第二十二話 台所の指
数日後のマンハッタン。閉店間際。
彩音はいつものカウンター席でコーヒーを飲み終えたカップをカウンターに置いた。
ふと顔を上げてホールの方を見た。
——奥のボックス席。
律と千影が向かい合って座っていた。
千影が台本を開いている。律は台本の千影の側ではなく、自分の側のページを片手で押さえていた。相手役のセリフを読んでいるらしい。
「……ここ、『顔を上げて』のところです」
律の声。低い、整った声。
律の手が伸びた。
千影の顎に。
指の腹で軽く、角度を直す。
千影が律の目を見上げた。
至近距離。
律がぼそっと呟いた。
「……いい。その目です」
彩音の息が止まった。
布巾を握る指に力が入る。
(……え)
(今の)
(律くんの手が千影ちゃんの顎に)
(……台本の練習?)
(——でも)
彩音は視線を外せないまま、ボックス席の二人を見ていた。
台本は千影の側に開かれている。彩音の位置からは、ページが立て掛けられた格好でほとんど、見えない。
(あの顔)
(律くんが、千影ちゃんを見る、あの真剣な顔)
(……普通の台詞合わせであんな顔、するかしら)
律の手が千影の顎から離れた。千影は台本に視線を戻して何か、小さく頷いた。律も頷いた。台本の続きを読み始めている。
——ただの稽古。
ただの稽古、だ。
彩音は自分にそう、言い聞かせる。
(前にも一度)
(似たような、空気を感じた)
(あのときは「まさかね」で済ませた)
(でも二度目)
(二度目の「まさかね」は)
(もう、「まさかね」じゃ、ない)
(「もしかして」、だわ)
彩音は布巾をゆっくり、流しの縁に置いた。
心臓が変な拍子で跳ねている。
(……気のせいだと思いたい)
(思いたい、んだけど——)
ボックス席で千影が台本を閉じた。律が軽く、肩をすくめている。
彩音の視界の隅でカウンターの中の柊一はいつもどおり、布巾でカップを磨いていた。何も見ていない、顔で。
(マスターの鈍さに感謝するべきか)
(マスターの鈍さを心配するべきか)
(……今はたぶん、感謝、だわ)
彩音は息を細く、吐いた。
閉店後。
常連が出払い、シャッターが下りる音が商店街にぽつぽつと混じる時間。
千影がエプロンの紐を解きながら、彩音の方に歩いてきた。
「先生」
「うん?」
「話があるんですけど」
千影がカウンターの中から二人分のコーヒーを淹れ直して、ボックス席の方に運んできた。柊一は奥の厨房で明日の仕込みを始めている。律は勘定を済ませていつもの席で参考書を開いていた。
二人は隅のボックス席に向かい合って座った。
「……なに?」
千影はコーヒーカップに両手を添えて少しの間、黙った。
「マンハッタンでドラマの撮影をすることになりました」
彩音の唇が開きかけて止まった。
「……私が出る方のドラマです」
彩音はコーヒーを一口、含んだ。熱かった。舌の奥が軽く、痺れる。
「……マスターの前で」
「……はい」
「白河凛、として」
「……はい」
「大丈夫、なの?」
「何とか、頑張ります」
千影は両手でカップをぐっと握った。
「……あとマスターの鈍さを信じます」
「……鈍さを信じるって」
彩音は額に手を当てた。
「もう、何回目よ、それ」
「自分でも数えてません」
「数えなさいよ」
「数えたら、たぶん、心が折れます」
彩音は深い溜息をついて自分の額から手を離した。
(……千影ちゃんのバイト先でドラマの撮影)
(マスターの前で白河凛として現場に入る)
(……私は)
(マスターにも千影ちゃんにも正直でいたいのに)
(二人の秘密を両方、抱えて)
(どっちにも何も言えない)
(「先生」って頼られてるのに)
(先生らしいことが、何もできない)
彩音は自分のコーヒーをもう一口、飲んだ。
今度はちょうど良い、温度に下がっていた。
「……ちなみに」
「はい」
「なんていう、ドラマ?」
千影が少し、首を傾げる。
「『カウンターの向こう側』、っていう、ドラマです」
——彩音の動きが、止まった。
カップを口元からゆっくり、下ろす。
「……それって」
「はい?」
「……宗方鉄哉の最新作じゃ、ない!?」
千影が目を瞬いた。
「知ってるん、ですか?」
「知ってるも何も!」
彩音の声の音量が一段、上がった。
「え」
「あの『沈黙の果て』の宗方鉄哉、よ!?」
「……はい」
「『燃えない花束』も、『月曜日の嘘つき』も全部、見てる!」
彩音は両手をテーブルの上にぱん、と置いた。
「ブルーレイ、全巻!」
「あ、はい」
「特に、『隣の窓』!」
「隣の……」
「隣同士に住んでる、男の子二人の話なんだけど」
「……男の子、二人」
「もう、ね」
彩音は両手を胸の前で組んだ。
「切なくて温かくて号泣よ、号泣!」
「……」
「あれは、人類の宝!」
千影はコーヒーカップを両手で持ったまま、目の焦点を半歩、後ろに引いた。
(男の子、二人……?)
(先生……?)
(あのいつも淡々とコーヒーを飲んでる、先生……?)
彩音の目が千影の方にぐっと近づいた。
ボックス席のテーブル越し。彩音の手が千影の肩を両手で掴んだ。
「ちょっ」
「千影ちゃん」
目が輝いている。
いつもの淡々とした彩音の目では、ない。バチバチに輝いている。
「撮影、見に行ってもいい?」
「え」
「というか、もう、見せて」
「あの」
「後生だから」
「ちょ、ちょっと待ってください」
千影は肩を掴まれたまま、両手をぱっと上げた。降参のポーズに近い。
「確認、します」
「うん」
「今、確認します」
「うん」
「だから、いったん、肩から手を……」
「あ。ごめん」
彩音が手を離した。
千影はエプロンのポケットから業務用のスマホを出した。指が少し、震えている。電話帳からドラマのスタッフの番号を選ぶ。
彩音が千影の隣でドキドキ、ソワソワしながら、待っている。指を組んだり、解いたり。座ったまま、軽く、足踏みのような動作をしている。
(……先生、まさか、ここまでファンとは)
(事務所のメンバーより、テンション、上だぞ)
千影は横目で彩音の挙動を見ながら、電話の呼び出し音を聞いていた。
「……あ、もしもし、お疲れ様です。白河です」
千影の声がすっと白河凛のトーンに戻る。
「先日、お話しした撮影現場の見学なんですが——」
千影が手短に事情を説明する。彩音が息を止めて聞いている。
「……はい。はい、わかりました。ありがとうございます」
電話を切る。
千影は息を一つ、吐いてから彩音の方を見た。
「OK、だそうです」
——次の瞬間。
「しゃぁぁぁぁぁーい!」
彩音の両拳が天井に向かって突き上がった。
その横で千影は目の前で爆発する彩音を瞬きを忘れたまま、見つめていた。
(先生のあの喜び方……)
(今まで誰に対しても見たことが、ない、顔だった)
(宗方監督って)
(そんなにすごいんだ……)
千影はちょっとだけ、椅子を後ろに引いた。
数日後の夜。
律は彩音の部屋の台所にいた。
いつもの料理塾。今夜は和洋中、どれにも分類できない、彩音の創作料理。フライパンの中で刻んだ茄子と挽肉が油を弾いている。
二人はまな板の前で並んで立っていた。彩音が長ねぎを刻んでいる。律はその隣で人参を千切りにする。
とん、とんとん、と二人の包丁の音がリズムをずらしながら、重なる。
「先生、人参、これくらいでいい?」
「もうちょっと細く」
「了解」
律は人参の幅を半分にして包丁を動かし直す。
その横で——
「いたっ」
彩音の声。
長ねぎから包丁を引いた指の第二関節の内側。赤い、線がぷくっ、と浮き上がっていた。
「先生」
律の身体が反射的に動いた。
包丁をまな板に置く。
彩音の左手を取る。
指を軽く押さえて傷の方向を自分の方に向け直す。
「……動かない、で」
「うん」
彩音は律の指の動きに合わせて自分の指を預けた。
——そのまま、視線が律の手に落ちた。
彩音より、明らかに大きい手。
指の節がきちんと骨ばっている。爪は短く、整えられている。包丁の使い方が上達している、その手。
彩音の口が勝手に動いた。
「……手、大きくなったね」
「成長期、ですから」
律の声はいつもどおり。
彩音は自分の手を律の手から離せなかった。
離せない、まま、自分の指の付け根の傷をぼんやりと見ている。
(この手)
(いつからこんなに大きくなったの)
(……誤配達の段ボールを受け取ってくれた朝は)
(まだ、子供の手、だった)
(今は——)
「……先生?」
律の声で彩音は我に返った。
律の首が少しだけ、傾いている。怪訝そうな、表情。
「……ごめんね」
彩音は自分の手をゆっくり、引いた。
「絆創膏、取って」
「はい」
律が流しの上の棚を開ける。背中が彩音の前から消える。
彩音は自分の指の赤い線をもう一度、見下ろした。
赤い線の痛みより、自分の手のひらにまだ残っている、律の指の温度の方が気になっていた。
料理ができた。
名前のない、創作の何か。茄子と挽肉と千切り人参と長ねぎが、平皿の上で湯気を立てている。
二人はテーブルに向かい合って座った。彩音が箸を取る。律も箸を取る。
「いただきます」
「いただきます」
彩音は一口、食べる。
律も一口、食べる。
「うまい、です」
「ありがとう」
彩音はもう一口、食べてから視線を律の方に向けた。
律の横顔。
顎のライン。喉仏の輪郭。
声変わりが、進んだ、低い声。
きちんと整えた髪。
彩音の頭の中で律の身長と自分の身長の差が計算される。
(一七三センチ……だっけ)
(私より、十センチ以上、高い)
(「生徒」、なのに)
(「生徒」、のはずなのに)
(……もう、子供じゃ、ない)
(いつから)
(こんなに男の人の顔になったの)
彩音は自分の感情を、まだ、言葉にできずにいた。
言葉にできないまま、口の中で茄子の油を噛んでいた。
律が箸を止めた。
口を開きかけた。
「先生、俺——」
——彩音の箸が空中で止まった。
律も自分の口から出た音に一拍、遅れて気づいた。
(……「俺」)
(「僕」、じゃなく)
(「俺」)
律の視線が自分の口元に向かいかけて止まった。
彩音が反射的に自分の手を引いた。
——テーブルの上に置いていた左手。さっき、傷を塞いだ、その手を自分の方へぐっと寄せた。
「……もう、遅いわ」
彩音の声はいつもより、半音、低かった。
「帰りなさい」
律は何かを飲み込んだ。
飲み込みかけたその何かをもう一度、奥に押し戻す。
「……はい」
律は箸を置いた。
二口しか、食べていない、皿。残りを見もしないで立ち上がった。
玄関で靴を履く。鞄を肩にかける。コートを片手に。
「ごちそうさま、でした」
「うん」
彩音はテーブルの椅子から動かなかった。
ドアが閉まる音。
外側のサンダルの音が隣の部屋の扉の方へ移動していく。
——その音が消えてから。
彩音は自分の左手を目の高さに上げた。
なぜ、引いたのか、自分でも分からない、その手を。
じっと見ていた。
律は自分の部屋に入って靴を脱がないまま、玄関に座り込んだ。
膝の上にコートを抱えて。
ベランダ越しの彩音の部屋の明かりが、磨りガラスの仕切りの向こうで薄く、揺れている。
(……「俺」が、出た)
(「僕」、じゃなく)
(「俺」が)
律は自分の右手を見下ろした。
さっき、彩音の指に触れた手。
彩音の手の骨の細さ。皮膚の薄さ。それをまだ、指の腹が覚えている。
(先生の前では)
(「僕」のはず、なのに)
(先生の手に触れてたら)
(……何かが、変わった)
律は靴の踵を玄関のタイルに押し付けた。冷たさが、足の裏から上がってくる。
(……好き)
(なのかもしれない)
(先生のことが)
(先生"として"、じゃ、なくて)
その自覚は半分しか、形にならなかった。
——半分は、はっきり、輪郭を作って。
——残りの半分は自分でもまだ、見たくない、影のまま。
(……いや)
(今のは、気のせい、だ)
(たぶん)
(……たぶん)
律は目を閉じた。
磨りガラスの向こうの彩音の部屋の明かりが、自分の瞼の裏でもう一度、揺れた気がした。
同じ頃。
千影は別のドラマの撮影現場にいた。
深夜帯のサスペンス。役は被害者の同級生で出番は警察の聴取シーン、ひとつだけ。台詞は短い。
次のリハーサルまで待ち時間。
控え室の隅で千影は台本を膝の上に開いていた。
黄色いマーカーで自分の台詞の前後を囲ってある。台詞のないシーン——刑事が被害者の写真を見せる、その間の自分の表情。指示は、「無言で写真を見ている」。
(無言で写真を見ている)
(……それだけ、なのに)
(一番、難しい)
千影は台本を閉じた。代わりに自分のスマホを見る。マンハッタンの業務連絡のグループに柊一からの短いメモが来ていた。
『明日、豆の種類を変えます。試飲は開店一時間前に』
短い。いつも通り、短い。
千影は画面の文字を指の腹で軽く、撫でた。
「白河さん」
声をかけられた。
現場の若いスタッフ。台本を片手に抱えている。
「次の出番までまだ、時間あるけど」
「はい」
「……さっきのリハ、監督が、『この子は台詞のないシーンで目が生きてる』って言ってたよ」
千影の指がスマホの画面の上で止まった。
「……そう、ですか」
「うん。いい意味で。じゃあ、続き、よろしく」
スタッフは軽く、台本で頭の横を叩く動作をして控え室を出ていった。
千影はスマホをゆっくり、膝の上に置いた。
(台詞がない、シーンで——)
(目が生きてる)
(……マスター、か)
台本をもう一度、開く。
刑事に見せられる、被害者の写真。
その写真を見ているときの自分の顔の作り方を千影はもう、知っている。
——カウンターの外側で見ている、あの人の横顔を。
——カウンターの内側で見ている、あの人の手を。
二つを同じ目に重ねれば勝手に何かが、滲み出る、ことを。
千影は台本の自分の名前の横の余白に小さな丸をひとつ、書いた。
手応え、と呼ぶには、軽すぎる。
でも何もない、わけでは、ない、その丸を。
しばらく、見ていた。




