。
自分の胸がなぜ、ざわつくのか、まだ、わかっていなかった。
——閉店後の夜。
マンハッタンには、千影と柊一だけが、残っていた。
千影はもう、男装モードでも白河凛モードでもなかった。
ただの千影。
声は素のまま。笑い方は柔らかい。前髪を軽く、かきあげる、その仕草が自然に女性的。
もう、隠さなかった。
柊一はポットを取って自分のカップと千影のカップにコーヒーを注いだ。二人分。
カップをカウンターの上に二つ、置く。
ひとつは、千影のいつもの席の前に。
もうひとつは——
柊一は布巾を肩から外してカウンターの内側の自分の側ではなく、千影の隣の席の前に置いた。
そのまま、カウンターをぐるり、と回り込む。
ホールの側に出る。
千影の隣の椅子に座った。
「マスター」
千影が自分のコーヒーカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。
「そっち側に来るの珍しいですね」
「ああ」
短い、答え。
二人の間でコーヒーの湯気が二筋、立ち上った。
千影がふと柊一の横顔の方に視線を向けた。柊一と目が合う。
千影の口元がほんの少しだけ、ゆるんだ。
素の顔。
(……その顔で客の前に出るな)
(いや)
(その顔のほうが、いい)
(……何を考えてるんだ、俺は)
柊一は自分のコーヒーカップをソーサーから持ち上げた。
持ち上げて口をつける、寸前で止めた。
柊一はカップをソーサーに戻した。
息をひとつ、吸った。
「……俺は」
千影の肩がわずかに動いた。
「言葉を信じない」
千影は自分のコーヒーカップを両手で握ったまま、動けなかった。
——前に聞いた言葉。
性別バレの夜。あの路地裏で。
「それでも——」
柊一の目が千影の目をまっすぐ、見た。
「聞いてくれ」
千影の息が止まった。
前は、「言わせてくれ」、だった。
今日は、「聞いてくれ」。
同じ、前口上。
最後の一語だけが、反転していた。
(——許しを請う、言葉じゃ、ない)
(届ける、言葉だ)
柊一の声は震えていなかった。
「千影」
千影の肩がもう一度、動いた。
「俺は——」
柊一は息をひとつ、吐いた。
「お前のことが、好きだ」
千影の息が止まったまま、動けなかった。
時間がしばらく、止まったままだった。
「街で助けたあの人にも」
「白河凛にも」
「毎日、カウンターにいたお前にも」
「全部——」
柊一は自分のコーヒーカップに視線を落とした。
「全部——同じ人間だった」
「別の女に惹かれてるつもりで」
「相手はずっと、一人だった」
柊一の口元がほんの少しだけ、苦笑の形になった。
「……俺は」
「鈍い、男だ」
「……マスター」
千影の声は湿っていた。
「ん」
「……嘘じゃ、ないですよね」
「俺は嘘をつかない」
千影の目から涙がひと粒、コーヒーの湯気の中に落ちた。
「泣くな」
「泣いてません」
「嘘、つけ」
「……嘘じゃ、ないです」
千影は自分の頬を片手で軽く、押さえた。
「まだ」
柊一が自分のコーヒーカップを両手で包み直した。
千影が息を吸った。
吸って吐いた。
「……私も」
千影の声はまだ、湿っていた。
「マスターのことが、好きです」
「面接のときから」
「コーヒーを淹れる、手を見たときから」
「ずっと」
柊一は自分のコーヒーカップの底に視線を落としたまま、頷いた。
「……そうか」
「それだけ、ですか」
柊一はひと呼吸、置いた。
「……嬉しい」
「……っ」
「嬉しいと言っている」
柊一は自分の口元を片手で軽く、押さえた。
「……これ以上、喋らせるな」
「……」
「今年の台詞をもう、使い切った」
千影が声を上げて笑った。涙がもう一筋、頬を滑った。
短い、沈黙。
コーヒーの湯気が二人の間にまだ、立ち上っている。
千影が自分のシャツのポケットに手を入れた。
取り出したのは、業務用のスマホ、と。
もうひとつ。
バイトの連絡用にずっと使ってきた、個人のスマホ。
二台、カウンターの上に並べた。
「マスター」
「ん」
「……ひとつ、お願いがあります」
千影は二台のスマホを指の腹で軽く、撫でた。
「LINEで毎晩、文字を交わしていたのは」
「……」
「業務用——白河凛の名義のLINEでした」
「……」
「事務所を通せば、誰でも知ってる、女優の連絡先です」
柊一が頷いた。
千影は隣の個人用のスマホに視線を移した。
「こっちは、バイトの千影として」
「面接の翌日、シフトの連絡用にマスターに渡した、個人のLINE」
「ずっと、使ってきました」
「……でも」
千影の声がほんの少しだけ、揺れた。
「どっちも」
「……」
「本当の私の名前で、登録、してもらえてないんです」
「……」
「業務用は、『白河凛』で」
「個人用は、『真白』、苗字だけ」
千影は息をひとつ、置いた。
「マスターの連絡先、開いて、もらえますか」
「……ああ」
柊一が自分のポケットからスマホを取り出した。
その取り出し方の手の高さ。
駅前で伸びかけて止まったあの手の高さ、と同じ、高さ。
今日は止まらなかった。
届いた。
柊一が連絡先一覧を開く。「白河凛」と「真白」が、別々のところに並んでいた。同じ一人なのに、別々の登録。
千影が画面を指でそっと、指した。
「真白千影、として」
千影の声は静かだった。
「登録し直して、ください」
「……」
「白河凛、じゃなくて」
「真白、苗字だけ、でも、なくて」
「真白千影、で」
柊一は連絡先を編集した。「白河凛」を「真白千影」に。「真白」を「真白千影」に。指がぎこちない。慣れていない動作。けれど、止まらなかった。
二つの連絡先が同じ名前に揃った。
柊一は自分のスマホを長く、見ていた。
(「白河凛」でも)
(「真白」、苗字だけ、でも、ない)
(素の、名前だ)
(……二つの番号が)
(向こうで)
(同じ一人に、繋がっている)
(今、ようやく)
(その一人が)
(俺の手の中で)
(同じ名前に、なった)
柊一は自分のスマホをポケットに戻した。
「……揃えた」
千影が頷いた。
頷いた後で泣きながら、笑った。
柊一がぎこちなく、千影の肩に手を置いた。
千影はその手の重さを肩で受け止めたまま、しばらく、動かなかった。
カウンターの外。
八年間、カウンターの中に立ち続けた男が千影の隣に座っている。
境界がひとつ、外れていた。
「マスター」
「ん」
「コーヒー)
「……」
「おかわり、いいですか」
「自分で淹れろ」
柊一の声はいつもの低い、声。
「カウンターの中は」
「……」
「お前の場所、でもある」
千影は目を瞬いた。
頷いた。
「はい」
千影が立ち上がった。カウンターの内側に回り込む。
柊一はカウンターの外側の椅子に座ったまま、待っていた。
千影がポットに湯を沸かす。豆を挽く。挽きたての香りが、ホールにふわり、と広がった。
ドリッパーにネル。豆。蒸らし。湯。らせん。
いつもの所作。
ただし——
今日、淹れているのは、自分のためでも客のためでもない。
カウンターの外側に座っている、その人のために淹れている。
ネルからコーヒーがぽたぽたと落ちる。
千影はカップに注いでソーサーごとカウンターの外側の柊一の前に置いた。
把手の向きを柊一の側に丁寧に揃えて。
柊一が両手でカップを持ち上げた。
口をつける。
飲んだ。
「……悪くない」
「褒めてます?」
「褒めてない」
千影が笑った。
今夜、何度目か、わからない、笑い、だった。
閉店のマンハッタン。
柊一がカウンターの外側で椅子を上げ始める。木の椅子の脚がホールの床から離れる。コトン、と軽い音。
千影がカウンターの内側で別の椅子を上げる。前よりも力の抜けた軽い、音。
窓の外を彩音のヒールの音が通り過ぎた。タッ、タッ、タッ、と規則的なリズム。マンハッタンの看板の前で一瞬だけ、止まった。それからまた、遠ざかっていく。
カウンターの端で律がコーヒーカップを置く、小さな、陶器の音が心の中に響いたような気がする——いや、今夜は律はもう、帰った後だ。記憶の中の音、だった。
四つの音。
しかし、今夜は二つの音が特別に近い。
柊一の椅子を上げる、音と。
千影の椅子を上げる、音が初めて同じ、リズムで響いていた。
最後の椅子の脚がホールの床から離れる。
乾いたベルの音はまだ、鳴らない。
ホールの白い湯気の匂いが、夜の店内に長く、残っていた。




