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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第3部「嘘と沈黙」

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28/37

第二十八話 似た者同士

 マンハッタン、夕方。

 扉のベルがいつもより、遅い時間に鳴った。

 千影が入ってきた。地毛のまま、後ろで軽く、留めただけ。鞄を肩に。コートを片手に。

 その日の朝はスタジオで本編の撮影。昼は雑誌の表紙撮り。午後は初クランクインに向けた段取り会議。鷹宮プロの車で近所まで送ってもらい、角で降りた。コインランドリーの裏の細い道で白河凛のメイクをウェットティッシュで落とした。エプロン用のシャツに着替えた。

 いつもの扉を押した。

「遅いぞ」

「すみません、番宣の撮影が押して」

「何時から仕込みに入れる」

「あと五分でサンド用の卵、剥きます」

 短い、やり取り。

 柊一は千影の目元の薄い疲労を見ていた。

 何も言わなかった。

 ただ、カウンターの隅に淹れたての自分用のコーヒーをひとつ、置いた。

 千影はそれを両手で包んで一口、含んだ。

 息を吐いた。




 仕込みが、ひと段落、ついた頃。

 千影は彩音のいつもの席のコーヒーを注ぎ替えに行った。彩音は夕方、いつものように店に来ていつもの本を開いている。

「先生」

「うん?」

「マスターがコーヒーの淹れ方が良くなったって言ってくれたんです」

 千影の頬がいつもより、柔らかい。

 彩音は本をぱたん、と閉じた。

「良かったわね、千影ちゃん」

「はい」

 千影はコーヒーを注ぎ終わってからポットを片手に持ったまま、ふと首を傾げた。

「もう、先生こそ」

「ん?」

「気になる人とか、居ないんですか?」

 彩音の本を握っていた左手の指がわずかに跳ねた。

 彩音の頭の中で——

 なぜか、律の顔が浮かんだ。

 先生という、立場上、絶対に思い浮かんでは、いけないのに。頭を過った。

 パーカーの匂い。ベランダ越しの声。「大きくなったね」と言ったときの手。

「い、いないわよ!」

 彩音の声が半オクターブ、跳ねた。

「先生は生徒の恋を応援するのが、仕事なんだから!」

「……?」

 千影はポットを自分の利き手側に持ち替えながら、首をもう、半度、傾げた。

「誰も生徒の話、してませんけど……」

 彩音の肩が跳ねた。

「……!」

 彩音はコーヒーカップを両手で包み直して視線をテーブルの上のしおりの紐に落とした。

「と、とにかく、私は大丈夫!」

「……」

「それより、千影ちゃんとマスターの話を——」

 千影はポットを自分の手元に戻して彩音の顔を見た。

 千影は女優だ。人の表情を読むのが、仕事だ。

 彩音の動揺の質。それが、「律くんの恋を心配する、先生」では、なく、「自分の恋に狼狽する、女」のそれである、ことに千影は気づき始めていた。

(……先生)

(耳が赤い)

(誰も生徒の話、してないのに勝手にすり替えた)

(瀬尾くんが、来ると)

(声のトーンが変わる)

(瀬尾くんの隣だけ)

(無意識に椅子を寄せてる)

(——演技の現場で何百回も見てきたパターンだ)

(自覚のない、恋)

(……先生の鈍ちん)

 千影は口には、出さなかった。

 ポットを片手に軽く、揺らして自分の業務スマイルをつくる。

(先生と瀬尾くんは)

(先生と生徒だ)

(今はまだ)

(黙って見てるしか、ない)

 千影は軽く、頭を下げてカウンターの中に戻った。

 彩音はコーヒーカップを両手で握ったまま、しばらく、テーブルのしおりの紐を見ていた。




 夕方の客がひと波、引いた頃。

 律がいつもの席に座って参考書を開いていた。今日はシャープペンを握ったまま、ページをめくる手の動きが、いつもより、ゆっくり、している。

 彩音は自分の勇気をひと呼吸でまとめた。

 立ち上がって律の隣の席に移った。

「ねえ、瀬尾くん」

「はい」

「好きな人のこと——」

 律のシャープペンの動きが、止まった。

「相談、してみない?」

「……」

「先生」

 彩音は自分のコーヒーカップをテーブルの自分の側に置いた。

「気づいてるのよ」

 律のシャープペンがテーブルの上で転がりかけた。

 律の内心のキーが半秒、フリーズした。

(……先生が、「気づいてる」?)

(何に?)

(僕が先生のことを——)

(いや)

(気づいてたら、こんな、軽い言い方、しない)

(じゃあ、何を気づいてるんだ)

 律はシャープペンをテーブルの上で止めて姿勢を直した。

「……先生」

「うん?」

「相談していいですか」

「もちろん!」

 彩音は両手をぱん、と打ち合わせた。

「先生に任せなさい」

 千影はカウンターの中で新しいコーヒーカップを磨きながら、ホールの方にわずかに視線を向けた。柊一はその隣でネルに湯を注いでいる。

 千影と柊一は同じタイミングで視線を彩音と律の方に向けた。

「その人」

「はい」

「どんな子?」

 律は自分のコーヒーカップに両手を添えた。

「……鈍い人、です」

「鈍い」

 彩音はコーヒーカップを自分の口元まで上げかけて止めた。

「こっちが、何をしても」

 律の声は低く、平坦。

「当たり前みたいに受け取るんです」

「……」

「料理を作って持っていっても、『余ったの? ありがとう!』で終わるくらい」

 彩音のコーヒーカップが口元の半分手前で止まった。

 止まったその姿勢のまま。

(料理を作って持っていって)

(「余ったの?」で片付けられる)

(……あれ)

(なんか)

(どっかで聞いたような)

 彩音の頭の中で磨りガラスの向こうのベランダの記憶がかすめた。

 彩音は自分の頭の中のその記憶を慌てて棚の奥に押し戻した。

(……まあ、いいわ)

(千影ちゃんのことよね)

 彩音はコーヒーカップをテーブルの上に戻した。

「どのくらい、鈍いの?」

「……隣にいても」

「うん」

「ただの知り合いとしか、思ってもらえてない、感じです」

「……」

「しかも」

 律は自分のシャープペンをもう一度、テーブルの上で転がした。

「こっちが、緊張して手が震えてても、『寒いの? 暖房つける?』とか、言うんです」

 カウンターの中で——

 千影がふっ、と小さく、吹き出した。

 慌てて口元を両手で押さえる。柊一の視線が千影の方にちらっと向いてすぐ、ネルに戻る。

 彩音はテーブルの上のしおりの紐をまた、いじり始めた。

(手が震えてるのを、「寒いの?」って……)

(それ、もう、鈍感の域を超えてない?)

(……あれ)

(何だろう、この既視感)

(私もどこかでそういう——)

(いや、いや)

(今は律くんの話)

(集中、集中)

 彩音はコーヒーカップをもう一度、両手で包み直した。




「……瀬尾くん」

「はい」

「正直に言っていい?」

「はい」

「相手がそこまで気づかないなら——」

 彩音は自分の声にほんの少しだけ、教師の丁寧さを戻した。

「脈、ない、のかもしれないわよ?」

「脈はないです」

 即答。

 彩音のまばたきが、半拍、遅れた。

「……え」

「ないと思います」

 律は自分のコーヒーカップの底を見た。

「ゼロです」

「……」

「相手にとって僕はたぶん——」

「……」

「カテゴリが違うんです」

「カテゴリ」

「恋愛の土俵に乗ってない」

 彩音の胸がズキン、と痛んだ。

 なぜ、痛むのか、わからなかった。

(「カテゴリが違う」)

(……うん)

(千影ちゃんは、男装してて)

(律くんは、男で)

(そりゃ、カテゴリは——)

(——って)

(なんで私の胸が痛いの)

(律くんの話、でしょ)

 彩音は自分の頬の内側を軽く、舌の先で押した。

(……そう)

(共感、してるのよ)

(先生として)

(生徒に寄り添ってるの)

(えらいぞ、私)

 彩音の声がもう一段、低くなった。

「……それでも好き?」

「それでも好きです」

 声が静かだった。

 嘘がない、声。

 彩音は息を呑んだ。

 彩音の頭の中で、「穏便に終わらせる」という、最初の戦略の字面がふわっ、と消えた。

(この子)

(本気だ)

(この声は本気の声だ)

(宗方監督の『沈黙の果て』で聞いたあの声と——)

(いや)

(ドラマじゃ、ない)

(これは、本物の声だ)

 カウンターの中で柊一の布巾を握る指に、力が抜けた。

(……いや)

(あんただ)

 柊一は自分の内心のツッコミを視線にも出さないまま、布巾の動きを再開した。




 彩音の教師としてのスイッチが切り替わった。

 いや、教師、では、なかった。

 恋愛カウンセラー、でもなかった。

 ——宗方鉄哉ドラマ、全巻ブルーレイ、所有者の顔。

「わかった」

 彩音の目がわずかに輝き始めた。

「本気なら、ちゃんと聞く」

「……」

「——アプローチ、何か、してみた?」

「……しようとは、するんですけど」

 律の視線が自分のコーヒーカップの底に戻る。

「あの人の前だと普通になっちゃうんです」

「うん」

「プレゼントを用意しても」

「うん」

「渡すときには、『近くの店で買ったんで』って」

「それよ!」

 彩音の両手がテーブルの上にぱん、と置かれた。

「それ!」

 彩音は身を乗り出した。

 目が変わっていた。

「好きな人の前で嘘ついちゃう、やつ!」

「……」

「本当は一生懸命、選んだのに、『たまたま』って言っちゃうの!」

 彩音の声がホールの別のテーブルの客にも届きそうな、勢いになった。

 千影がカウンターの中で口を両手で押さえた。

(先生)

(それ)

(鏡)

(鏡、見て)

 千影は声に出さないまま、心の中で彩音の肩を揺さぶった。

「——つまり、アプローチ、してるのに」

 彩音の声がさらにひと段、上がる。

「自分で包装紙、かけてるのよ!」

「……」

「相手からしたら、全部、『偶然の親切』にしか、見えないじゃない!」

「……はあ」

「そりゃ、伝わらない、わよ!」

 律は自分のシャープペンを握ったまま、目をぱちぱちと瞬いた。

「いい?」

 彩音はテーブルに両手を置いたまま、人差し指を一本、立てた。

「鈍い人にアプローチする、コツはね」

「……」

「ひとつだけ」

「……はい」

「『いつもと違うこと』」

 彩音の人差し指がテーブルの上で円を描いた。

「毎日、同じ調子でいたら」

「……」

「好意だって風景になるの」

 律の唇が開きかけて止まった。

 彩音は人差し指をテーブルから離して自分のコーヒーカップに戻した。

「——だから」

「はい」

「一回でいいから嘘をやめて直球で言うのよ」

 律の視線が自分のコーヒーカップに落ちた。

「直球で言って……」

「うん」

「迷惑だって思われたら」

 ——彩音の手が止まった。

 声が変わった。

「——それを言ったら、だめ」

 彩音の目が律の目をまっすぐ、見た。

「迷惑かどうかは、相手が決めること」

「……」

「あなたが、決めることじゃ、ない」

 律は黙った。

 さっきまでの彩音の宗方ファン暴走の声色とは、別人の声色。

 彩音はテーブルの上のしおりの紐をもう、いじっていなかった。

「伝えなかったら」

「……」

「その気持ちは、ずっと存在しないのと同じよ」

「……」

「相手が鈍くてカテゴリが違って立場が邪魔しても——」

「……」

「言わなかったら」

「……」

「始まりすら、しない」

 彩音は息をひとつ、吸った。

「……それで、いいの?」

 律のシャープペンがテーブルの上で転がった。転がってテーブルの向こうに半分、落ちかけて止まった。

 彩音の目の縁が湿っていた。

 彩音、本人はそれに気づいていなかった。

(……あれ)

(私、今、誰に向かって言ってるんだっけ)

(律くんの好きな人について話してたのよね)

(……なんで)

(目が熱いの)

(鼻の奥がツンとする)

(やめて)

(泣くところ、じゃ、ないでしょ)

(生徒の恋愛相談、でしょ)

 彩音は自分の手の甲で目の縁を軽く、押さえた。

 止まれなかった。

 止まり方を忘れていた。

「——でも」

「はい」

「直球でも通じないことある」

「……」

「そのためにね——」

 彩音はもう一度、身を乗り出した。

 もう、「相手が誰か」という、情報は彩音の頭の中に存在していなかった。

 ただ、鈍感な、誰かと伝えられない、誰かが、いた。

「必殺技があるわ」

 律のシャープペンを握り直す指が止まった。

 カウンターの中で千影が磨いていたカップを危うく、ソーサーの上で滑らせかけた。柊一が自分のネルへの湯を注ぐリズムを、外した。

「必殺技」

 律の声が半音、低くなった。

(恋愛で必殺技って)

 千影は心の中で半歩、引いた。

(なんだ)

(相手、死んじゃうじゃ、ないか)

 柊一は心の中でポットを傾けたまま、止めた。

(……必殺技)

(恋愛に必殺技)

 彩音は両手をテーブルの両端に突いた。

「もう、強引に——」

「……」

「押し倒す!!」

 律の口に入れていたコーヒーが噴出した。

 ぶしゅっ。

 茶色い飛沫がカウンター用のテーブルクロスに点々と散った。

 千影はカウンターの中でつんのめった。手元の皿を危うく、ソーサーの外に落としかけた。

 柊一のポットがドリッパーの上でガクン、とずれた。湯がドリッパーの外側を滑り落ちかけて——柊一の左手がギリギリでドリッパーごと押さえ直した。

 柊一の顔は無表情のまま。

(何を言ってるんだ、この人は)

 彩音は両手をテーブルに突いたまま、なお、続けた。

「大丈夫、ドラマだと百パーセント、成功してたわ!」

 千影がたまりかねてカウンターの中から口を挟んだ。

「先生、先生」

 千影の声は白河凛モードでも男装モードでもない、ただの千影の声。

「さすがにそれは、ダメです」

「え、なんで?」

「——『隣の窓』の最終回でも——」

「先生」

「うん」

「ドラマです」

「うん」

「ドラマ」

「うん」

「現実にやったら、事件です」

「……事件?」

「事件、です」

(高校生に)

 柊一の内心のツッコミは淡々と続いた。

(しかも生徒に)

(何を言ってるんだ、この人は)

(……先生は)

(知識だけは、一人前、だが)

(使い方が壊滅的に間違っている)




 彩音の思考がようやく、追いついた。

(——ちょっと待って)

 彩音の内心のテンポが急停止した。

(いま、私)

(「押し倒す」って言った)

(……押し倒す)

(律くんが)

(好きな人を)

(……律くんの好きな人は——)

 彩音の頭の中で整理が走った。

(千影ちゃん、男の子)

(で——)

 彩音の脳内に突如、薔薇が咲き乱れた。

 千影、男装モード、の顎を律がくいっ、と持ち上げて——

 彩音の両手が自分のテーブルの上の額の方に移動した。

(やっべえぇぇぇぇぇ)

(穏便に終わらせるどころか)

(大惨事になっちゃうぅぅぅぅぅぅ)

 彩音の額が、テーブルから少し浮いた。

(私、いま、高校生男子に)

(男の子を押し倒せって)

(指南、したの!?)

 両手で自分の頬を挟む。

(先生として!?)

(いや、そもそも)

(性別、関係なく)

(押し倒しちゃ、ダメ、って)

(千影ちゃんに言われたばっかり、でしょ!?)

 彩音は自分の額をテーブルにつけた。

 両手で自分の頭を抱える。

「先生?」

 千影がカウンターの内側から声をかけた。

「どうしました?」

「な、なんでもない!」

 彩音の声はテーブルに向かってくぐもっていた。

「ちょっと自分の発言のスケールに酔っただけ!」

(酔う……?)

 千影は心の中で首を傾げた。

 律はまだ、むせていた。顔が真っ赤。コーヒーを吹き出した飛沫をテーブル用のペーパーで拭きながら——

 頭のどこかで、「押し倒す」という、言葉が妙に残っていた。

(……やめろ)

(考えるな)

(先生に言われたからって)

(先生のアドバイスの精度は)

(壊滅的だって)

(知ってるだろ)

 律のシャープペンを握る、指が軽く、震えた。

(……でも)

(「直球が一番」っていうのは)

(マスターも同じこと言ってた)

(「好きなら、好きと言え」って)

(……直球)

(……直球と)

(押し倒すは)

(全然、違う)

(……違う、よな?)




 帰り道。

 夜の商店街はすでにシャッターが半分、降りていた。彩音はコートの襟を立てて自分の歩幅で家路に向かった。

 ふと——

 あのブルーレイの棚の一枚が脳裏を過った。

 宗方監督の、「隣の窓」。

 隣同士に住む、男性二人。一人が毎日、相手に手料理を作り続ける。相手は全然、気づかない。料理に込められた気持ちに。

 あの切なさ。

 あのぬぅぅぅぅぅん。

 彩音の足が止まった。

(……律くんと)

(千影ちゃん、だ)

(マンハッタンで毎日、顔を合わせて)

(あの距離感)

(あの気遣い)

(千影ちゃんは、全然、気づいてない)

(「隣の窓」)

(そのものじゃ、ない)

 彩音はコートのポケットの中で両手を握り直した。

(……「年上」とは、言った)

(でも)

(「年上の女性」とは、言ってなかった)

(律くんが、「千影さんは、男でしょ」って)

(自分から確認したのは——)

(ダメだって自分に)

(言い聞かせてた?)

 彩音はもう一歩、歩き出した。

 彩音は宗方監督のドラマを律から千影、男装モード、への構図に重ねた。

 ——彩音の家の隣のベランダ。磨りガラスの仕切り。誤配達の段ボール。

 彩音の視線がふっ、と自分のマンションの方角を探した。探して律の部屋の窓の位置を数えた。数えてから目を伏せてまた、商店街の先を向いた。

(なんで律くんの顔が浮かぶの)

(先生と生徒よ)

(ダメに決まってる)

 彩音の白い息が、街灯の下で長く、伸びる。

(……でもそれ以前に)

(もっとダメな、状況がある)

(教え子が)

 彩音は自分の手のひらを、コートのポケットの中で握り直した。

(踏み込んでは、いけない、扉に)

(手をかけてる)

(先生として)

(なんとか、しなきゃ)

(穏便に終わらせなきゃ)

 彩音は商店街の街灯の下で自分の白い息を見た。

(恋愛のプロ、なんて)

(自分で言ってたくせに)

(律くんにアドバイスしたら、「押し倒す」って口走って)

(店内、大惨事にしたし)

(自分のことになると)

(全然、ダメじゃ、ない)

 彩音は頭を軽く、振った。

(……いや)

(今は)

(自分の話、じゃ、ないでしょ)

(律くんの問題、でしょ)

 彩音はもう一歩、歩いた。

(律くんを心配してるのは)

(先生として当然)

(……なのに)

(なんで胸が)

(こんなに重いんだろう)

(考えないようにしよう)

(今は律くんの問題が先だ)

 彩音は冬の夜の商店街をいつもより、半歩、遅い歩幅で歩いていった。




 律も自分の部屋に戻る、廊下を歩きながら、頭の中で計算を続けていた。

(マスターと千影さんの距離が)

(近くなってる)

(マスターが先生とくっつけば)

(三角関係は解決する)

(——でも)

(先生の恋だけが、取り残される)

 律は自分のドアの前で鍵をポケットから出した。

 鍵を錠に差した手が途中で止まった。

(……先生のためだと)

(思ってた)

(……嘘だ)

 律の鍵が錠の中でガチャ、と半分、回り切った。

(僕は)

(先生が他の誰かを好きだと思うのが)

(ただ、つらい、だけだ)

 律はドアを押した。

 ドアの向こう側の暗闇が律を迎え入れた。

 磨りガラスの仕切りの向こうの彩音の部屋の明かりが、薄く、滲んでいる。

 律の靴が玄関のタイルの上でゆっくり、止まった。




 マンハッタン、閉店後。

 千影がエプロンを外しながら、帰り支度をしていた。

 扉に向かって半歩、踏み出したとき——

「……千影」

 柊一の声。

 千影が振り返る。

「お前」

 柊一は自分の布巾を肩に掛け直した。

「コーヒーの淹れ方が変わったな」

「え?」

「前は力を入れすぎてた」

「……」

「今は——」

「……」

「いい」

 千影の口が半分、開いて止まった。

(仮面が外れてからのほうが)

(コーヒーの淹れ方が)

(良くなった——)

(……力が抜けたから)

 千影は自分の外したエプロンを両手でたたんだ。

 たたんでから柊一の方に半歩、戻った。

「マスター」

「ん」

「明日から髪、留めるの)

 千影は自分の後ろで留めた髪のピンに片手を添えた。

「忘れる、かもしれません」

「好きにしろ」

 柊一は布巾をもう一度、肩から外した。

「髪、ふわふわで仕事してても」

「……」

「怒らないですか」

「ここで働いてる間の髪型なんて」

 柊一は布巾をカウンターの縁に置いた。

「俺が口を出すことじゃ、ない」

「……」

「——衛生帽、かぶれと言うなら、あるが)

「……」

「うちは、必要、ない」

「……」

「お前の見た目が」

「……」

「男寄りだろうが」

「……」

「女寄りだろうが」

「……」

「どっちでもない、寄りだろうが」

 千影のたたんだ、エプロンを握る、指がわずかに震えた。

「俺の客に出す、コーヒーの味は」

「……」

「変わらん」

「……」

「——それだけ、だ」

 千影の胸の中で何かが、ほどけていく、感覚があった。

 十ヶ月分の重さが、ゆるんでいく感覚。外の世界では、「白河凛」と、「真白千影」と、「男装の千影」を切り替えなければならない。けれど、このカウンターの中だけは——

 どれでもいい。

 どれも自分だ。

(……「どっちでもない、寄り」)

(マスター)

(語彙が雑で)

 千影の頭が、もう一度、深く、下がる。

(でも一番、正確だ)

(私が十ヶ月、抱えてきた二重生活の答えが)

(マスターから見たら)

 息が、ゆるんで、長く、出る。

(一言で終わる、問題、だった)

(——もしかして)

(私が一番、私を)

(縛っていたのかもしれない)

 千影は頭を深く、下げた。

「……ありがとう、ございます」

 柊一はポットを棚に戻して答えなかった。

 代わりに布巾をもう一度、肩に掛け直した。

 千影はエプロンを鞄に入れて扉を押した。

 乾いたベルの音が夜の商店街にひとつ、こぼれた。


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