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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第2部「あの人」

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20/37

第二十話 あの人の影

 冬の夜風が首筋を刺した。

 千影はマンハッタンの閉店作業を終えていつもの帰り道を歩いていた。息が白い。商店街のシャッターが一軒、また一軒と音を立てて降りていく。その音が背中を少しずつ押してくるような気がした。

 歩幅がいつもより、狭い。

 頭の中が重いと体も重くなる。

(整理しよう)

(マスターが、「あの人」と呼んでいる女)

(——私だ)

 商店街のシャッターがまた一つ、降りる。

(マスターが語る特徴)

(全部、私だ)

(笑い方、声、目、髪)

 千影の歩幅がさらに、狭くなった。

(でも、「真白千影」には、マスターのあの目は向けられない)

(男装の千影は、「信頼できる、バイト」)

(「あの人」は、「恋する、相手」)

 息が冷気に押し戻される。

(同じ人間、です)

(……同じ人間、なんです、マスター)

 鞄の中でスマホが短く震えた。

 取り出すと鷹宮社長からのLINE。

『来月から撮影本格化。週四日で現場、残り三日がマンハッタンで、OK? 柳瀬が調整済み』

 続けて柳瀬副社長からも。

『千影ちゃん、雑誌取材が一月第二週に一本入ります。衣装合わせは、来週火曜。バイトの日とは、重ねていません』

 千影は街灯の下でその二通をじっと読んだ。

(……両立、してる)

(してもらってる)

(鷹宮さんも柳瀬副社長も)

(私が「辞めない」と言った瞬間から)

(辞めないまま、走れるように)

(全部、組み直してくれた)

(……でも)

(この両立が成立してるのは)

(マスターに正体がバレてないから)

(バレたら、全部の前提が崩れる)

 千影はスマホを閉じた。

 アーケードを抜けて街灯のない住宅街に入った。夜空がぐっと近くなる気がした。



 部屋の鍵を開ける直前。

 ポケットの中でもう一度、スマホが鳴った。今度は電話だった。

『千影ちゃん?』

 柳瀬の声だった。夜の電話にしては、いつも通りの淡々とした声。

「はい」

『ドラマのロケ地の候補が出たわ。来週、ロケハンが入る予定』

「……どこですか?」

『まだ、正式じゃないから言えない。ロケハンで確定してからね』

 柳瀬は一拍、置いて続けた。

『……ただ、鷹宮が「前に行った良い雰囲気の喫茶店がある」って推してたからたぶん、喫茶店よ』

 千影の玄関の鍵に伸ばしていた手が宙で止まった。

(喫茶店)

(……鷹宮さん、「この前、アンタのバイト先、行ってみたわよ」って言ってた)

(「良い店じゃない」って)

(……まさか、マンハッタンをロケ地に推してる?)

(いや、いや)

(あの人、ただ、コーヒーを飲みに行っただけでしょ)

(ロケ地候補なんて他にもいくらでもあるし)

(……まさか、ね)

「……わかりました」

『じゃあ、詳細はまた連絡するわね』

 電話が切れた。

 千影は鍵を回した。扉の向こう側の部屋のまっさらな闇。



 自室。

 電気をつけて千影は鏡の前に立った。

 男装モードの千影。エプロンはさっき外した。前髪を上げていた整髪料を指でそっと持ち上げて額を出す。顎のラインに手を当てる。

 ——鏡の中の「男の千影」が、疲れた顔をしていた。

 目の下のわずかな影。頬の少しだけ張った緊張。

(ヒロインに抜擢された)

(宗方監督に認められた)

(嬉しい)

 千影の指が、鏡のガラスに一度、触れた。

(……でも)

(マスターが「あの人」の話をするたびに)

(私は「ああ、それ、私です」って顔に出さないように)

 唇を、軽く、噛む。

(必死で)

(毎日、隣にいるのに)

(「あの人に会いたい」って言わないでほしい)

(会ってる、から)

(毎日、会ってる、から)

 千影はスマホを開いた。

 彩音とのLINE画面。指が動いた。

 『先生、マスターに全部、話したほうが、いいですか』

 入力しきる。

 ——十秒。

 画面の文字をじっと見つめた。

 消した。

 もう一度、打ち直す。

 『先生、もう、限界かもしれません』

 ——五秒。

 また、消した。

 千影は指を止めた。息を一つ、吐く。

 画面を閉じる。

 ——初めてだった。

 「誰かに助けを求めようとしてやめた」。

 今までの千影は状況に流されるだけだった。

 今、初めて行動を起こしかけて自分の意思で止めた。

 沈黙が、受動から能動に変わった。

 両立を続けると決めたのは事務所じゃない。

 マスターの前で黙り続けるのも、誰かに押し付けられた我慢じゃない。

 ——自分が選んで引き受けた重さだ。

 千影はその違いを胸の真ん中に置いた。

 口の中で小さく、呟いた。

「……信じてたのに」

 声になる手前の息だけの言葉だった。

 その息が鏡のガラスに薄く、白い跡を作ってすぐに消えた。

 マスターの鈍さを信じろ——と自分に言い聞かせてきた日々。

 「信じろ」から「信じるしかない」へ。「信じるしかない」から「頼む、信じてくれ」へ。

 そして今夜、千影の胸の中に残った最後の形は、「信じてたのに」だった。

 力尽きた笑いのような、呟きだった。



——同じ夜の少し前。



 マンハッタン、閉店間際。

 カウンター席に彩音が一人、残っていた。常連はもう帰り、カウンターの内側には柊一と千影しかいない。

 千影が洗い物を始めている。

 彩音はコーヒーカップを両手で包んで千影の顔をさりげなく、見ていた。

 教育実習の頃から知っている教え子の目。

 何かを我慢している、目。

 でも彩音には、何を我慢しているのかが、わからない。

「千影——くん」

 彩音は小さく声をかけた。

「最近、元気?」

 千影は布巾を畳む手を止めて顔を上げた。

「大丈夫です」

 千影は微かに笑った。

「撮影が忙しくて」

「……そう」

 彩音はそれ以上、押さなかった。

(……律くんと千影ちゃんの距離を見ていると)

(『隣の窓』を思い出す)

(二人の距離がそのまんまで)

(……まさか、ね)

 彩音はコーヒーを一口、飲んだ。

 冷めていた。

 彩音はコーヒーを最後まで飲んだ。千影が洗い物に戻るまで彩音は自分のカップの中の黒い液面をじっと見ていた。



——自室、再び。



 千影は鏡の前にまだ、立っていた。

(マスターは私を男だと思ってくれた)

(それで、よかった)

(マスターは、「あの人」に恋をした)

(あの人は私だ)

(でもマスターは知らない)

(……嬉しいのにつらい)

(つらいのに嬉しい)

(この矛盾を)

(私はいつまで抱えていられる?)

 千影は鏡のガラスに指先をそっと触れた。

 冷たい。

 自分の輪郭を指先でゆっくり、なぞる。

 鏡の中の千影と鏡の外の千影。

 ——どちらが、本物か、なんてもう、わからない。

(もし、明日)

(全部、バレたら——)

(マスターはどんな顔をするんだろう)

(あの嘘を許さない人が)

(……考えるのは、やめよう)

(まだ、大丈夫)

(……まだ、大丈夫、なはず)

 指をガラスから離した。

 指紋が一瞬だけ、残ってすぐに消えた。

 千影は深く、息を吸って吐いた。

 部屋の空気がいつもより、少しだけ、薄い気がした。



 スマホが鳴った。

 LINE。柳瀬副社長から。

 『ロケ地、ほぼ確定したそうよ。詳細は明日』

 千影の手が止まった。

 画面を見つめる。

 ——「ロケ地、ほぼ確定」。

 「詳細は明日」。

 千影の指先がスマホの縁で微かに震えた。

 画面の文字を何度、読み返しても同じことしか、書いていない。

 でもその「詳細は明日」の五文字が部屋の空気を一気に薄くしていった。

(……まさか)

(まさか、ね)

(マンハッタン、なんて)

(——)

(……まだ、大丈夫、だ)

(まだ、決まってない)

(「ほぼ」が、付いてる)

(ほぼ、じゃない可能性もまだ、ある)

(……ある、はず)

 千影はスマホを胸に押し当てた。

 鏡の中の千影が同じ仕草で同じスマホを同じ胸に押し当てていた。

 窓の外で冬の風がひゅう、と長い音を立てた。

 その音が夜の隙間を横切ってどこか遠いところまで届いていく。

 千影は目を閉じた。

 ——「詳細は明日」。

 その五文字が瞼の裏に大きく、焼き付いていた。


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