第二十六話 割れたコーヒーカップ
夜明け、前。
マンハッタンの店内に柊一は一人、いた。
眠れなかった。
昨日、店を閉めて千影と彩音をそれぞれの家まで見送って戻ってきたその後で。柊一は自宅のベッドに入った。横になった。天井を見た。目を閉じた。それから二時間、目だけが、開きっ放しだった。
起きて店に戻った。
カウンターの内側でしゃがんで。
昨日、割れたコーヒーカップの欠片をひとつ、ひとつ、拾い始めた。
大きな破片は彩音が夕方の内に片付けてくれていた。床も拭いてくれていた。残っていたのは、カウンターの脚の奥の暗がりに転がっていた小さな破片。爪の先より、小さい、白い、欠片。
指の腹でつまむ。手のひらに移す。
手のひらの上に白い欠片が少しずつ、増えていく。
(千影は嘘をついていなかった)
柊一の頭の中で言葉がゆっくり、組み上がっていく。
(言えなかっただけだ)
(——じゃあ、八年前のあいつは、どうだ)
(あいつも、「言えなかった」、のか?)
(……違う)
柊一はもう一つ、欠片をつまんだ。
(あいつは、逃げた)
(千影は逃げなかった)
(逃げようとして俺が追いかけたら——)
(泣いていた)
(「ごめんなさい」と言っていた)
(あいつは、「ごめん」も言わなかった)
手のひらの上に欠片が十個ほど、たまった。柊一は新聞紙を一枚、敷いてその上に欠片を移した。
(先生はどうだ)
(千影の秘密を守るために)
(あの場で連絡先を即答せず——)
(千影に相談した上で)
(業務用のLINE IDを選んで俺に渡した)
(嘘はついていない)
(ただ「選んだ」、だけだ)
(俺を騙すため、じゃ、ない)
(千影を守るための選び方だ)
(……八年前の嘘とは、違う)
柊一は新聞紙を四つにたたんだ。たたんだ束をゴミ箱の底に置く。
手を洗う。
(嘘が嫌いなのは、変わらない)
(でも——)
(「言えなかったこと」と、「逃げたこと」は、違う)
(「誰かを守るために選ぶこと」と、「自分のために逃げること」は、違う)
(……俺は)
(八年、かけて)
(全部、同じだと思い込んでいた)
柊一はエプロンの紐を結び直した。
ポットを火にかける。豆を挽く。
窓の外で夜の青が薄まり始めていた。商店街の街灯がまだ、ついている。
柊一は自分用のコーヒーを一杯、淹れた。
いつもの所作。いつもの温度。
口をつける。
味がわかる。豆の苦味の輪郭。香りの立ち方。喉の温度。
——大丈夫だ。
柊一はカップをソーサーに戻した。
同じ朝。
彩音の部屋。
彩音は布団の中で天井を見ていた。
眠れなかった。
昨日の夜からずっと頭の中で同じ、二秒ほどの場面が繰り返し、再生されていた。自分の口から出たその一言。
「——千影ちゃんもサイン、頂戴!」
(私が呼ばなければ)
(私が、「千影ちゃん」って言わなければ)
彩音は布団の縁を両手で握った。
(マスターの顔)
(あのコーヒーカップが割れる、音)
(千影ちゃんの顔)
(——全部)
(私のせいだ)
布団の中で彩音の目から涙が横にこぼれた。横に流れて枕のシーツにしみていく。
(千影ちゃんの秘密を知ってて)
(守ると約束して)
(それなのに——)
(うっかり)
(うっかりで)
(全部、壊した)
布団の中でもう一度、息を吸って吐く。
(……「演じ続けるしか、ないわね」って言ったのは、私だ)
(あの日のあの判断が間違ってた?)
(いや)
(あのときは、そうするしか、なかった)
(でも結果としてマスターを騙し続けることになって——)
(いつか、バレるってわかってたのに)
(わかってたのに見て見ぬフリをしてた)
(……教師、失格だ)
(人として失格だ)
彩音はシーツの湿った場所を避けるように寝返りを打った。
目を閉じた。
眠れない。
もう、起きるしか、ない。
カーテンの隙間から朝の青が薄く、差し込んでいた。
マンハッタン。
彩音の足取りは、商店街を抜けるまでに何度も止まりかけた。
角を曲がる。マンハッタンの看板が見える。
彩音は深く、息を吸った。
扉を押す。
乾いたベルの音。
カウンターの中で柊一が新しいコーヒーカップを棚に並べていた。
昨日、割れたコーヒーカップ、ぶんの補充。
柊一の視線がベルの音で扉の方に向いた。彩音と目が合う。
「……いらっしゃい」
いつもの低い、声。
「先生、早いな」
いつもの軽い、声色。
彩音の足が止まった。
(怒ってない)
(——でも)
(それが、余計に怖い)
彩音の視線が棚の新しいコーヒーカップに落ちた。
白い、磁器。昨日、まであったコーヒーカップと形は同じ、だが、わずかに新しい、ものの光沢。
(あのカップ)
(開店の頃からあったのに)
彩音はいつもの席に座らなかった。
カウンターのいつもの千影の隣の席ではなく、もう、一つ、奥の空いた席に座った。両手を膝の上に置いた。
柊一がコーヒーを淹れている。
無言。
白い、湯気がゆっくり、立ち上る。
カップが彩音の前に置かれた。
「……ごめんなさい」
彩音の声は湿っていた。
柊一は布巾で自分の手元の水滴を拭いた。
「先生が謝ることじゃ、ない」
「でも」
彩音は両手で自分の膝の上で握った拳をもう一度、握り直した。
「私がうっかり、呼ばなかったら——」
「いつか、バレる」
柊一の声は低く、平坦。
「遅いか、早いかだ」
彩音の唇が噛まれた。
柊一は別の布巾を取ってカウンターの自分の側を軽く、拭いた。
「あいつは、嘘をつかなかった」
「言えなかっただけだ」
彩音の目から涙がひと粒、コーヒーの湯気の中に落ちた。
長い、沈黙。
彩音はカップに両手を添えた。
持ち上げない、まま、ただ、温度を確かめている。
柊一が布巾を置いた。彩音の方に半歩、向き直る。
「先生」
「……はい」
「あの日」
「……」
「街で助けたのは——」
柊一の声がわずかに止まった。
「千影、だったんだな」
長い、沈黙。
彩音はコーヒーカップから両手を外した。指を自分の膝の上に戻す。
「…………はい」
「ずっと知ってたのか」
「はい」
彩音は視線を上げなかった。
「……ごめん、なさい」
柊一は棚からカップをもうひとつ、取った。布巾で軽く、拭いて棚に戻す。並べ直すような、しぐさ。
「面接で見抜けず」
「街で助けて気づかず」
「撮影で並んでも間違えた」
柊一はカップを棚に置いてから自分の額に片手を当てた。
「……三回だ」
短い、沈黙。
彩音が顔を上げた。
柊一の口元がほんの少しだけ、歪んでいた。笑おうとして失敗したような、顔。
「コーヒーの味は見抜ける」
「人間は見抜けない」
「——まあ、知ってたが」
彩音の目から涙がもう一筋、頬を滑った。
彩音の手がもう一度、コーヒーカップの取っ手を握った。
今度はしっかり、握った。
「もう、一つ」
「ん」
柊一が彩音の方を見た。
「あの連絡先」
「……」
「私が渡したものです」
柊一の布巾を握る、指がわずかに止まった。
「マスターの目が本気だったから」
彩音の声は低く、震えていた。
「千影ちゃんを守りたくて——」
「でもその場では」
「即答、できなくて」
彩音は息をひとつ、吸った。
「一度、持ち帰って」
「千影ちゃんに相談して」
「あの子の業務用のLINE IDを選んで」
「渡しました」
柊一は無言で聞いていた。
「嘘はついてない、です」
彩音の声がここでわずかに上ずった。
「でも——」
「選んだのは」
「私と千影ちゃん、です」
「それをずっと黙ってて」
「……ごめん、なさい」
長い、沈黙。
柊一が布巾をカウンターの縁に置いた。
「……知ってた」
「え?」
彩音の目が見開かれた。
「撮影現場の白河凛」
柊一は自分のエプロンの結び目を軽く、押さえた。
「LINEで『仕事中』と返事をくれたあの人が」
「俺の店で撮影してる、女優として」
「目の前にいた」
「……」
「あの瞬間、辻褄が合わなく、なってた」
柊一の視線が自分のエプロンの胸のあたりに落ちた。
「——気づいたくせに」
「別人だと思いたかった」
「……マスター」
「俺は——」
柊一は顔を上げて彩音を見た。
「先生の選び方に」
「乗っかってた」
彩音の口が開いた。
何か、言おうとして声にならなかった。
柊一は布巾をもう一度、取った。新しいコーヒーカップを棚からひとつ、取り出して磨き始める。
「嘘は嫌いだ」
布巾のリズムがいつものリズムに戻っていく。
「それは、変わらない」
「…………」
「だが——」
「千影を守るために」
「先生が選んだ、番号と」
「金を持って黙って消えた嘘は」
「同じじゃ、ない」
柊一は布巾の動きをまた、止めた。
「……そう、思えるのは」
カップを棚に戻す。
「あいつが」
「毎日、そこにいたからだ」
彩音の目から涙が何度も何度も流れた。
声を出さないまま、彩音はコーヒーを一口、含んだ。
柊一は何も言わなかった。
ポットを火にかけ直してもう一杯、淹れる、ための湯を温め始めた。
夕方、閉店後。
マンハッタンの店内には、柊一だけが、残っていた。
彩音は夕方、いったん、家に戻った。「夕食を作ったら、また、来ます」と言って。来ない方がいい、と柊一は思った。来た方がいい、とも思った。「先生の好きにしろ」としか、言わなかった。
千影には、まだ、連絡をしていない。
千影からも来ていない。
業務用の、LINEの画面を何度か、開いた。指を何度か、文字盤の上で止めた。文字を打ち始めて消した。
今はまだ、違う気がした。
柊一はエプロンをもう一度、結び直して自分用のコーヒーを淹れ始めた。
いつものルーティン。
ただ、いつもと違うことが、一つ、あった。
柊一は棚の奥の列からひとつだけ、別のカップを取り出した。
千影がいつも自分用に使っていたカップ。少し、肉厚で把手の内側の塗装がわずかに磨耗している。千影は開店の初めの頃に、「私、これを使っていいですか」と聞いてそれからずっと同じカップを使い続けていた。
柊一はそのカップをカウンターの上に置いた。
布巾で磨く、というよりも布巾で表面を撫でる、ような、動作で。
しばらく、見ていた。
(……あいつのコーヒーの淹れ方は)
柊一の指が把手の内側の磨耗の跡をなぞった。
(手が細い、割に)
(安定していた)
(……女の手だった)
柊一は布巾を止めた。
(俺は)
(何を見ていたんだ)
短い、笑いのような、息が柊一の口元から漏れた。自分を笑う、形の息だった。
柊一はカップをもう一度、棚に戻した。
千影のカップは千影のいつもの位置に。
戻してしばらく、棚を見ていた。
——明日。
明日、開店のときにもう一度、このカップが棚から千影の手で取り出される、かどうか。
柊一はまだ、わからなかった。
わからない、まま、業務用の、LINEをもう一度、開いた。文字盤の上で指を止める。
止めたまま。
しばらく、止めていた。




