第二十五話 千影ちゃん——崩壊の瞬間
撮影終了後のホールの空気はゆるんでいた。
スタッフがケーブルを巻き始める。照明の傘がたたまれていく。話し声が低く、笑いを含んで混じる。
彩音は立ち上がったまま、宗方監督の椅子の方へ一歩、踏み出した。
ショルダーバッグの中から色紙の束を手探りでつかむ。一番上のまっさらな一枚を両手で引き抜いた。
もう一度、踏み出す。
もう一度。
宗方の椅子の横まで来てしまった。
「あの……」
声が上ずった。
「監督……」
宗方が顔を上げた。深い、眉間の皺。撮影中とは違ってその皺の角度はほんの少しだけ、ゆるんでいる。
「サインを……」
彩音は色紙を両手で突き出した。
「いただけ、ません……か……!」
声が最後までちゃんと形にならなかった。色紙の角が震えている。
宗方は彩音の顔を一拍、見てから自分の上着のポケットから太字のサインペンを取り出した。
「やれやれ」
低い声。
「物好きも居たもんだ」
「……」
「ほれ」
宗方は色紙を自分の膝の上に置いてサラッとサインを書いた。流麗な、迷いのない線。
彩音は息を止めてその動きを見ていた。
書き終わって宗方が色紙を彩音の方に軽く、押し戻す。
「……ありがとう、ございます……!」
彩音は両手で色紙を受け取った。
胸に抱いた。
ぎゅっ、と抱いた。
二十六歳の女性がもう一度、サイン色紙を胸に抱きしめた。
彩音の目の縁が薄く、湿っていた。
その後ろ姿をカウンターの中から柊一が見ていた。
(先生、嬉しそう、だな)
柊一は布巾でまた、別のカップを磨き始めている。
(……そろそろ、帰ってくれないか)
(片付けたい、んだが)
柊一は視線を白河凛の方にちらり、と向ける。
白河凛——千影は少し、離れた場所で撮影スタッフの若い男性と話していた。今日のテイクの感想を軽く、交わしている、らしい。
千影の肩はゆっくり、上下している。
長時間の撮影が無事に終わった安堵。
肩から首の付け根までの緊張が確かに緩んでいた。
彩音の視線が自分の抱いている、色紙の束に落ちた。
まだ、二枚、残っていた。
彩音の目が、ふっと見開いた。
(あ)
(そうだ。千影ちゃんにも)
頭の中で何かが、点灯した。
手が震えている。宗方監督にサインをもらったその興奮がまだ、引かない。心臓が撮影中の芝居を見ていたとき以上に速い。頭の半分が夢見心地。
彩音は白河凛の方に駆け寄った。
駆け寄りながら、サインペンと色紙をもう一枚、引き抜く。
白河凛がスタッフから視線を外して彩音の方を見た。
「白河さ——」
言いかけて——
舌が回らなかった。
興奮で呼吸が乱れていた。「白河さん」の「ん」が、空気の中にまだ、出てこない。言い直そう、と唇が動いた瞬間。
頭の中でいつもの呼び方がぽろっ、と滑った。
「——千影ちゃんもサイン、頂戴!」
言ってしまった直後。
彩音の顔が一瞬、こわばった。
(……あ)
(今、私)
(「千影ちゃん」って——)
しかし、彩音の頭の半分はまだ、宗方監督のサインをもらった夢見心地に漂っていた。訂正の言葉を探す、そのほんの一拍が間に合わなかった。
近くの撮影スタッフが振り返った。
「千影?」
軽い、首の傾げ。
「……白河さんのことですか?」
しかし、彩音の声は興奮で上ずったままでスタッフはそれを単なる言い間違いだろう、と判断した。視線を自分の機材に戻していった。
——カウンターの中の柊一だけが。
その一言を拾った。
布巾の動きが、止まる。
千影は完全に油断、しきっていた。
長時間の撮影が無事に終わった。全身の緊張が解けている。白河凛の女優の呼吸の中に何時間も入り込んでいた——素の千影に戻る、緩衝時間がなかった。
彩音の、「千影ちゃん」に。
いつものノリで——
反射的に返した。
しかも声は。
白河凛の声、のまま。
柔らかい、素の女の声。
「はいはい、先生、じゃあ、色紙をくださ……」
言ってしまってから——
千影の口が止まった。
自分の口から出た言葉に気づいた。
「先生」。
白河凛の声で。
彩音の「千影ちゃん」に反射で、「はいはい」と応えた。「先生」と呼んだ。
白河凛の声で。
千影の頭の中に柊一の言葉が鳴った。マスターが何ヶ月も彩音に語っていた、「あの人」の声の特徴。
(——「声が柔らかかった」)
(——「あの声が忘れられない」)
千影の視線がゆっくり、カウンターの中の柊一の方を向いた。
柊一は布巾を握ったまま、動かなかった。
目だけが、白河凛の方に向いていた。
「……千影?」
低い、声。
柊一の声。
確認の声。
白河凛——この女優をなぜ、「千影」と呼んだのか。なぜ、この女優が、「先生」と返したのか。
——千影。
うちのバイトの名前だ。
柊一の内心が止まった。
(千影——あの声——「あの人」の——千影はうちのバイトの——全部——)
言葉になる、前に。
答えが、来た。
答えが、頭の前面にせり上がってきて思考のほかの全てを押しのけた。
柊一の右手の指の力が抜けた。
磨いていたコーヒーカップが布巾のループから滑った。
ガシャン。
白い、磁器が床のタイルの上で砕けた。短い、乾いた音とその後の長い、ばらばらと欠片が転がる音。
ホールの空気が止まった。
撮影スタッフが一斉に振り返った。
彩音が息を止めた。
千影は柊一の目を見ていた。
あの目だ。
嘘をつかれたと知ったときの目。
かつて親友に裏切られたとき、きっとこんな目をしていた。千影はこの目を一度、見たことが、ある。柊一が過去を語ったあの夜。あのときと同じ目が今、自分に向けられている。
千影は走った。
白河凛の衣装のまま。
明るめの茶髪のロングヘアが振り向いた勢いで肩でふわっ、と跳ねる。コートを椅子の背からひったくる。腕に通す、暇はない。手に握ったまま。
マンハッタンのドアを押し開けた。
乾いたベルの音。
外の夕方の冬の風が店内に吹き込んだ、その瞬間に千影はもう、外にいた。
逃げた。
何ヶ月もかけて積み上げてきた、「大丈夫」が、たった二言で崩壊した。
彩音の、「千影ちゃん」と。
自分の、「はいはい、先生」。
二人がかりの崩壊。
カウンターの中の柊一はまだ、動かなかった。
砕けたコーヒーカップの欠片が自分の革靴のつま先の近くに転がっている。柊一の視線は白い、欠片のひとつを見ていた。
カウンターの中——
柊一が八年間、立ち続けた場所。
カウンターは柊一の城であり、境界であり、盾だった。
客はカウンターの外。
自分はカウンターの中。
それが、柊一の世界の全てだった。
柊一の頭の中で何かが、めくれた。
(——あいつは、消えた)
(金を持って)
(何も言わずに)
(俺は追わなかった)
(追っていれば何か、変わったか?)
(わからない)
(わからない、まま、八年、経った)
柊一の目の焦点がゆっくり、ホールのドアの方に向いた。
(……こいつは)
(泣いていた)
(「ごめんなさい」と言っていた)
(あいつは、「ごめん」も言わなかった)
柊一の足が動いた。
(——追え)
柊一はカウンターを回り込んだ。
欠片を踏んだ。靴底でガリッ、と音がする。柊一は構わなかった。
ホールに出る。
彩音が立ち上がった。
「マスター——!」
声が彩音の喉から出た。引き止める、声。
柊一は止まらなかった。
ドアに向かう、その足取り。
撮影スタッフが慌てている。「あのマスター」「店、いいんですか」。
彩音がそのスタッフの方に半歩、踏み出した。
「すみません、少しだけ——」
彩音の声は震えていた。
「店は私が見てます」
柊一はドアを押し開けた。
ベルの音。
冬の夕方の空気がもう一度、店内に流れ込んだ。
——営業中の店を初めて放り出して。
柊一は外に出た。
マンハッタンの裏手。
夕暮れの路地。
西日が低い角度で二階建ての商店街の屋根の隙間から差し込んでいる。石畳の目地に長い、影が落ちている。
その路地の真ん中で。
千影は立ち止まっていた。
走れなく、なっていた。白河凛のヒールが路地の石畳に合わない。踵が目地にはまる。何度か、よろめいた。立ち止まる、しか、なかった。
背中を向けている。
肩が震えている。
柊一の靴音が近づいた。
数歩、手前で止まった。
「——千影」
千影の足の踏ん張りが、わずかに変わった。背中の線が止まる。
「千影、なのか」
千影が振り向いた。
涙が頬を伝っている。白河凛のメイクが目元から頬の途中まで黒く、流れている。鼻が赤い。
——柊一は初めて千影の泣き顔を見た。
白河凛の顔でもない。バイトの千影の顔でもない。ただの泣いている、若い、女がそこに立っていた。
「…………はい」
千影の声は白河凛の声でも男装の千影の声でもなかった。
ただの千影の声。
「私——」
千影はもう一度、息を吸った。
「女、です」
「最初からずっと」
路地の奥でカラスがひと鳴き、した。
柊一は千影を見ていた。
長い、沈黙。
夕陽が二人の靴の先まで届いている。
柊一の口が開いた。
「お前は俺に嘘をついていたのか」
低い、声。
短い、問い。
千影の唇が開いた。
「……名前も」
声が震える。
「経歴も」
「全部、本当、です」
千影の両手が自分のコートの襟を握った。
「でも——」
涙が頬のメイクの上をもう一筋、滑った。
「本当のことを」
「言えませんでした」
「毎日、隣にいたのに」
「……ごめん、なさい」
千影の声がここで崩れた。
「ごめん、なさい」
「マスター——」
「ごめんなさい、ごめんなさい——」
謝罪が止まらなかった。涙で言葉がぐちゃぐちゃになる。「ごめんなさい」が、何度も続いた。
柊一の頭の中で言葉が走り続けた。
(……「嘘をついたな」?)
(……違う)
(……「なぜ、言わなかった」?)
(……それも違う)
八年前、親友が消えたとき。
柊一には、言いたかった言葉がひとつもなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。
今も同じだった。
言葉が見つからない。
——見つからない、まま。
腕が動いた。
柊一は千影を抱きしめた。
千影の言葉が途切れた。
柊一の腕が千影の背中に回った。ぎこちない、回り方。柊一は人に触れることに慣れていない。八年間、カウンターの中に立ち続けた男だ。
しかし。
離さなかった。
「マスタ——」
「黙れ」
柊一の声は低く、短い。
「……今、考えてる」
長い、沈黙。
千影の耳に柊一の心臓の音が聞こえた。エプロンの布越し。速い。この無口な、男の心臓がこんなに速く、打っている。
千影の涙が柊一のエプロンに染みていく。
西日が二人の影をひとつに繋げて路地の奥まで伸ばしていた。
柊一がゆっくり、千影を離した。
一歩、下がる。
千影の顔を見る。
泣き腫らした目。崩れたメイク。鼻が赤い。白河凛の面影はもう、どこにもない。マンハッタンのバイトの千影の面影もどこにもない。
ただの泣いている、女がいた。
(……ああ)
(こいつが、全部、だったんだ)
(三つ、全部——)
(どの顔にも俺は——)
柊一の視線が一瞬、自分のエプロンの濡れた染みに落ちた。
(——あいつは、笑って消えた)
(こいつは、泣いている)
柊一は息をひとつ、吸った。
吐いた。
「……俺は言葉を信じない」
柊一の目がまっすぐ、千影の目を見た。
「それでも言わせてくれ」
千影が息を呑んだ。
「嘘は許さない」
柊一の声は低く、揺れない。
「だが——」
「言えなかったことを」
「俺は嘘とは、呼ばない」
千影の膝が抜けた。
路地裏のコンクリートの上で。
千影は声を上げて泣いた。
もう、堪えなかった。何ヶ月も抱えてきた、「嘘はついてない」という、自己正当化と、「でも本当のことも言えなかった」という、罪悪感とこの人に許されたという、事実が——全部、同時に崩れて涙になって出てきた。
柊一はその上から千影を見下ろしていた。
「……立て」
「……立てません」
「膝が汚れる」
「立てません……」
柊一は額に片手を当てた。
「……しかたない」
柊一がしゃがんだ。
路地裏のコンクリートの上に千影の隣に座った。エプロン姿のマスターと白河凛の衣装の千影が並んで座っている。
絵面が滅茶苦茶だった。
「……マスター」
「ん」
「エプロンのまま、外に出てます」
「……ああ」
「営業中、です」
「……しかたない」
「しかたなく、ない、です」
千影の声がわずかに笑いの形に戻りかけてまた、涙で潰れた。
「お客さんが」
「……先生がいる」
柊一は自分の靴の先を見ていた。
「……たぶん」
短い、沈黙。
夕陽が二人の影を長く、伸ばしていた。
「……マスター」
「ん」
「コーヒー」
「ん」
「……飲みたい、です」
柊一は自分の膝に両手を置いてゆっくり、立ち上がった。
「……戻るか」
「……はい」
マンハッタンのドアを押した。
乾いたベルの音。
ホールの中で彩音が立っていた。
カウンターの外。客の側に。
割れたコーヒーカップの破片はもう、掃除されていた。床は濡れた跡だけが、薄く、残っている。撮影スタッフは次の仕事があったらしく、もう、いなかった。機材の一部だけが、隅にまとめられていた。
彩音が一人で店を守っていた。
彩音の目が千影を見た。
目の縁が真っ赤、だった。
「千影ちゃん」
「先生」
「ごめん——」
彩音の両手が自分の口元に当てられた。
「私が——」
「先生のせい、じゃ、ないです」
千影は彩音の片手をゆっくり、握った。
まだ、自分の頬が濡れている。指の温度の方がまだ、冷たい。
「……先生のおかげ、です」
彩音の目からもう一筋、涙が流れた。
彩音は声を出さないまま、深く、頷いた。
柊一は何も言わなかった。何も言わないまま、カウンターの中に戻った。エプロンの湿り気を布巾で軽く、拭く。手を洗う。
うちのブレンドの豆を挽き始めた。
いつもの所作。いつもの手順。
三人分。
ネルが三つ。湯がぽたぽたと落ちる。香りが、ホールにふわりと広がった。
彩音と千影はカウンターの外側の席に並んで座った。
白い、コーヒーカップが三つ、カウンターの上に並んだ。柊一が自分用のカップをカウンターの内側に置く。
千影がコーヒーに両手を添えた。
持ち上げる。
口をつける。
——一口、飲んだ。
千影の目がもう一度、湿った。
面接の日と同じ味、だった。何も変わっていなかった。豆の苦味の輪郭。香りの立ち方。喉の温度。全部、同じ、だった。
涙がまた、頬を滑った。
「……泣くな」
柊一は自分のコーヒーに口をつけながら、低く、言った。
「コーヒーが塩辛く、なる」
千影が声を出さずに笑った。
涙がまた、流れた。
柊一は視線を自分のカップの中の黒い液面に落とした。
(三回)
(……しかたない)




