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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第2部「あの人」

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第十九話 クリスマスの壁

 クリスマスイブの夜。

 マンションの廊下にささやかなイルミネーションが巻きつけられていた。電球の青白い光が非常灯の緑と交互に壁を撫でている。

 律は隣のドアの前に立っていた。

 右手にラッピングされた薄い箱。中身は毛足の長いブランケット。パステルのベージュに細い格子柄が入っているやつ。

(……一週間、悩んだ)

(色とサイズ、ぜんぶ)

(先生の部屋、寒い)

(先生、ベランダで採点中に寝落ちする)

(——「余ったから」じゃ、さすがにクリスマスイブは通用しない)

(だから、言い訳を変えた)

(でも嘘は嘘だ)

(……伝われ)

(頼むから伝わってくれ)

 インターホンを押す。

 ドアがすぐに開いた。

「瀬尾くん、奇遇——じゃない、むしろ毎日会ってるわね」

 彩音はふかふかのパーカーの袖に両手を埋めていた。今日もきちんと部屋着で玄関に出てくる。相変わらずの先生である。

「これ、母さんが、仕送りで送ってきたんですけど」

 律は箱を差し出した。声がいつもより、少しだけ、硬い。

「同じのもう一枚、持ってるんで」

「あらー、お母さん、優しいわね」

 彩音は両手で箱を受け取って蓋を開けた。中から毛足の長いブランケットを取り出して胸にぎゅっと抱きしめる。

「……ふかふか!」

「寒そうだったんで先生の部屋」

「いいの?」

「もう一枚、あるんで」

 彩音がブランケットをもう一度抱きしめた。

 ——その拍子に肩口の髪がふわりと揺れて律の肩口にほんの一瞬、触れた。

 律の心臓が止まりそうになる。

 彩音も一瞬だけ、動きが止まった。

(……髪、触れた?)

(いや、ブランケットよね)

(……肩、か)

(……なんでもない。なんでもない)

 彩音はすぐにブランケットの中に顔を埋めた。

(……やっぱり、届かなかった)

 律の内心は廊下の青白い光の下で静かにがっくりきていた。

(「余ったから」を、「母さんが送ってきた」に変えても)

(結果は同じ、だ)

(この人には、何をやっても届かない)

(三段重でも届かなかったし)

(合鍵をもらった日の僕の手の震えも見てなかったし)

(……でも)

(ブランケットを抱きしめて笑ってる先生の顔が見れたから)

(まあ、いいか)

(……よく、ないけど)



 律が玄関から踵を返しかけたそのとき。

 彩音の頭の片隅で小さく、何かが鳴った。

(……あの「まさかね」)

(何だったっけ)

(律くんが、「年上が好き」って言ったときの耳の赤さ)

(前にも一度、同じように流した気がする)

(——まだ、引っかかったまま、だ)

 しかし、その思考は続かなかった。ブランケットのふかふかが、彩音の指先から脳まで気を逸らしてしまう。

 彩音はブランケットを抱きしめたまま、ふと聞いてしまった。

「瀬尾くん、千影ち——……千影くんにクリスマスプレゼントとか、あげないの?」

 一瞬、口が滑りかけた。

 ——千影に「人前で呼ばないで」と言われていたのに。

 律は気づかない。彩音の「ち」は、「ちょっと」の言い淀みにしか、聞こえなかった。

「……なんで、ですか」

「仲、いいから」

「別にそういうのじゃ——」

 律は少しだけ、早口になった。

「大体、千影さんは、男でしょ」

 律は何気なく言った。千影の秘密を守るために。

 ——「男」と言い切った。

(先生、千影さんを「ちゃん」付けで呼ぶんだな)

(……先生は年上だし、面倒見がいいから)

(男にも、「ちゃん」って使うタイプか)

(確かに学校でもそういう先生、いるよな)

(——今、一瞬、「千影ち」って口が滑ったのも)

(慣れない呼び方に切り替えたときのミスだろう)

(先生は天然だし)

(……うん、そういう、ことだ)

 彩音はハッと我に返って手を振った。

「あ、あーそうよねー! 私、何、言ってる、だか!」

 声が少しだけ、上擦っていた。

「男の子にクリスマスプレゼントとか、変よね!」

 笑い飛ばそうとして笑い損ねた感じの笑い。

(そうだ)

(律くんは、千影ちゃんが、男だと思ってる)

(当たり前だ。バイトでは、男装してるんだから)

(……でもそうなると)

(律くんの周りに年上のお姉さんっていないわよね)

(好きなタイプは「年上」って言ってたけど)

(……誰のことだろう)

(まさか、一回り年上の私、だなんて)

(——思う、はずないし)

(……なんで今、「まさか」って思ったの私)

「じゃあ、そろそろ」

 律がお辞儀をする。

「メリークリスマス、先生」

「メリークリスマス、瀬尾くん」

 ドアが閉まる。



 彩音はブランケットを抱きしめたまま、リビングのソファに倒れ込んだ。

(……なんで千影ちゃんの名前を出したんだろう)

(律くんが、プレゼントをくれて嬉しかったのに)

(なんで——)

 答えは、出ない。

 ふと棚のブルーレイラックに目が行く。

 宗方監督の『夜明けのフォルテ』。以前、律や千影の前でドヤ顔で引用した台詞が急に耳の奥で再生された。

 ——「好きという感情は相手を見つめる時間の長さに比例する」。

(……私、あの台詞で)

(マスターの恋も、ボックス席のあの二人の恋もドヤ顔で解説してたわよね)

(全部、ドラマの受け売りで)

(……今、自分のことになったら)

(台詞が一つも出てこない)

(恋愛のプロ?)

(笑わせないで)

 彩音はブランケットに顔を埋めた。

 ふかふかの毛並みの隙間からほんのかすかに律の匂いが、する気がした。洗剤と冬の廊下の冷たい空気の混じったような匂い。

 彩音は泣いては、いなかった。泣くほど、自覚していなかった。

 ただ、何かが、ほどけ始める音を聞き逃した。



 律は自室に戻ってベランダに出た。コートを羽織って缶コーヒーを持って。

 冬の風が頬を刺す。

 隣のベランダでもう一つ、扉の開く音がした。

 仕切りの向こう側でふう、とため息の音が聞こえた。

 同じタイミングのため息。

 律は仕切りに少しだけ近づいた。

「……瀬尾くん、いる?」

「……います」

「メリークリスマス、もう一回、言っていい?」

「……どうぞ」

「メリークリスマス」

「……メリークリスマス」

 声だけの会話。

 顔は見えない。

 それが、ちょうどいい、距離。

 律は缶コーヒーの蓋を開けて一口飲んだ。仕切り越しに彩音のコートの衣擦れの音がかすかに聞こえた。

 二人ともしばらく、何も言わなかった。

 ただ、同じ夜空を別々のベランダから別々の角度で見ていた。



——同じ週の数日後。



 マンハッタン。昼下がり。

 壁に掛けられた小さな古時計の下に今週初めて置かれた黒板の札がまだ真新しい。

 女子高校生がカウンター端で勇気を振り絞って柊一に切り出していた。

「あの——この店、冬っぽい、特別なメニュー、出ませんか」

 柊一がネルから目を上げた。

「……アンタ、名前は」

「小鳥遊、ひなたです」

 柊一が一度、小さく頷いた。

「三日後、また来い」

 千影はカウンターの内側で布巾を畳みながら、軽く片方の口角を上げた。

(……四回目)

(もう、パターン、わかった)

(「名前は?」で確定)

 その三日後の昼過ぎ。

 カウンターの隅に小さな黒板が立てられていた。

 『冬の季節限定——シュトーレンとスパイスの温かい一杯』

 小鳥遊ひなたが、一口食べて目を丸くした。

「……美味しい」

 カウンター端の桐島蓮司が顔を上げた。

「俺もそれ」

 蓮司が隣の席にゆっくり移動してきた。ちょうど、小鳥遊の斜め向かいの席。目が合う。

 小鳥遊がフォークを落としそうになる。

「……あ」

「……気をつけて」

 蓮司が短く言った。

 小鳥遊の耳がしゅー、と赤くなる。

 カウンターの内側で千影は洗い物をしながら、その一部始終を見ていた。

(……マスター、「クリスマス限定」じゃなくて)

(「冬の季節限定」って書いた)

(イベントじゃなくて季節に拘る)

(この人らしい)

 柊一の内心では、別の独白が静かに動いていた。

(季節限定メニュー)

(……俺は何屋、なんだ)

 ボックス席では、高峰琴葉と相席の男子高校生が一皿のシュトーレンを二人で分け合っていた。高峰が無言でフォークを差し出す。彼が無言で食べる。

 柊一は見ていない。

 千影だけが、見ていた。

(……二人、一皿になった)

(前は二皿、だった)

(——私とマスターは)

(まだ、二杯、のままだな)

 千影はもう一度、布巾をたたんで元の位置に戻した。



——クリスマスイブの夜。



 マンハッタン、閉店後。

 カウンター席に常連はもう残っていない。店の外のストリートでは、遠くからクリスマスソングが微かに流れている。

 千影はカウンターの内側で小さなケーキを皿にのせていた。

 自分で焼いたスポンジ。生クリーム。赤い苺を一つずつ並べる。最後の一つを指先でほんの少しだけ位置を調整する。

 出来上がった一皿をカウンターの向こう側、柊一の前にそっと置いた。

「メリークリスマス」

 出てしまった。素の声で。

 咳払いもしなかった。

 柊一が千影を見た。

 千影の表情はいつもと違う。柔らかい。

 柊一は気づいたような、気づかないような、顔でケーキの皿を見た。

「……ありがとう」

「食べるか」

「はい」

 柊一の手がケーキの皿を受け取るために千影の前に差し出される。

 ——あの夜、触れなかった手。駅前のイルミネーションの下で千影の手の高さまで下りてそのまま止まったあの手。

 今日はその同じ手がケーキ皿を受け取るために同じ高さで千影の前に差し出されている。

(……同じ、手だ)

(白河凛にもバイトの私にも)

(同じ高さで来る、手)

 柊一がフォークを手に取る。

「……お前、先週は朝から顔色が悪かった」

「え」

「撮影で夜が詰まってたんだろう」

「……」

「店の仕込み、三十分、遅らせた」

「……気づいてたんですか」

「目の下を見れば分かる」

 柊一はケーキを一口、口に運んだ。

「……明日も撮影か」

「明後日から三日、です」

「そうか」

 柊一はフォークを置いた。

「……三日分の煮込み、先に仕込んでおく。戻った日は仕込みなしで店に入れ」

「……」

 千影の口から言葉がすぐには、出なかった。

(事務所のシフト表と)

(マスターの仕込みスケジュールが)

(……勝手に噛み合ってる)

(私が両立すると決めたのを)

(この人は何も言わずに支えてる)

(——言葉じゃ、なくて)

(仕込みで)

 千影は自分の分のケーキ皿をカウンターの内側から取った。

 フォークを取る。

 柊一がケーキをもう一口、口に運ぶ。

「……うまい」

「よかったです」

 千影は一口食べて目元を手の甲でさっと拭った。クリームが指についたというのが、表向きの理由だった。

 柊一は見ていなかった。

 千影はそれで、よかった。



 閉店作業を終えた後の夜道。

 千影は男装モードのまま、歩いていた。商店街のアーケードには、もう人影はほとんどない。

 指先にさっき、ケーキの上に苺を配置したときの感触がまだ、残っている気がした。

(……「メリークリスマス」って素の声で言っちゃった)

(咳払いもしないで)

(マスターは「ありがとう。食べるか」って返してくれた)

(……ちょっとだけ、嬉しい夜)

 自宅。

 鍵を開ける。

 クリスマスの街の音が扉を閉めると一気に遠くなる。



 脱衣所。

 男装モードの制服をハンガーから外す。シャツのボタンを上から一つずつ、外していく。

 胸を整えていた補正インナーを脱ぐ。腹巻き風のインナーが、ゆっくり、ゆるむ。胸を覆っていたものが、外れていく。床に落ちる、柔らかい音。

 圧迫されていた身体の輪郭が少しずつ、戻ってくる。

 前髪を上げていた整髪料を指で梳く。鏡の中でショートの地毛が額に落ちてきて男装の鋭さが、中性の輪郭に戻った。

 鏡の中の自分と一瞬だけ、目が合う。

 どちらの顔でもない顔。白河凛でもバイトの千影でも真白千影でもない顔。

 ただの仕事を終えた人の顔。

 千影は少しだけ、笑った。



 浴室。

 シャワーの湯を出す。湯気が立ち上がって鏡をゆっくり、覆っていく。

 湯が髪に落ちる。顔を伝う。鎖骨に落ちる。

 クリスマス営業の汗と残っていたメイクの微かな成分が混じって足元に流れていく。

 指先にまだ、チョコの甘い匂いが、残っている。

 湯では、流れない、匂い。

 千影は湯気の中で一度だけ、口を開いた。

「……メリークリスマス、マスター」

 浴室の誰にも届かない場所で素の声で呟く。

 シャワーの音に声は吸い込まれて消えていった。

 シャワーを止める。

 湯気の中で千影はちょっとだけ、笑ってしまった。

(……言えないこといっぱい)

(でも今夜は)

(言えたことが、ひとつだけ、ある)

(それで、十分な夜もある)

 湯気の向こう、曇った鏡の中で千影の輪郭がゆっくりと溶けてまた、うっすらと現れた。

 冬の夜はまだ、長い。


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