第二十八話 似た者同士
マンハッタン、夕方。
扉のベルがいつもより、遅い時間に鳴った。
千影が入ってきた。地毛のまま、後ろで軽く、留めただけ。鞄を肩に。コートを片手に。
その日の朝はスタジオで本編の撮影。昼は雑誌の表紙撮り。午後は初クランクインに向けた段取り会議。鷹宮プロの車で近所まで送ってもらい、角で降りた。コインランドリーの裏の細い道で白河凛のメイクをウェットティッシュで落とした。エプロン用のシャツに着替えた。
いつもの扉を押した。
「遅いぞ」
「すみません、番宣の撮影が押して」
「何時から仕込みに入れる」
「あと五分でサンド用の卵、剥きます」
短い、やり取り。
柊一は千影の目元の薄い疲労を見ていた。
何も言わなかった。
ただ、カウンターの隅に淹れたての自分用のコーヒーをひとつ、置いた。
千影はそれを両手で包んで一口、含んだ。
息を吐いた。
仕込みが、ひと段落、ついた頃。
千影は彩音のいつもの席のコーヒーを注ぎ替えに行った。彩音は夕方、いつものように店に来ていつもの本を開いている。
「先生」
「うん?」
「マスターがコーヒーの淹れ方が良くなったって言ってくれたんです」
千影の頬がいつもより、柔らかい。
彩音は本をぱたん、と閉じた。
「良かったわね、千影ちゃん」
「はい」
千影はコーヒーを注ぎ終わってからポットを片手に持ったまま、ふと首を傾げた。
「もう、先生こそ」
「ん?」
「気になる人とか、居ないんですか?」
彩音の本を握っていた左手の指がわずかに跳ねた。
彩音の頭の中で——
なぜか、律の顔が浮かんだ。
先生という、立場上、絶対に思い浮かんでは、いけないのに。頭を過った。
パーカーの匂い。ベランダ越しの声。「大きくなったね」と言ったときの手。
「い、いないわよ!」
彩音の声が半オクターブ、跳ねた。
「先生は生徒の恋を応援するのが、仕事なんだから!」
「……?」
千影はポットを自分の利き手側に持ち替えながら、首をもう、半度、傾げた。
「誰も生徒の話、してませんけど……」
彩音の肩が跳ねた。
「……!」
彩音はコーヒーカップを両手で包み直して視線をテーブルの上のしおりの紐に落とした。
「と、とにかく、私は大丈夫!」
「……」
「それより、千影ちゃんとマスターの話を——」
千影はポットを自分の手元に戻して彩音の顔を見た。
千影は女優だ。人の表情を読むのが、仕事だ。
彩音の動揺の質。それが、「律くんの恋を心配する、先生」では、なく、「自分の恋に狼狽する、女」のそれである、ことに千影は気づき始めていた。
(……先生)
(耳が赤い)
(誰も生徒の話、してないのに勝手にすり替えた)
(瀬尾くんが、来ると)
(声のトーンが変わる)
(瀬尾くんの隣だけ)
(無意識に椅子を寄せてる)
(——演技の現場で何百回も見てきたパターンだ)
(自覚のない、恋)
(……先生の鈍ちん)
千影は口には、出さなかった。
ポットを片手に軽く、揺らして自分の業務スマイルをつくる。
(先生と瀬尾くんは)
(先生と生徒だ)
(今はまだ)
(黙って見てるしか、ない)
千影は軽く、頭を下げてカウンターの中に戻った。
彩音はコーヒーカップを両手で握ったまま、しばらく、テーブルのしおりの紐を見ていた。
夕方の客がひと波、引いた頃。
律がいつもの席に座って参考書を開いていた。今日はシャープペンを握ったまま、ページをめくる手の動きが、いつもより、ゆっくり、している。
彩音は自分の勇気をひと呼吸でまとめた。
立ち上がって律の隣の席に移った。
「ねえ、瀬尾くん」
「はい」
「好きな人のこと——」
律のシャープペンの動きが、止まった。
「相談、してみない?」
「……」
「先生」
彩音は自分のコーヒーカップをテーブルの自分の側に置いた。
「気づいてるのよ」
律のシャープペンがテーブルの上で転がりかけた。
律の内心のキーが半秒、フリーズした。
(……先生が、「気づいてる」?)
(何に?)
(僕が先生のことを——)
(いや)
(気づいてたら、こんな、軽い言い方、しない)
(じゃあ、何を気づいてるんだ)
律はシャープペンをテーブルの上で止めて姿勢を直した。
「……先生」
「うん?」
「相談していいですか」
「もちろん!」
彩音は両手をぱん、と打ち合わせた。
「先生に任せなさい」
千影はカウンターの中で新しいコーヒーカップを磨きながら、ホールの方にわずかに視線を向けた。柊一はその隣でネルに湯を注いでいる。
千影と柊一は同じタイミングで視線を彩音と律の方に向けた。
「その人」
「はい」
「どんな子?」
律は自分のコーヒーカップに両手を添えた。
「……鈍い人、です」
「鈍い」
彩音はコーヒーカップを自分の口元まで上げかけて止めた。
「こっちが、何をしても」
律の声は低く、平坦。
「当たり前みたいに受け取るんです」
「……」
「料理を作って持っていっても、『余ったの? ありがとう!』で終わるくらい」
彩音のコーヒーカップが口元の半分手前で止まった。
止まったその姿勢のまま。
(料理を作って持っていって)
(「余ったの?」で片付けられる)
(……あれ)
(なんか)
(どっかで聞いたような)
彩音の頭の中で磨りガラスの向こうのベランダの記憶がかすめた。
彩音は自分の頭の中のその記憶を慌てて棚の奥に押し戻した。
(……まあ、いいわ)
(千影ちゃんのことよね)
彩音はコーヒーカップをテーブルの上に戻した。
「どのくらい、鈍いの?」
「……隣にいても」
「うん」
「ただの知り合いとしか、思ってもらえてない、感じです」
「……」
「しかも」
律は自分のシャープペンをもう一度、テーブルの上で転がした。
「こっちが、緊張して手が震えてても、『寒いの? 暖房つける?』とか、言うんです」
カウンターの中で——
千影がふっ、と小さく、吹き出した。
慌てて口元を両手で押さえる。柊一の視線が千影の方にちらっと向いてすぐ、ネルに戻る。
彩音はテーブルの上のしおりの紐をまた、いじり始めた。
(手が震えてるのを、「寒いの?」って……)
(それ、もう、鈍感の域を超えてない?)
(……あれ)
(何だろう、この既視感)
(私もどこかでそういう——)
(いや、いや)
(今は律くんの話)
(集中、集中)
彩音はコーヒーカップをもう一度、両手で包み直した。
「……瀬尾くん」
「はい」
「正直に言っていい?」
「はい」
「相手がそこまで気づかないなら——」
彩音は自分の声にほんの少しだけ、教師の丁寧さを戻した。
「脈、ない、のかもしれないわよ?」
「脈はないです」
即答。
彩音のまばたきが、半拍、遅れた。
「……え」
「ないと思います」
律は自分のコーヒーカップの底を見た。
「ゼロです」
「……」
「相手にとって僕はたぶん——」
「……」
「カテゴリが違うんです」
「カテゴリ」
「恋愛の土俵に乗ってない」
彩音の胸がズキン、と痛んだ。
なぜ、痛むのか、わからなかった。
(「カテゴリが違う」)
(……うん)
(千影ちゃんは、男装してて)
(律くんは、男で)
(そりゃ、カテゴリは——)
(——って)
(なんで私の胸が痛いの)
(律くんの話、でしょ)
彩音は自分の頬の内側を軽く、舌の先で押した。
(……そう)
(共感、してるのよ)
(先生として)
(生徒に寄り添ってるの)
(えらいぞ、私)
彩音の声がもう一段、低くなった。
「……それでも好き?」
「それでも好きです」
声が静かだった。
嘘がない、声。
彩音は息を呑んだ。
彩音の頭の中で、「穏便に終わらせる」という、最初の戦略の字面がふわっ、と消えた。
(この子)
(本気だ)
(この声は本気の声だ)
(宗方監督の『沈黙の果て』で聞いたあの声と——)
(いや)
(ドラマじゃ、ない)
(これは、本物の声だ)
カウンターの中で柊一の布巾を握る指に、力が抜けた。
(……いや)
(あんただ)
柊一は自分の内心のツッコミを視線にも出さないまま、布巾の動きを再開した。
彩音の教師としてのスイッチが切り替わった。
いや、教師、では、なかった。
恋愛カウンセラー、でもなかった。
——宗方鉄哉ドラマ、全巻ブルーレイ、所有者の顔。
「わかった」
彩音の目がわずかに輝き始めた。
「本気なら、ちゃんと聞く」
「……」
「——アプローチ、何か、してみた?」
「……しようとは、するんですけど」
律の視線が自分のコーヒーカップの底に戻る。
「あの人の前だと普通になっちゃうんです」
「うん」
「プレゼントを用意しても」
「うん」
「渡すときには、『近くの店で買ったんで』って」
「それよ!」
彩音の両手がテーブルの上にぱん、と置かれた。
「それ!」
彩音は身を乗り出した。
目が変わっていた。
「好きな人の前で嘘ついちゃう、やつ!」
「……」
「本当は一生懸命、選んだのに、『たまたま』って言っちゃうの!」
彩音の声がホールの別のテーブルの客にも届きそうな、勢いになった。
千影がカウンターの中で口を両手で押さえた。
(先生)
(それ)
(鏡)
(鏡、見て)
千影は声に出さないまま、心の中で彩音の肩を揺さぶった。
「——つまり、アプローチ、してるのに」
彩音の声がさらにひと段、上がる。
「自分で包装紙、かけてるのよ!」
「……」
「相手からしたら、全部、『偶然の親切』にしか、見えないじゃない!」
「……はあ」
「そりゃ、伝わらない、わよ!」
律は自分のシャープペンを握ったまま、目をぱちぱちと瞬いた。
「いい?」
彩音はテーブルに両手を置いたまま、人差し指を一本、立てた。
「鈍い人にアプローチする、コツはね」
「……」
「ひとつだけ」
「……はい」
「『いつもと違うこと』」
彩音の人差し指がテーブルの上で円を描いた。
「毎日、同じ調子でいたら」
「……」
「好意だって風景になるの」
律の唇が開きかけて止まった。
彩音は人差し指をテーブルから離して自分のコーヒーカップに戻した。
「——だから」
「はい」
「一回でいいから嘘をやめて直球で言うのよ」
律の視線が自分のコーヒーカップに落ちた。
「直球で言って……」
「うん」
「迷惑だって思われたら」
——彩音の手が止まった。
声が変わった。
「——それを言ったら、だめ」
彩音の目が律の目をまっすぐ、見た。
「迷惑かどうかは、相手が決めること」
「……」
「あなたが、決めることじゃ、ない」
律は黙った。
さっきまでの彩音の宗方ファン暴走の声色とは、別人の声色。
彩音はテーブルの上のしおりの紐をもう、いじっていなかった。
「伝えなかったら」
「……」
「その気持ちは、ずっと存在しないのと同じよ」
「……」
「相手が鈍くてカテゴリが違って立場が邪魔しても——」
「……」
「言わなかったら」
「……」
「始まりすら、しない」
彩音は息をひとつ、吸った。
「……それで、いいの?」
律のシャープペンがテーブルの上で転がった。転がってテーブルの向こうに半分、落ちかけて止まった。
彩音の目の縁が湿っていた。
彩音、本人はそれに気づいていなかった。
(……あれ)
(私、今、誰に向かって言ってるんだっけ)
(律くんの好きな人について話してたのよね)
(……なんで)
(目が熱いの)
(鼻の奥がツンとする)
(やめて)
(泣くところ、じゃ、ないでしょ)
(生徒の恋愛相談、でしょ)
彩音は自分の手の甲で目の縁を軽く、押さえた。
止まれなかった。
止まり方を忘れていた。
「——でも」
「はい」
「直球でも通じないことある」
「……」
「そのためにね——」
彩音はもう一度、身を乗り出した。
もう、「相手が誰か」という、情報は彩音の頭の中に存在していなかった。
ただ、鈍感な、誰かと伝えられない、誰かが、いた。
「必殺技があるわ」
律のシャープペンを握り直す指が止まった。
カウンターの中で千影が磨いていたカップを危うく、ソーサーの上で滑らせかけた。柊一が自分のネルへの湯を注ぐリズムを、外した。
「必殺技」
律の声が半音、低くなった。
(恋愛で必殺技って)
千影は心の中で半歩、引いた。
(なんだ)
(相手、死んじゃうじゃ、ないか)
柊一は心の中でポットを傾けたまま、止めた。
(……必殺技)
(恋愛に必殺技)
彩音は両手をテーブルの両端に突いた。
「もう、強引に——」
「……」
「押し倒す!!」
律の口に入れていたコーヒーが噴出した。
ぶしゅっ。
茶色い飛沫がカウンター用のテーブルクロスに点々と散った。
千影はカウンターの中でつんのめった。手元の皿を危うく、ソーサーの外に落としかけた。
柊一のポットがドリッパーの上でガクン、とずれた。湯がドリッパーの外側を滑り落ちかけて——柊一の左手がギリギリでドリッパーごと押さえ直した。
柊一の顔は無表情のまま。
(何を言ってるんだ、この人は)
彩音は両手をテーブルに突いたまま、なお、続けた。
「大丈夫、ドラマだと百パーセント、成功してたわ!」
千影がたまりかねてカウンターの中から口を挟んだ。
「先生、先生」
千影の声は白河凛モードでも男装モードでもない、ただの千影の声。
「さすがにそれは、ダメです」
「え、なんで?」
「——『隣の窓』の最終回でも——」
「先生」
「うん」
「ドラマです」
「うん」
「ドラマ」
「うん」
「現実にやったら、事件です」
「……事件?」
「事件、です」
(高校生に)
柊一の内心のツッコミは淡々と続いた。
(しかも生徒に)
(何を言ってるんだ、この人は)
(……先生は)
(知識だけは、一人前、だが)
(使い方が壊滅的に間違っている)
彩音の思考がようやく、追いついた。
(——ちょっと待って)
彩音の内心のテンポが急停止した。
(いま、私)
(「押し倒す」って言った)
(……押し倒す)
(律くんが)
(好きな人を)
(……律くんの好きな人は——)
彩音の頭の中で整理が走った。
(千影ちゃん、男の子)
(で——)
彩音の脳内に突如、薔薇が咲き乱れた。
千影、男装モード、の顎を律がくいっ、と持ち上げて——
彩音の両手が自分のテーブルの上の額の方に移動した。
(やっべえぇぇぇぇぇ)
(穏便に終わらせるどころか)
(大惨事になっちゃうぅぅぅぅぅぅ)
彩音の額が、テーブルから少し浮いた。
(私、いま、高校生男子に)
(男の子を押し倒せって)
(指南、したの!?)
両手で自分の頬を挟む。
(先生として!?)
(いや、そもそも)
(性別、関係なく)
(押し倒しちゃ、ダメ、って)
(千影ちゃんに言われたばっかり、でしょ!?)
彩音は自分の額をテーブルにつけた。
両手で自分の頭を抱える。
「先生?」
千影がカウンターの内側から声をかけた。
「どうしました?」
「な、なんでもない!」
彩音の声はテーブルに向かってくぐもっていた。
「ちょっと自分の発言のスケールに酔っただけ!」
(酔う……?)
千影は心の中で首を傾げた。
律はまだ、むせていた。顔が真っ赤。コーヒーを吹き出した飛沫をテーブル用のペーパーで拭きながら——
頭のどこかで、「押し倒す」という、言葉が妙に残っていた。
(……やめろ)
(考えるな)
(先生に言われたからって)
(先生のアドバイスの精度は)
(壊滅的だって)
(知ってるだろ)
律のシャープペンを握る、指が軽く、震えた。
(……でも)
(「直球が一番」っていうのは)
(マスターも同じこと言ってた)
(「好きなら、好きと言え」って)
(……直球)
(……直球と)
(押し倒すは)
(全然、違う)
(……違う、よな?)
帰り道。
夜の商店街はすでにシャッターが半分、降りていた。彩音はコートの襟を立てて自分の歩幅で家路に向かった。
ふと——
あのブルーレイの棚の一枚が脳裏を過った。
宗方監督の、「隣の窓」。
隣同士に住む、男性二人。一人が毎日、相手に手料理を作り続ける。相手は全然、気づかない。料理に込められた気持ちに。
あの切なさ。
あのぬぅぅぅぅぅん。
彩音の足が止まった。
(……律くんと)
(千影ちゃん、だ)
(マンハッタンで毎日、顔を合わせて)
(あの距離感)
(あの気遣い)
(千影ちゃんは、全然、気づいてない)
(「隣の窓」)
(そのものじゃ、ない)
彩音はコートのポケットの中で両手を握り直した。
(……「年上」とは、言った)
(でも)
(「年上の女性」とは、言ってなかった)
(律くんが、「千影さんは、男でしょ」って)
(自分から確認したのは——)
(ダメだって自分に)
(言い聞かせてた?)
彩音はもう一歩、歩き出した。
彩音は宗方監督のドラマを律から千影、男装モード、への構図に重ねた。
——彩音の家の隣のベランダ。磨りガラスの仕切り。誤配達の段ボール。
彩音の視線がふっ、と自分のマンションの方角を探した。探して律の部屋の窓の位置を数えた。数えてから目を伏せてまた、商店街の先を向いた。
(なんで律くんの顔が浮かぶの)
(先生と生徒よ)
(ダメに決まってる)
彩音の白い息が、街灯の下で長く、伸びる。
(……でもそれ以前に)
(もっとダメな、状況がある)
(教え子が)
彩音は自分の手のひらを、コートのポケットの中で握り直した。
(踏み込んでは、いけない、扉に)
(手をかけてる)
(先生として)
(なんとか、しなきゃ)
(穏便に終わらせなきゃ)
彩音は商店街の街灯の下で自分の白い息を見た。
(恋愛のプロ、なんて)
(自分で言ってたくせに)
(律くんにアドバイスしたら、「押し倒す」って口走って)
(店内、大惨事にしたし)
(自分のことになると)
(全然、ダメじゃ、ない)
彩音は頭を軽く、振った。
(……いや)
(今は)
(自分の話、じゃ、ないでしょ)
(律くんの問題、でしょ)
彩音はもう一歩、歩いた。
(律くんを心配してるのは)
(先生として当然)
(……なのに)
(なんで胸が)
(こんなに重いんだろう)
(考えないようにしよう)
(今は律くんの問題が先だ)
彩音は冬の夜の商店街をいつもより、半歩、遅い歩幅で歩いていった。
律も自分の部屋に戻る、廊下を歩きながら、頭の中で計算を続けていた。
(マスターと千影さんの距離が)
(近くなってる)
(マスターが先生とくっつけば)
(三角関係は解決する)
(——でも)
(先生の恋だけが、取り残される)
律は自分のドアの前で鍵をポケットから出した。
鍵を錠に差した手が途中で止まった。
(……先生のためだと)
(思ってた)
(……嘘だ)
律の鍵が錠の中でガチャ、と半分、回り切った。
(僕は)
(先生が他の誰かを好きだと思うのが)
(ただ、つらい、だけだ)
律はドアを押した。
ドアの向こう側の暗闇が律を迎え入れた。
磨りガラスの仕切りの向こうの彩音の部屋の明かりが、薄く、滲んでいる。
律の靴が玄関のタイルの上でゆっくり、止まった。
マンハッタン、閉店後。
千影がエプロンを外しながら、帰り支度をしていた。
扉に向かって半歩、踏み出したとき——
「……千影」
柊一の声。
千影が振り返る。
「お前」
柊一は自分の布巾を肩に掛け直した。
「コーヒーの淹れ方が変わったな」
「え?」
「前は力を入れすぎてた」
「……」
「今は——」
「……」
「いい」
千影の口が半分、開いて止まった。
(仮面が外れてからのほうが)
(コーヒーの淹れ方が)
(良くなった——)
(……力が抜けたから)
千影は自分の外したエプロンを両手でたたんだ。
たたんでから柊一の方に半歩、戻った。
「マスター」
「ん」
「明日から髪、留めるの)
千影は自分の後ろで留めた髪のピンに片手を添えた。
「忘れる、かもしれません」
「好きにしろ」
柊一は布巾をもう一度、肩から外した。
「髪、ふわふわで仕事してても」
「……」
「怒らないですか」
「ここで働いてる間の髪型なんて」
柊一は布巾をカウンターの縁に置いた。
「俺が口を出すことじゃ、ない」
「……」
「——衛生帽、かぶれと言うなら、あるが)
「……」
「うちは、必要、ない」
「……」
「お前の見た目が」
「……」
「男寄りだろうが」
「……」
「女寄りだろうが」
「……」
「どっちでもない、寄りだろうが」
千影のたたんだ、エプロンを握る、指がわずかに震えた。
「俺の客に出す、コーヒーの味は」
「……」
「変わらん」
「……」
「——それだけ、だ」
千影の胸の中で何かが、ほどけていく、感覚があった。
十ヶ月分の重さが、ゆるんでいく感覚。外の世界では、「白河凛」と、「真白千影」と、「男装の千影」を切り替えなければならない。けれど、このカウンターの中だけは——
どれでもいい。
どれも自分だ。
(……「どっちでもない、寄り」)
(マスター)
(語彙が雑で)
千影の頭が、もう一度、深く、下がる。
(でも一番、正確だ)
(私が十ヶ月、抱えてきた二重生活の答えが)
(マスターから見たら)
息が、ゆるんで、長く、出る。
(一言で終わる、問題、だった)
(——もしかして)
(私が一番、私を)
(縛っていたのかもしれない)
千影は頭を深く、下げた。
「……ありがとう、ございます」
柊一はポットを棚に戻して答えなかった。
代わりに布巾をもう一度、肩に掛け直した。
千影はエプロンを鞄に入れて扉を押した。
乾いたベルの音が夜の商店街にひとつ、こぼれた。




