第二十一話 ロケ地はマンハッタン
年が明けた。
窓の外は灰色で吐く息が白い。マンハッタンの暖房が店内を穏やかに温めている。秋から冬を越え、千影がこの店で働き始めてもうすぐ、十ヶ月になる。
ドアが開いた。
——いつもと違う、革靴の音。
スーツの男が二人、入ってきて店内を見回している。
柊一がカウンターの中から目を細めた。
——客じゃ、ない。
その日の朝。
千影はいつも通り、カウンターの内側で開店前の一杯を飲んでいた。
柊一がさっき淹れてくれた一杯。
味が安定している。
しばらくブレていた味がいつの間にか、元に戻っている。いや、元より、良くなっている気がする。
(マスターの手が落ち着いた)
(「あの人」のことを想いながらも)
(コーヒーに嘘をつかない手に戻った)
(……この味が好きだ)
千影はブレンドをもう一口、飲んだ。
その直後にドアが開いた。
さっき書いたあの革靴の音の二人組。
仕立てのよいスーツ。社章のバッジ。
背の高いほうが、上着の内ポケットから名刺を取り出した。
「テレビ局の者です」
軽く頭を下げながら、名刺を柊一の前に両手で差し出す。
「こちらの店をドラマの撮影ロケ地として使わせていただきたく——」
千影のカップを棚に戻そうとしていた手が空中で止まった。
(……え)
(テレビ局)
(ドラマの撮影)
(ここで)
(ここ)
(マンハッタンで)
(——)
(「良い雰囲気の喫茶店」って鷹宮社長が言ってたの)
(ここのこと!?)
千影の心臓が一拍、飛ばした。
カウンターの中で気配を消して布巾の上にカップを置く。音を立てないように。
柊一は名刺を手に取った。
(俺の店が……テレビ、に?)
柊一の顔が一瞬、渋くなる。口の端がはっきりと下に引かれた。
「……遠慮したい」
柊一は名刺をカウンターに戻そうとした。
「お待ちください」
もう一人の小柄な方の担当者が慌てて続けた。
「撮影は一日で終わります。営業時間外に準備して日中に撮り切ります」
「……ふん」
「それと店長さんにもゲスト出演をお願いしたいんです」
「……何をするんだ」
「コーヒーカップを拭いてるだけで大丈夫です。自然体で」
柊一は名刺の表面を親指で一度、撫でた。
(……それなら、毎日、やっている)
千影はカウンターの内側で固まっていた。
(……鷹宮さん)
(「この前、バイト先、行ってみたわよ」って言ってた)
(まさか、ロケ地候補にするなんて思わないよね)
(普通はしない)
(……普通は)
担当者がにこやかに補足した。
「ドラマ『カウンターの向こう側』のロケ地としてお願いしたく。実は鷹宮プロの鷹宮社長から直々に推薦がありまして」
柊一が眉を少し上げた。
「鷹宮?」
「はい。あの——うちのタレントが世話になってる、素敵なお店がある、と。『カウンターの木目が最高。ここ以外、考えられない』と」
担当者がスマホを取り出して画面を見せた。鷹宮社長からの推薦メールの画面。
千影はカウンターの内側からその画面を横目に見た。
文面の末尾にこう書いてあった。
『P.S. コーヒーが美味しいので撮影班のケータリングもここでお願いしたいです(ハートマーク)』
千影の内心が白く、燃えた。
(鷹宮さん)
(鷹宮さん!)
(「二十四時間、演技しろ」って言った本人が)
(——私のバイト先を)
(撮影場所に推薦した)
(自分の事務所のタレントが男装で潜伏してる現場に)
(わざわざ、カメラを持ち込もうとしてる)
(……人の人生を何だと思ってるんだ、この人は)
(三:三:一で人生を割り振り)
(バイト先にカメラを送り込み)
(ケータリングにハートマーク)
(……全部、善意)
(全部、無自覚)
(全部、鷹宮、麗華)
(——もう、怒る気力もない)
千影は布巾をたたみ直した。三回たたんで一回広げてもう一回たたんだ。それ以外、体の落ち着けどころが、なかった。
(白河凛として演じることと)
(マスターの前で千影でいることと)
(……どっちが、本当の私、なんだろう)
担当者たちが、打ち合わせの日取りを提案し、書類の控えを柊一に渡して店を出た。カウベルが鳴ってドアが閉まる。店の中にしばらく、沈黙が残った。
柊一が低く、独り言のように呟いた。
「……面倒事、引き受けたな」
千影は顔を上げずに、「はい」とだけ、返した。
自分はこの店でバイトの「男の千影」として働いている。
そして「白河凛」としてドラマのヒロインを演じる。
同じ店で。
同じ柊一の前で。
(マスターの目の前で)
(白河凛として撮影する)
(あの街の女と似てると思われるかもしれない)
(……でもバイトの千影とは、繋がらないはず)
(「白河凛」と「千影」の間に読みの共通点はゼロ)
(大丈夫)
(……大丈夫、なはず)
千影はカウンターの内側で二杯目のブレンドを静かに飲み込んだ。
味はいつも通り、正直だった。
——閉店後。
千影はバックヤードの小さなロッカー室でスマホを耳に当てていた。
通話相手は鷹宮社長。
「……鷹宮さん。『カウンターの向こう側』のロケ地、マンハッタンに決まったと聞きました」
『推薦したの私よ』
鷹宮の声は悪びれる気配が一ミリもない。
『問題、あった?』
「……問題、しか、ないです」
千影は声のトーンをできるだけ、平らに保った。
「私、そこでバイトしてるんですよ。男装で。マスターにまだ、正体、バレてないんですよ」
『あら』
鷹宮の声がさらっと軽くなった。
『——でも千影ちゃん、辞めないんでしょ?』
千影が黙る。
『辞めないなら、やるしかないわよ』
『私は、「あんたが、あの店を続けたい」って気持ちごと白河凛のキャリアを組んでる。——主演の話もね』
(……主演の話も含めて組まれてる)
(鷹宮さんは、「辞めない前提」で全部、動かしてる)
(私が「両立する」って言った瞬間から)
(事務所のラインは一度も引き返してない)
電話口で人が替わる気配がした。
『千影ちゃん』
柳瀬副社長の淡々とした声。
『確認だけど。ロケ当日、白河凛としてマスターの前に立つのよ。覚悟、ある?』
「……覚悟はあります」
千影は声をかすれさせないように喉の奥を締めた。
「でも正体がバレる可能性は」
『ゼロじゃない』
柳瀬の声は事実だけを並べていた。
『——でもゼロに近づけることなら、できる。衣装・メイク・立ち位置・カメラ割り、こっちで詰める。あなたは、白河凛として立っていればいい』
「……はい」
『それと——主演の返事、そろそろよ』
千影の心臓が跳ねた。
『監督が会いたがってる。ロケ当日にマスターと顔合わせついでにあなたとも話したい、って。——場所、この店でいいわね?』
千影はロッカーの扉に額を軽く当てた。
「……はい」
電話が切れた。
千影はしばらく、ロッカー室の低い蛍光灯の下で動けなかった。
(詰んだ)
(完全に詰んだ)
(——でも詰んでるのは、私だけ)
(マスターは何も知らずに)
(カウンターの向こう側でコーヒーを淹れて)
(その隣で私が、「白河凛」として主演の話を受ける)
(……辞めるなら、今しか、ない)
(でも辞めたら、白河凛は終わる)
(マンハッタンの千影も同じくらい、終わる)
(どっちを選んでも失うなら——)
(全部、抱えたまま)
(走るしか、ない)
千影はロッカーの扉から額を離した。鏡の中でバイトの千影の顔がこちらをじっと見ていた。
目の奥に疲れた色と一緒に決意の小さな芯が入っていた。
——翌日。
マンハッタンの夕方。
カウンター端に座った律が宿題を広げながら、小さな声で千影に囁いた。
「千影さん、大丈夫ですか」
「大丈夫」
千影も小さな声で返した。
「……たぶん」
「マスター、鈍いですからね」
「鈍い人に助けられてるから文句は言えない」
千影は軽く笑った。笑いのかたちが、少しだけ、無理をしていた。
律はシャーペンのキャップを指で回しながら、視線をカウンターの内側の柊一に向けた。
(ドラマのロケ地がマンハッタン)
(千影さんのバイト先)
(千影さんは、女優)
(……やっぱり、マスターの「あの人」は)
(千影さん、なんじゃ、ないか?)
(全部の点が線になりかけてる)
(……でも今は黙るしかない)
奥のボックス席から彩音がこちらをちらりと見ていた。
律と千影の小さな距離。声の潜め方。二人だけが共有している、何か。
彩音の頭の片隅でまた「まさかね」が、小さく、鳴った。
しかし、その思考も続かなかった。ちょうど柊一が彩音の前にホットサンドを置きに来て湯気で視界が一瞬、曖昧になった。
——同じ週の別の日。
マンハッタンの昼下がり。
カウンターの奥のテーブル席に昨日と同じ、ロケハン担当者がまた来ていた。今日はスーツの上着を脱いで椅子の背にかけている。
クリアファイルから一枚の用紙を取り出す。
「劇中で使う『主人公の好物』をこちらの店で出していただきたいんです」
担当者は丁寧に頭を下げた。
「撮影でも実際に出す必要があります。脚本の設定は——『行きつけの喫茶店のマスターが作る、名前のない、サンドイッチ』」
「……」
「リアリティのために本物のマスターに作っていただけないかと」
担当者がもう一度、頭を下げた。
「予算はこちらに記載があります。締め切りは、撮影日です」
柊一は名刺と用紙を交互に見た。
(……断れる種類の依頼じゃ、ない)
(先生が応援してる監督の作品で千影が出る現場で)
(断る理由は俺にはない)
(これは、仕事の話だ)
(商談だ)
(俺はもう、一人の店主として)
(この人と向き合わないといけない)
柊一はカウンターのスツールから静かに立ち上がった。カウンターの向こう側からこちら側へ回ってロケハン担当者の向かいの席に腰を下ろした。
——千影はカウンターの内側でその動きを見ていた。
マスターがカウンターの向こう側を出て客と同じ側の椅子に座る。
初めて見る光景だった。
「……お話、伺います」
柊一の声のトーンが普段と微かに違った。少しだけ、低い。
「条件を書面でいただけますか」
「はい」
「試作は明日から始めます」
「ありがとうございます」
「撮影日までに二度、試食してもらう時間が欲しい」
「承知しました」
商談が進んでいく。
柊一が担当者の資料を指先で一枚ずつめくる。必要なところにボールペンで短く、メモを入れる。
千影はカウンターの中で布巾をたたんでいた。
たたみながら、心の中で呟いた。
(……初めて見た)
(マスターが「店主」として話してる姿を)
(この人、ちゃんと商売人の顔ができるんだ)
(……知らなかった)
千影は布巾を最後にきっちり、四つにたたんだ。
カウンターの上に置いた布巾の角がきれいな直角で並んだ。
撮影日の数日前。
試作三回分の改良ノートがカウンターの奥の棚に並んでいた。レシピの隅に柊一の字で細かなメモが書き込まれている。
『自家製、バジルソース』
『名前なし——「マンハッタン、スペシャル、サンド」』
柊一は最後の一ページを確認してファイルを閉じた。
「これを撮影で使ってください」
「ありがとうございます」
ロケハン担当者は深く、頭を下げた。
千影はカウンターの内側で自分のエプロンの紐を結び直した。
——あと数日。
ロケ当日の朝が近づいていた。
千影は結んだ紐の二重になった場所を指先で強く、押さえた。
息を吸う。
吐く。
詰んだ、という言葉は胸の底にまだ、居座ったままだった。




