第二十四話 ロケ当日——撮影
朝。
マンハッタンの店内に見たことのない、白い光が満ちていた。
店の前に機材車が停まっている。シャッターはいつもより早く、開いている。「本日休業」と書かれた手書きのプレートが扉の内側に貼られていた。
照明スタッフが二人がかりで大きな白い傘のような器具をカウンターの斜め前に立てている。レフ板を別のスタッフが椅子の上に固定する。床には、太いケーブルが何本も這ってテープで養生されている。
千影は控室に充てられた奥のバックヤードから一度だけ、ホールに足を踏み入れた。
いつもと同じ、カウンター。
いつもと同じ、椅子。
いつもと同じ、照明の位置——のはず、なのに。
白い光がカウンターの木目をいつもの色とは違う、わずかに冷たい色に塗り替えている。
千影の足が止まった。
胸の奥がざわついた。
(……なんだろう、この感覚)
(嫌な、予感がする)
(理由はわからない)
(でも——)
(何かが、壊れそうな、気がする)
千影は自分の指先を軽く、握り直した。
「白河さん」
声をかけられた。
現場のスタッフ。インカムを片耳につけている。
「リハーサルの位置確認、お願いします」
「はい」
千影の声は白河凛のトーン。
返事と同時に肩の緊張の場所が変わる。バイトの千影の肩の張り方ではない。撮影の白河凛の肩の張り方。
(……考えすぎ、だ)
(集中、しよう)
千影は控室に戻った。
女物の普通のブラに付け替える。男装モードのときの胸を圧した補正インナーはたたんでバッグの底にしまう。ロングウィッグを頭の左右から丁寧に被る。前髪を整える。鏡の前でメイクの最終確認。
最後に香水をひと粒。指の腹で首筋に軽く、押し当てる。フローラルの控えめな香り。事務所の二十四時間が本番、のルール。下着から香りまで全て白河凛のものに揃える。
控室の鏡の中に白河凛が立っていた。
千影は深く、息を吸って吐いた。
ホールに出る。
カウンターの中の柊一はいつもどおり、布巾でグラスを磨いていた。
今日は撮影で店を貸し切っている。バイトの千影は休み——という、ことになっている。柊一は当然、それを信じている。
ホールの隅。
彩音はさっきから机のひとつを勝手に占拠していた。
いや、座っている、はずだった。
千影が控室から出てきたときには、もう、座っていなかった。
カチンコを持って立っている、若いスタッフの横にいた。
「あのこれって本物ですか」
スタッフが目を瞬く。
「えっと……本物、ですけど」
「叩いていい、ですか」
「あ、撮影中じゃないのでまあ、軽くなら」
「ちょっと失礼します」
彩音は両手でカチンコを受け取った。
胸の前で構える。一拍。
かちん。
軽く、叩いた。
彩音の目が輝いた。
「……いい音」
彩音はカチンコを丁寧に両手でスタッフに返した。
返してから視線を別のスタッフに移す。
「あのすみません」
「はい」
「このカメラのレンズって何ミリ、ですか」
「あ、これは、五十ミリ単焦点ですね」
「単焦点!」
「はい」
「単焦点!」
「は、はい」
「あの照明の角度って宗方監督の指示ですか」
「あー、そうですね、監督がこだわるところで」
「やっぱり!」
彩音の語尾がいちいち、跳ねている。
千影は控室からホールへの出入り口のカーテンの隙間からその光景を見ていた。
(……先生)
(先生)
(教師の威厳)
千影はゆっくり、額を片手で押さえた。
カウンターの中の柊一の方をちらり、と見る。
柊一は磨いていたグラスの磨く動作をほんの一瞬、止めて彩音の暴走を見ていた。
布巾をグラスから外して棚に戻す。
(……先生、朝から居座って何をしてるんだ)
(まあ、客は入れないし)
(邪魔には……)
柊一は視線を別のスタッフがレンズ周りで彩音の質問に対応している方にもう一度、向け直した。
(……なってるな)
柊一はそれ以上、口を出さなかった。出口に立っていた別のスタッフが彩音の方に笑いながら、近づいていって優しい声で、「すみません、もうすぐリハ、入るんで」と誘導してくれている。
彩音はきょとんとした顔で頷いて自分の席に戻った。
戻る途中。
ホールの隅のテーブルに小さな束が置かれていた。
使用済みの台本のコピー。スタッフの一人が要らなくなったらしい、とだけ書かれた付箋が貼られている。
彩音の視線が固定された。
彩音は自分の指の動きを止められなかった。一枚、一枚、そっとめくる。確認するように。確かめるように。
顔を上げて近くにいたスタッフに訊いた。
「あのこれ……」
「はい」
「記念にいただけたり、しません、か」
「あ、それは、処分するやつなんで大丈夫ですよ」
「本当!?」
彩音は台本のコピーを両手で胸の前に抱いた。
しっかり、抱いた。
二十六歳の女性が台本を胸に抱きしめた。
その後ろ姿を千影はもう一度、カーテンの隙間から見た。
(……先生)
(教師の威厳)
リハーサルが終わった。
本番。
千影は入口からホールへ歩を進めた。
白河凛として。
ロングヘアが肩でふわりと揺れる。コートの深い色。冬の午後の客の装い。
カウンターに座る。
カウンターの中の柊一は撮影用のエキストラとしての店主役、ではない。本物の店主として本物の所作でコーヒーカップを磨いている。今日の撮影は店内の雰囲気を生のまま、使う形式——スタッフからそう、説明を受けている。
柊一の布巾の動きが——
止まった。
カップは磨き終わっている。布巾はまだ、カップの腹に当てられたまま。動きが、忘れられている。
柊一の目が白河凛を見ていた。
(——あの人に似てる)
(……いや)
柊一の頭の中で整理が走った。
(あの人とは、今、LINEを交換していて)
(先週も駅前で食事をした)
(昨日も、「おやすみ」のやりとりをしている)
(今日、この時間、あの人は仕事中だと返事があった)
(——仕事中のあの人が)
(俺の店でドラマの撮影?)
(そんな、偶然、さすがに)
柊一のポケットの中で左手が動いた。スマホを握る。
握って——握ったまま、止まる。
(撮影中の女優に)
(LINEを入れるのは、失礼だ)
柊一はポケットから手を出した。スマホはポケットの中に置いたまま。
布巾を磨きかけのまま、棚の縁に置いた。
(あの目だ)
(監督の指示に神経を張り詰めたプロの表情)
(街ですれ違ったときの)
(あの無防備な、笑い方とは、違う)
(デートのときのあの人の笑い方とも違う)
(別人だ)
——別人だ、と自分に言い聞かせる、その言葉の底で。
言葉にならない、何かが、引っかかった。
いつか、似た顔を見たことが、あった気がする、と。誰の顔か、思い出せないまま、ただ、引っかかる。
柊一は首を軽く、振った。
(何を考えてるんだ)
(うちのバイトは男だ)
(……関係、ない)
柊一は新しいカップを棚から取った。布巾を握り直す。
磨き始める。
——カウンターの向こう側の白河凛が柊一のその仕草を見ていた。
白河凛の目の奥で千影が息を止めていた。
(マスターがまた、あの顔をしてる)
(あの街の日と同じ顔)
(今、LINEを打ちかけてやめた仕草まで見えた)
(——そうだよ)
(同じ人、だよ)
(気づいてよ)
(……気づかないで)
「シーン三、テイク一、入ります」
助監督の声。スタッフがそれぞれの持ち場につく。
カチンコの音。
カメラが回り始める。
白河凛はカウンターの椅子に座って湯気の立つ、コーヒーカップを両手で包んだ。
目線をゆっくり、上げる。
カウンターの中の店主役の男——本物の店主、柊一の手元へ。
白河凛の口が動いた。
「カウンターの向こう側にいる人の手って」
柊一の布巾を持つ手がほんの少し、止まった。
目は伏せたまま。
「いつも一歩、遠い」
千影の声。低く、抑えた台詞。台本通り。
「こっちから伸ばしても届かなくて」
「向こうから伸びてこないと触れられない」
「……なのに毎日」
「湯気だけは、こっちまで届くんです」
カメラのファインダーの中で白河凛の目が湯気の向こうの男の手元を見ている。
(……これ)
(脚本家が書いた台詞、なのに)
千影の内心の声は白河凛の表情をほんのわずかも揺らさなかった。
(私のために書かれた台詞に聞こえる)
(カウンターの向こう側の手が遠い——)
(それ、毎日、マスターの手を見てた私の本音だ)
(湯気だけは、届く——)
(それも私の現実だ)
カメラが白河凛の横顔からゆっくり、引いていく。
柊一は布巾の動きを再開していた。再開したその所作のリズムがいつもより、ほんの半拍、遅い。本人だけが、その遅れに気づいている。
白河凛の唇がまた、動く。
「嘘をつき続ける人ってたぶん——」
千影の目線がわずかに落ちた。台本指示通り。
「言わなかったことの重さで」
「いつか、自分のカウンターに閉じ込められる」
台詞を言い終えてから白河凛はコーヒーカップに口をつけた。本物のコーヒー。本物の温度。
ファインダーの向こうから宗方監督の低い声が飛んだ。
「カット」
現場の空気がゆっくり、ほどけ始める。
「……いい」
宗方は自分の椅子に深く、もたれた。
「もう一度、同じ温度で」
助監督が復唱する。「テイク二、準備に入ります」。
千影はカップをソーサーに戻した。
白河凛の表情を保ったまま。
(同じ温度)
(監督には、わかるんだ)
(この温度が演技じゃ、ないことも)
(……いつか——)
千影はその先を考えるのをやめた。
考えるのをやめる、その判断も白河凛のリズムで行われた。
カウンターの中で柊一は新しいコーヒー用にネルをセットしていた。テイク二用に湯気をもう一度、立てる必要がある。手の動きは、いつもどおり。表情はいつもどおり。
(この女優……)
(演技がうまい)
(「好きなのに言えない」という、表情が)
(……刺さる)
柊一は湯を注いだ。
(「湯気だけは、こっちまで届く」——)
(あの台詞)
(誰かのことを思い出させる)
(……誰の)
誰、までは、繋がらない。繋がらない、まま、台詞の残響だけが、柊一の耳の奥でしばらく、消えなかった。
テイク二、テイク三。
短いシーンの撮り直しが、何度か、続いた。宗方はほとんど、口を出さなかった。「同じ温度で」ともう一度、言っただけ。
最後のテイクのカチンコの音が鳴って——
「カット。OK」
現場の緊張が一気に解け始めた。
助監督がインカムで撤収の指示を出している。スタッフがケーブルを巻き始める。照明の傘がたたまれていく。
千影の肩から力が抜けた。
白河凛の表情を保ったまま、ゆっくり、息を吐く。
(乗り切った)
(マスターは、「似てる」とは、思ったけど)
(同一人物だとは、気づかなかった)
(……安心、した)
(安心してる、自分が)
(つらい)
(気づいてほしかった)
(少しだけ)
千影の胸の奥で朝、控室の前のホールで感じたざわつきが、まだ、消えていなかった。
何かが、終わった気がする。
いや。
何かが、始まろうとしている、気がする。
理由はわからない。
ただ、心臓がまだ、落ち着かない。
撮影スタッフの一人がキャスター付きのホワイトボードを押して千影の椅子の脇を通り過ぎていく。香盤表とカット割りの確認用のもの。マグネットや、付箋がいくつも貼り付いている。
「すみません、これ、回収が来週なのでしばらく、置かせてもらっていいですか」
スタッフが柊一に声をかける。
「……どこに」
「あの邪魔にならない、奥の方で」
柊一はわかりやすく、嫌な顔をした。
「……バックヤード」
「ありがとうございます!」
スタッフはホワイトボードを押してカウンター裏のバックヤードの扉を押し開けた。柊一が押し込みやすい角度に扉を片手で支えてやる。
柊一の顔はまだ、はっきり、嫌な顔のまま。
ホールの緊張がゆっくり、ゆるんでいく。
スタッフ同士が軽く、談笑を始める。「今日のテイク、良かったね」「白河さん、本当に目がね」。
千影も椅子の上で息をもう一度、吐いた。
白河凛の口角がほんのわずかにゆるむ。撮影モードの糊が剥がれ始める。
——マンハッタンのカウンターにいるときと同じ、空気が千影の体から薄く、漏れ出した。
その数メートル、先。
壁際の席でノートと台本のコピーを机の上で抱きかかえていた彩音が立ち上がった。
立ち上がりながら、ショルダーバッグの中に手を突っ込む。色紙の束が一瞬、見えた。
彩音の目線は宗方監督の方にまっすぐ、向いていた。
目が輝いている。
いつもの淡々とした教師の目では、ない。バチバチに輝いている、目。
彩音の足が宗方の方へ一歩、踏み出した。




