第二十七話 マンハッタンに戻る日
性別バレから三日。
千影はマンハッタンに行けなかった。
行けなかったという言い方は正確では、ない。スマホの電源は入っている。マンハッタンまでの道順も当然、頭の中にある。エプロンも洗濯済みで椅子の背にたたんで掛かっている。
ただ、扉を押す、という、最後の一動作の寸前で毎回、足が止まる。
その代わり——
撮影現場には、行っている。
ロケ翌日は朝からスタジオ撮り。翌々日は番宣用の雑誌インタビュー。その翌日もスタジオの別シーン。スケジュールは止まらない。
鷹宮社長から、LINE。
『マスター案件は時間が必要。現場は平常運転で』
柳瀬副社長から、LINE。
『主演、正式受諾の書類、回しました。クランクインは来月第三週。それまでにいつもの調整』
千影は控室のメイク台の前でその二通を読んだ。読んでから画面を伏せた。
(撮影は止まらない)
(止められない)
(「白河凛」のスケジュールは)
(私の心の状態を待ってくれない)
現場では、笑える。台詞が入る。リハーサルでは、別の若手スタッフが相手役を読んでくれる。本番のテイクが何度も続いて最後に宗方はいつもの低い声でこう、言った。
「今日は目が生きてる」
控室に戻ったとき、千影はメイク台の鏡の中の自分の顔をしばらく、見ていた。
(皮肉だ)
(マンハッタンで失ったものを抱えて立つほど)
(白河凛の芝居は)
(深く、なる)
夜。
自室。
千影はベッドの縁に座ってスマホを両手で持っていた。
業務用の画面ではなく、個人用の画面。柊一の、LINEは、両方の端末に入っている。業務用は白河凛として店主への連絡用。個人用はバイトの千影として。
どちらにも新着の通知はない。
既読はついている。三日前、千影が自宅から送った短い一文——『今日は休ませてください』——には、柊一の既読がついてそれから何の返信もない。
(マスターは)
(私を許してくれた)
(「嘘とは、呼ばない」と言ってくれた)
千影はスマホの画面を伏せて自分の膝の上に置いた。
(——でも)
(本当に)
(もう、来ていいの?)
(あのカウンターの中に)
(立っていいの?)
千影は自分の指を片手で軽く、握った。
(白河凛として主演が決まった今)
(私はもう)
(「週の半分しか、マスターの隣に立てない」、身体になってる)
(……それでも)
(立っていいの?)
答えは、出なかった。
答えは、出ない、まま、千影の膝の上でスマホが震えた。
画面を戻して見た。
着信。
業務用、ではなく。
個人用の画面の上に。
「マスター」と表示されていた。
千影の指が画面の緑のマークの上で止まる。
迷う、間もなかった。指が勝手に動いた。スワイプ。
「……はい」
「……シフト、入れるか」
短い、声。
いつもの低い、声。
千影の息が止まった。
「……はい」
「制服、洗っとけ」
「……はい」
短い、沈黙。
柊一はそれ以上、何も言わなかった。
「……明日、行きます」
「ああ」
通話が切れた。
千影はスマホを両手で握ったまま、ベッドの縁からゆっくり、床にずり落ちた。床のフローリングの冷たさが、太ももの裏に当たる。
声を出さないまま、肩が震えた。
涙が頬を滑った。
頬のまだ、化粧の残っていた白河凛のファンデーションの上を滑る。
千影は自分の目の縁を手の甲で軽く、押さえた。
明日。
明日、行く。
翌日。
マンハッタン、開店前。
千影は扉の前に立っていた。
いつものエプロン。いつもの黒いパンツ。
ただし。
シャツの下に胸を押さえる補正インナーをつけなかった。胸元は普通のブラに戻している。シャツの上から胸の線はほとんど、わからない、軽めの下着。バレた今日から隠す必要はない。けれど、急に極端に女性に寄せる必要もない。
髪はウィッグを使わず、地毛、そのまま。鎖骨にかかる、長さを後ろで軽く、留めただけ。
男装用の眼鏡は外している。
化粧はしていない。
化粧をしていない、ということ自体が男装を偽装していない、という、証でもあった。
千影は扉を押した。
乾いたベルの音。
カウンターの中の柊一が布巾を握る、手を動かさないまま、視線だけ、扉の方に向けた。
「……おはようございます」
「ああ」
いつもの声。
いつもの答え。
千影はエプロンを結び直しながら、カウンターの中に入った。バックヤードに鞄を置く。手を洗う。エプロンの紐をもう一度、確かめる。
戻ってきて棚から自分のコーヒーカップ——千影がいつも自分用に使っていた把手の内側がわずかに磨耗している、白いカップ——を取った。
その瞬間。
柊一がカウンターの向こうで豆を挽きながら、ぽつりと言った。
「……長いほうが」
「よく、見える」
千影の指がカップの把手の上で止まった。
(髪)
(今、マスター)
(髪のこと言った)
柊一はもう、それ以上、何も言わなかった。豆を挽き続けている。挽き終わってネルに移す。
(受け入れられたのか)
(見過ごされたのか)
(どちらでもいい)
(たぶん、両方、だ)
千影はカップを磨き始めた。
(「男装じゃ、ない、お前」を)
(マスターは、「驚くこと」としてじゃ、なく)
(「そういえば髪が長くなったな」、くらいのトーンで受け止めた)
(驚かれない、ほうが)
(ずっと楽だ)
千影の指が磨いている、コーヒーカップは新しいカップ。前と違うカップ。
でも持つ手の感触は同じ、だった。
開店、五分前。
柊一がカウンターの内側でネルから落ちたコーヒーをポットへ移して自分用ではなく、もう一つ、別のカップに注いだ。
千影の前に置いた。
カップの把手がこちらを向いている。
——面接の日と同じ、向き。
「……これ」
「うちのブレンドだ」
柊一は自分の布巾を肩に掛け直した。
「飲んでから働け」
千影は両手でカップを持ち上げた。
口をつけた。
苦い。
甘さに逃げていない。
雑味がない。
——面接の日と同じ、味。
あのとき、自分が心の中で、「正直な、味がする」と思ったあの味。
(……同じ、だ)
(何も変わってない)
(マスターのコーヒーは)
(何も変わってない)
(私が女だと知っても)
(あのコーヒーカップが割れても)
千影の頭の奥でいつかの柊一の独り言のような、呟きが、もう一度、響いた。
「珈琲の味は嘘をつかない」。
あの一杯を飲んだとき、千影はこの店にいたい、と思った。
今、同じ、味がする。
マスターの一番、正直な、言葉がカップの中にある。
千影の目の縁が湿った。
「泣くなって言っただろ」
柊一は視線を上げないまま、低く、言った。
「コーヒーが塩辛く、なる」
「……泣いてません」
「嘘、つけ」
「(……今のは、嘘です。すみません)」
千影は声に出さないように心の中で呟いた。
頬の涙をエプロンの肩で拭く。
カップをソーサーに戻す。
カウンターの中の柊一はもう、千影の方を見ていなかった。
豆を挽き続けている。挽きながら、自分の頭の中で何かを確かめている。
(……許すとか)
(許さないの話、じゃ、ない)
(一人で淹れた四日間——)
(カウンターが)
(広かった)
(……それだけ、だ)
マンハッタンの扉が開いた。
乾いたベルの音。
いつもの開店、いつもの客。
常連の高校生たちが、二人、入ってきた。蓮司ともう一人の男友達。蓮司の一歩前でその男友達が千影の方を見て止まった。
「……あれ」
「千影さん」
蓮司が首を傾げる。
「雰囲気、変わ——」
その先を言いかけた瞬間。
カウンターの中の柊一が視線を蓮司の方に向けた。
無言。
ただ、見た。
蓮司の唇が止まった。
柊一が布巾を自分の肩から外して軽く、振った。
「——お前ら、うるさい」
声色はいつものまま。
「飲め」
男友達が肩をすくめる。蓮司が苦笑していつもの席に座った。
話題はコーヒーに戻った。
千影はカウンターの中でゆっくり、息を吐いた。
この店のルールはいつもひとつだけ、だった。
ここでは、カップと湯気だけが、本当のことを言う。
それ以外の区別はこの店の敷地の外に置いてきていい。
夕方。
律がいつものように入ってきた。
いつもの席。いつものコーヒー。
律は千影の方をちらり、と見た。
見てそれからいつもより、ほんの少しだけ、姿勢をまっすぐ、直した。
千影がコーヒーを運んでいく。カウンターの端の席。彩音は別のテーブルで別の本を開いている。
律が声を低くした。
「千影さん」
「うん」
「……マスターにバレたんですか」
千影はコーヒーを置きながら、頷いた。
「……うん」
「大丈夫、だったんですか」
千影は自分のエプロンの紐に片手を添えた。
「……マスターは」
「嘘とは、呼ばない、って言ってくれた」
律が息を吐いた。
短い、笑いに近い、息。
「…………かっこいい、な」
「……マスターが」
「うん」
少しの沈黙。
律がコーヒーカップを両手で包んだ。
「……千影さん」
「うん」
「僕」
律は自分の口元の力をほんの少しだけ、緩めた。
「ずっと千影さんの秘密を守ってきましたけど」
「うん」
「もう、共犯者じゃ、なくていいん、ですね」
千影がほんの一瞬、目を瞬いた。
それからふっ、と笑った。
「うん」
「ありがとう」
「瀬尾くん」
千影はエプロンのポケットに手を入れた。
「……共犯者としては」
「いい、相棒、だったよ」
「共犯者って褒め言葉じゃ、ないでしょ」
「私にとっては、褒め言葉」
律が肩を揺らして笑った。
千影も笑った。
二人の笑い声がカウンターの端で低く、混じった。
彩音は別のテーブルからその光景を見ていた。
ちょうど、本のページの切れ目にしおりを挟んだ、その手の動きが、止まったままで視線だけが、カウンターの端に向いている。
律と千影が笑い合っている。
前よりも距離が近い。自然だ。律が千影に向ける、表情が真剣で秘密を守り続けてきた静かな強さが、見える。
(瀬尾くん)
(こういう顔もするんだ)
(教室で楽譜を読んでるときとも)
(ベランダでだらけてるときとも違う——)
(大人の顔)
彩音の胸の中で何かが、ざわついた。
彩音はそのざわつきをすぐに別の言葉で上塗りした。
(先生として)
(生徒の成長を喜んでいるだけ)
(……うん)
(そう、よね)
彩音は本のページをもう一枚、進めようとした。
が、目線が文字の上を滑って頭に入ってこなかった。
(律くん)
(千影ちゃんの騒動のことは)
(知らない、はずよね)
(マスターに性別がバレた経緯も)
(……でも)
(二人はずっと仲が良い)
(千影ちゃんが、女だってことも知らないで)
(男同士の友情として——)
彩音の頭の奥でふっ、と別の夜の声が蘇った。
コインランドリーの雨の夜。律の声。
「……年上が好きかもしれない、です」。
あのとき、律の耳が赤かった。
彩音の思考が回転を始めた。
(千影ちゃんは、二十二歳)
(律くんより、六つ、年上)
(——「年上」だ)
(律くんの好みの条件に)
(千影ちゃんは)
(完全に合致している)
彩音は自分の本のページに視線を戻した。
戻したのに頭の中の回転は止まらなかった。
(待って)
(律くんは、千影ちゃんが、女だって知らない)
(律くんから見たら)
(千影ちゃんは、「年上の男」)
(……あの距離感)
(あの表情)
(友情にしては——)
(何か、違う)
(律くんが、千影ちゃんをそういう目で……?)
彩音は本のページをぱたん、と閉じた。
閉じてから自分の手のその勢いに自分で驚いた。
(……いやいやいや)
(考えすぎよ、日野彩音)
(考えすぎ)
(ドラマの見すぎ)
彩音はコーヒーカップに手を伸ばした。
飲んだ。
ぬるい。
打ち消した。
打ち消したつもり、だった。
しかし、胸のざわつきは、消えなかった。「年上が好きかもしれない」——あの言葉と律の千影への表情が彩音の中で糸を引いていた。
律は律でコーヒーを飲み終えながら、別の計算をしていた。
(マスターに千影さんが、女だとバレた——)
(でも先生はまだ、何も知らない)
(マスターは千影さんを許した)
(「嘘とは、呼ばない」って言ってくれたらしい)
(……でもそれは)
(「バイトとして認め直した」、ってことで)
(恋愛的にどうかは、別の話、だよな)
律はコーヒーカップをソーサーに戻した。
(マスターが好きなのは)
(相変わらず、先生のはず——)
(いつも先生に丁寧だし)
(「あの人」の相談もしてたし)
(三角関係は)
(何も変わってない)
(というか、先生の恋だけ、致命的になったのか……)
律はふと視線を上げた。
カウンターの端の別のテーブル。
彩音が本を閉じてコーヒーカップに手を伸ばしている。
律の方は見ていない。
(……ここ最近)
(先生の様子が)
(少しだけ、違う)
律は自分のコーヒーカップの底に視線を戻した。
(俺と目が合うと)
(前より、一瞬、早く、逸らす)
(廊下ですれ違うときも)
(距離が)
(ほんの少しだけ)
(空く)
律は自分の指の節をテーブルの裏で軽く、握った。
(……気のせい、か?)
(いや)
(一度、気になると)
(毎回、気になる)
(……先生)
(俺の何かに)
(怒ってる、んじゃ、ないか)
律は自分の頭の中でもう一つの選択肢を半秒、押し戻した。
(あるいは)
(「年上が好きかもしれない」と言ったあの夜から)
(先生は俺のことを——)
(いや)
(考えすぎ、だ)
(先生が俺をそういう目で見るはずが、ない)
(先生にとって俺は生徒で)
(それ以上でも以下でもない)
(それに)
(もし、先生が何かに気づいたら)
(こんな、中途半端な、距離の取り方はしない)
律はコーヒーを最後の一口、まで飲み干した。
(……でも)
(気のせいじゃ、ない、気がする)
(この違和感は)
(覚えておこう)
カウンターの中で千影が新しいコーヒーを淹れている。柊一がその横で布巾を肩に掛け直している。
律と彩音はそれぞれ、別の方向を見ていた。
二つの糸の端がそれぞれの指先で絡まり始めていた。




