第二十三話 嘘をつくな
ドラマ撮影を翌日に控えた夜。
マンハッタンの閉店間際。千影は撮影準備のため、早退している。柊一が「明日に響く。早く帰れ」とエプロンの紐の結び目を自分で外しながら、追い出した。千影は何度か、振り返って頭を下げて出ていった。
残ったのは、カウンターの中の柊一と——
カウンターのいつもの席にもう一時間、座り続けている、律。
他の客はいない。
いや、正確には、いた。
壁際のいちばん奥の二人掛けの席。彩音がテーブルにノートとボールペンと明日の段取りメモを広げてコーヒーをずっと前に飲み終えた空のカップを肘の脇に置いたまま、うつむいて何かを書き込んでいる。
明日、この店で宗方鉄哉の撮影がある。
彩音は見学を勝ち取って以来、撮影段取りのメモを自宅の机に向かう代わりにマンハッタンの隅の席で書き続けていた。「店の空気を覚えながら、書きたいの」と千影に説明していた。本人はそれを本気で言っている。
柊一は閉店作業を回しながら、彩音の席に視線をちらりと向けた。
彩音のペンの音。一定。
もう、自分の世界に入っている。
柊一はそれで、十分、と判断した。律の方に視線を戻す。
律はコーヒーカップを両手で包んでいた。
もう、飲み終わっている。
それなのに口をつける、フリをしている。カップを唇の下まで運んでまた、戻す。中身はない。
柊一は黙ってポットを取った。律のカップに二杯目を注ぐ。
「あ」
律の肩が跳ねた。
「頼んでない、です」
「顔に書いてある」
柊一はポットを戻した。
「何か、言いたいんだろう」
律がカップを握り直す。
口を開く。
閉じる。
もう一度、開く。
「……マスター」
「ん」
「その……」
律の指がカップの取っ手を何度か、握り直す。
「料理って」
「ん」
「気持ちが、伝わると思いますか」
柊一は布巾を棚の縁に置いた。
「味は嘘をつかない」
「……」
「俺の答えは、それだけだ」
律が頷きかけて止まる。
「じゃあ——」
「ん」
「毎回、余ったからって言って持っていくのは」
——柊一の布巾の動きが、一拍、遅れた。
布巾をもう一度、取り上げる動作の途中で空中に止まる。
律を見る。
律が自分の口に出したその質問の意味に一拍、遅れて気づいて目を伏せた。耳が薄く、赤い。
「……なんでもない、です」
柊一は布巾をゆっくり、握り直した。
「……遅い」
律の肩がもう一度、跳ねる。
「もう、聞いた」
「あ」
律は顔を上げられないまま、コーヒーに逃げた。
二杯目。注がれたばかり。
熱い。
「っ——」
律が口元を押さえる。
柊一が無言で水の入ったグラスを出した。
「……すみません」
「いい」
律は水を一口、含んで喉に流した。火傷の手前の舌のぴりぴりが、少し、引く。
柊一は布巾でカウンターの自分の手元を拭いた。
「……で」
「はい」
「好きな人に正直に言えないやつってどう思うか」
柊一の声は低い。低くて平坦。
「——って聞きたいんだろう」
律がカップを両手で握ったまま、頷いた。
長い、沈黙。
彩音の席のペンの音はまだ、続いている。書く、止まる、書く、止まる。
柊一は棚からカップをひとつ、取った。布巾で磨き始める。
いつもの所作。親指と人差し指で取っ手を挟んで残りの指を軽く、添える。
磨く。磨く。磨く。
律は待った。
息を止めるみたいにして待った。
——カップを磨く動作が、ふっと、ゆるんだ。
「……昔」
その一言。
また、磨き始める。
律は動かない。
「親友がいた」
律の指の節が白く、なる。
柊一はカップを布巾でもう、磨く必要のない部分まで磨いてから棚に戻した。次のカップを取る。
そのしばらくの間。
彩音の席のペンの音が止まった。気のせい、かもしれない、くらいの止まり方で。
「……一緒に」
柊一が息を吐く。
「店を開く約束、だった」
布巾の動きが、止まった。
また、動き始める。
律の目の縁が薄く、光った気がした。律はそれを自分でもまだ、認識していない。
「……消えた」
柊一はカップを棚に戻した。
「金、ごと」
ストン、と音もなく、棚に収まる。
律のコーヒーカップを握る指に力が入る。取っ手が軋む音はしない。耐える、強度の中の力。
柊一は別のカップを取った。
磨く。
「理由は聞いてない」
磨く手がまた、止まる。
「……あいつと夢を語った時間が」
柊一は自分の布巾の縁をじっと見た。
「嘘だったのか、本当だったのか」
布巾の白の中に何かが、見えるみたいに見ていた。
「——それが、わからないのが」
「……」
「一番、つらい」
律はコーヒーカップを両手で包んだまま、動かなかった。動けなかった。
柊一はカップを棚に戻した。布巾をたたむ。たたみ直す。さらにたたみ直す。
顔を上げて律を見た。
「……好きなら、好きと言え」
律の肩がぴくっ、と跳ねた。
「言わないまま、消えるよりは」
柊一の目は律の目をまっすぐ、見ていた。
「マシだ」
壁際の席で。
彩音は自分のペンをノートの上に止めたまま、動けなかった。
書きかけの段取りメモの文字の最後の一画がにじんで紙にぽつ、と丸い染みを作っている。インクがペン先でひと粒、落ちた。
彩音は自分の手の中のペンのそのひと粒を見ていた。
(……好きなら、好きと言え)
(マスター)
(それは)
(瀬尾くんに言ってるのよね)
(私に言ってるわけじゃ、ないわよね)
彩音は息を細く、吐いた。
誰にも聞こえないように。
(……なんで胸が痛いの)
(関係、ないのに)
(瀬尾くんの恋の話、なのに)
(——関係、ない)
(関係、ないったら)
彩音の指がペンをもう一度、動かそうとした。
動かなかった。
(瀬尾くんの好きな、人)
(「年上が好き」って言ってた)
(千影くんとあんなに仲がいいし)
(千影くんは、年上、よね)
(……まさか、千影くんのこと)
彩音は自分の思考を慌てて止めた。
ペンの先をノートに押し付ける。インクがまた、ひと粒、染みた。
(……いやいや)
(考えすぎ、だわ)
(男の子、同士だし)
(——でも)
(コインランドリーの日に、「年上」って言ったとき)
(耳が赤かったのよね)
彩音はペンを置いた。
ノートをゆっくり、閉じる。
空のコーヒーカップを片手で持った。指の腹がカップの底の冷たさを確かめる。
彩音は立ち上がった。
壁際の席からホールを抜けて入口の方へ。歩く音はできるだけ、小さく。
カウンターの方を見ない。
「……ごちそうさま」
声は小さく。
マスターと瀬尾くんの会話に入り込まないようにできるだけ、軽く。
扉を押す。
乾いたベルの音。
冬の夜気が彩音の頬を撫でた。
扉が閉まる。
——カウンターの二人は振り向かなかった。
律が帰っていく。
二杯目のコーヒーを半分以上、残したまま。「ごちそうさまでした」と消え入りそうな声で言って扉を押す。
ベルの音。
扉が閉まる。
マンハッタンの店内に柊一だけが、残った。
柊一はホールをぐるりと見回す。閉店の段取りを頭の中で組み直す。テーブルを拭く。椅子を上げる。床を掃く。仕込みの確認。鍵をかける。順番。
その前に。
柊一は自分の手をもう一度、布巾で拭いてから自分用にコーヒーを淹れ始めた。
ポットに湯を沸かす。豆を挽く。挽きたての香りが、立つ。
(偉そうに言ったが)
(……俺は何をやってるんだ)
柊一はドリッパーにネルを取り付けた。挽いた豆を入れる。表面を軽く、揺すって平らにする。
(ガキに説教して)
(過去をベラベラ、喋って)
湯をネルの中央にひと筋、落とす。豆がふくらむ。
(……あいつと千影は違う)
(あいつは、消えた)
(千影は毎日、カウンターの中にいる)
柊一は湯を止めて蒸らしの時間を待った。
(……何を考えてるんだ、俺は)
(豆を挽こう)
いや、もう、挽いた。
柊一は自分の頭の中の無意味な、独り言にわずかに苦笑した。
蒸らし時間が終わる。湯を二度目、注ぐ。中央から外側へらせん。いつもの手順。いつもの温度。
——なのに。
あの人の顔が浮かんだ。
商店街の角で震えていた声。
白河凛、と名乗った女。
名前は知っている。LINEで、毎晩、文字を交わしている。デートで、一度、横を歩いた。
なのに——
あの人の本当の輪郭だけは、まだ、見えない。
届きそうで、届かないのに——
柊一の手が湯を注ぐ、リズムをわずかに外した。
ポットの口からいつもより、湯が長く、出る。
ネルの中の豆の表面がわずかに波立つ。
柊一はポットを止めた。湯量を戻す。
……湯の温度が二度、高い。
柊一の手の感覚がそれを知らせる。指の腹がポットの腹を触っただけでわかる。
(……集中しろ)
柊一は息を整えた。
もう一度、ポットを傾ける。
らせんを書く。中央から外へ。外から中央へ。
ネルの底からコーヒーが落ち始める。
ぽたぽたぽた。
その音を聞きながら、柊一はふとカウンターの端に目をやった。
——そこに。
カップがひとつ、残っていた。
白い、内側。底に薄く、コーヒーの輪が残っている。完全に乾いてはいない、その輪。
いつ、置かれたカップだったか。
柊一は布巾を片手にカウンターの端まで歩いた。カップの取っ手に指をかける。冷たい。完全に冷えている。
いつからここにあった?
柊一の視線が壁際の二人掛けの席に移った。
ノートもペンもない。
椅子はテーブルの方に軽く、押し戻されている。誰かが、自分で立ち上がって椅子を戻したその動き方。
柊一の指がカップの取っ手を握ったまま、止まった。
いつ、飲み干した。
いつから残っていた。
扉のベルが鳴った記憶を柊一は辿った。
——鳴った。
たぶん、鳴った。
律の足音と扉の音の間に。あるいは、そのすぐ前に。短い、ベルの音がひとつ、混じっていた気がする。
気がするだけ、かもしれない。
柊一は空のカップを布巾で持ち上げた。
底の薄い、コーヒーの輪。
ネルからコーヒーがぽたぽたと落ちる音だけが、店の中に残っていた。
——同じ夜。
千影の自宅。
撮影前夜の脱衣所で、千影は鏡の前に立っていた。
明日の朝、千影は男装ではなく白河凛として家を出る。
今夜のシャワーは「男装の千影」を一度、洗い流すための時間だった。
補正インナーを脱ぐ。腹巻き風のインナーが床に落ちる、柔らかい音。十ヶ月分の所作で身体に染み込んでいた「男の千影」の輪郭が、湯気の手前でゆっくり、ゆるんでいく。
(明日)
(マスターの前で)
(白河凛として、立つ)
(バイトの千影として、じゃ、なくて)
(……同じ顔の、別人として)
千影は鏡の中の自分と一度だけ、目が合った。
地毛のショートが額に落ちている。男装でも女装でもない、ただの仕事の前夜の顔。
胸を覆っていたものが、外れた、その輪郭。
(女、だ)
(……当たり前だ)
(でも明日は)
(その「女」を)
(マスターから一番、遠い「白河凛」として)
(カウンターの中に立つ、あの人の前に立つ)
シャワーの湯を出した。
湯気が立ち上がって鏡の千影の輪郭をゆっくり、覆っていく。
湯が髪に落ちる。鎖骨に落ちる。
マンハッタンのコーヒーの匂いはもう、肌からは、消えている。
明日の朝、その匂いは、白河凛として、マスターのカウンターの近くで、もう一度、出会うことになる。
千影は湯気の中で目を閉じた。
(……信じるんだ)
(マスターの鈍さを)
(……信じる、しか、ない)
ベランダの方で誰かのドアが閉まる音がした、ような気がした。
シャワーの音に紛れてすぐに、消えた。




