第十八話 触れる手前
十一月下旬、土曜日の夕方。六時前。
千影は自宅の鏡の前に立っていた。
冬に向かう重ね着。グレーのタートルネックにダークネイビーのコート。白河凛の明るめの茶髪のロングウィッグと夜用の落ち着いたメイク。昼のデートとは違う、街灯の下で映える輪郭を意識したライン。事務所の「二十四時間が本番」のルールに従って下着から全て白河凛のものに揃える。
テーブルの上に携帯が二台。白いケースが業務用、黒いケースが個人用。業務用だけを鞄に入れる。個人用は充電器に差したまま残す——デート一回目に自分で決めたルール。今日も守る。
業務用携帯の画面。昨夜の柊一のLINE。
『十八時、駅の南口で。……寒くなってきたのでコートがあると』
短い。相変わらず、短い。
(マスターは、LINEでも、「寒くなった」だけ、書く)
(……それでも気遣ってくれている)
(それが、わかってしまうから困る)
千影はコートの襟を立てて玄関のドアを閉めた。白河凛の歩幅で冬の空気の中へ出る。
駅の南口改札。柊一は十七時五十分には着いていた。
十分前行動。今回は手ぶらではなく、店で使う豆のサンプルを入れた小さな紙袋を左手に提げている——仕入れの続きに来たついでだと自分に言い訳するために持ってきたもの。
十八時ちょうど。改札の向こう側からダークネイビーのコートが見えた。千影が改札を抜けてこちらに歩いてくる。肩を少しだけすくめている。寒さのせいなのか、緊張のせいなのか、両方なのか。
「……お待たせ、しました」
「いいえ」
今日は先に口を開いたのが柊一だった。
柊一が案内したのは、仕入れ先ロースターの街の裏通りにある、小さなトラットリアだった。カウンター四席とテーブル三卓だけの店。木の扉を押すとカウンターの店主が柊一に目で会釈した。
「いつものですか」
「……今日はテーブルで」
店主の眉が一瞬だけ上がって、すぐにもとに戻った。何かを言いたそうな顔をしてからグラスをカウンターの内側に戻す。
「ごゆっくり」
短い、それだけの声。でもその短さの中に、柊一を長く見てきた人間の温度がある。
(マスター、ここでも常連なんだ)
(——「いつもの」って何なんだろう)
(あの店主、「今日はテーブル」で何かを察した顔だった)
千影は心の中で小さく呟きながら、奥のテーブル席に案内された。BGMは控えめなジャズ。メニューは手書きで銅色の金具でまとめられている。
「キノコのパスタがこの季節だけ、出るんです」
柊一がメニューを開いて指さした。
「……俺はそれを」
「私も同じで」
柊一が少しだけ視線を上げた。
「……合わせなくて大丈夫ですよ」
「……本当に食べたかったんです」
「そうですか」
柊一は短く頷いて、メニューを閉じた。
「……ここのキノコは、産地が変わるたびに俺が試食に来てます」
「え」
千影の視線がほんの少し、メニューから柊一に移る。
「マンハッタンの冬の仕込みに混ぜる用です」
「……マスター、そんなに、キノコ好き、なんですか」
千影の口元がわずかに、ゆるむ。
「好き、というか」
柊一は少しだけ目を細めた。
「……信用できる味の見本帳に、なってます」
千影が小さく、噴き出した。
声を抑えた。でも肩が一瞬だけ揺れた。
(……マスターの「キノコの見本帳」って何)
(……だめ、可笑しい)
柊一は気づかないふりをして水を一口飲んだ。だが、口元がほんの少しだけ、いつもより柔らかい。
料理が来るまでの間、柊一が水の入ったグラスに手を伸ばした。グラスの脚を親指と人差し指で挟んで残りの指を軽く添える。——カウンターでカップの取っ手を掴むときと全く同じ所作。
千影の視線が一瞬、その手で止まった。
(……同じ、だ)
(カウンターの中で見ている、あの手と同じ手だ)
(白河凛として座っているのに)
(私はマスターの手をバイトの私の目で見ている)
柊一が水を一口飲んで口を開いた。
「……最近、仕事、忙しいですか」
「少し。撮影が続いていて」
千影はナプキンを膝の上に広げながら、答える。
「——今週も三日ほど、現場に入っていました」
「そうですか」
柊一はそれだけ言って、視線を一度メニューの背表紙に落とした。
「……寒い現場ですか」
「屋外もあります」
「……賄いはちゃんと出てますか」
千影が、思わず吹いた。
「マスター、そこですか」
「そこです」
(……ぶれない人だ)
(マンハッタンの中でも外でも、結局、この人は「賄い食え」の人なんだ)
(……今週、マンハッタンは三日休ませてもらった)
(鷹宮さんが、柳瀬副社長に組ませた新しいシフト表で週の半分は撮影、残り半分でバイトに入る形)
(マスターは「お前の予定に合わせる」とは、言わない)
(ただ「休みの連絡は前日までに」とだけ、先週、メモを渡してくれた)
(その紙をまだ、鞄に入れてる)
「マスターは」
口が動いた。
——「マスターは」と言ってしまった。
でも一般名詞としての「マスター」——喫茶店の主——として使ったのか、固有の呼称として使ったのか、自分でも境界が曖昧になる。
柊一は違和感を示さなかった。
「……俺も仕入れで動いてました。今月は豆の品種を切り替える時期で」
「……そうなん、ですね」
息が静かに戻る。取り繕えたのだと思う。たぶん。
料理が来た。キノコのパスタ。湯気と秋の森の匂い。千影がフォークを取ると指先が少し冷えている。
柊一が千影の手を見た。
「……手、冷たそうですね」
「大丈夫です」
「……」
柊一は何も言わず、自分の前に置かれた熱いおしぼりを二つ折りにして千影の方にそっと押しやった。言葉ではなく。所作だけで。
千影はおしぼりを受け取って両手で包むように握った。
あたたかい。
(マスターの前だから、気が緩んでいる)
(気が緩んでいるから白河凛の輪郭がぼやけている)
(……最悪だ)
(最悪なのに、あたたかい)
(——楽しい)
(こんな夜が、自分の人生にあると、思わなかった)
千影はパスタを一口、運んだ。森の匂いが舌の上で広がる。柊一の方を見ると、彼もちょうど一口目を口に運んだところで、目が合った。
柊一が小さく頷いた。「うまい」とは言わない。「でしょう」とも言わない。ただ、満足そうに目だけが細くなった。
千影も同じように頷き返した。
(……今、二人で同じ顔を、した気がする)
少し沈黙があって柊一がフォークを止めた。
「……最近、あなたの笑い方が少し、変わった気がします」
千影の手がフォークを握ったまま、止まった。
「前より、柔らかい。——気のせい、かもしれませんが」
「……そうですか」
「はい」
それ以上、柊一は聞かなかった。
(……観察されている)
(観察されていて踏み込まれていない)
(この距離が一番、苦しい)
(——苦しい、のに)
(少しだけ、嬉しい)
柊一の内心でも言葉にならない揺れが走っていた。
(……なぜ今、これを言った)
(聞かれてもないのに)
(——いや)
(言いたかったからだ)
(この人と一緒にいるのは、悪くない)
食後、駅までの道を遠回りして歩いた。
街路樹はもう裸。葉を落とした枝が夜空に向かって細い線を引いている。息が白い。
柊一が自然に車道側を歩いた。
——「あの人」を守る側の位置取り。
千影はその数歩の差に気づいていた。
「マスターは寒いの平気なんですか」
ふたたび「マスター」。今度は意識的に一般名詞として。呼称の境界を自分でコントロールしようとする、試み。
「……慣れました」
柊一の口から白い息が出る。
「厨房の熱と仕入れの寒さの往復で」
「厨房、暑いんですか」
「夏は地獄です」
千影が小さく笑った。素の笑いが、一瞬出て慌てて抑える。
柊一は何も言わない。水のグラスを傾けている、いつもの所作のままで。
「……マスターでも、地獄、って言うんですね」
千影が思わず聞いた。
「言います」
柊一の声は変わらず低い。
「夏のキッチンに比べたら、冬の街はご褒美です」
「……ご褒美」
千影の口の中で、その言葉を一度、転がした。
マスターの口から「ご褒美」という単語が出るのが意外で、可笑しくて、少し、嬉しかった。
(……今夜、何度、笑ったろう)
(——白河凛として、笑ったのか)
(……それとも、私として、笑ったのか)
(境界が、わからなくなってる)
並木の下を二つの影が寄り添わない距離で歩く。
柊一がふと足のテンポを落とした。
「……今夜、来てくれて」
柊一は前を見たまま、続けた。
「——ありがとうございます」
千影が少しだけ、足を止めかけて、また歩き出す。
「……こちらこそ」
声が小さくなる。
「楽しかった、です」
柊一は数歩、黙って歩いた。
「……前に話しましたよね。二人で店を開くはずだったって」
千影の足が一瞬、遅れる。
「……はい」
「金を持ち逃げされたとも言いました」
「……はい」
沈黙。風が鋭い音を立てて二人の間を通り抜ける。
柊一は数歩、黙って歩いた。
「……金だけ、なら、諦めが、つくんです」
千影の横顔を街灯の橙色が照らす。
「金はまた、貯めれば済む。六年かけてそうしました」
「——諦めがつかないのは、別のことだ」
柊一はそこで止めた。「別のこと」が何か、言わない。言葉で塞ぐのではなく、沈黙で縁取るように。
(……それが、何か、わかる)
(わかってしまう)
(——嘘をつかれたことだ)
(たぶん)
(マスターは嘘が一番、許せない人だ)
(……私は今、その人に嘘をついている)
(——でも今夜は、楽しかった)
(楽しかったのに、苦しい)
(楽しいのと、苦しいのが、同じ重さで胸に乗ってる)
千影の口が動きかけた。
何か、言わなければこのまま、歩けない。
でも声にならない。
「……」
柊一が一拍置いてから短く言った。
「……重い話をしました。すみません」
「いいえ」
千影の声はかすれていた。
「……聞かせてくれてありがとう、ございます」
柊一は少しの間、黙った。
「……」
「——聞いてもらえるとは、思ってなかった」
千影の胸の中で何かが、崩れる音がした。
音の正体はわからない。わからないまま、歩く。
(この人の前でなぜ、こんなに言葉が出るんだ)
(——楽しい話じゃ、ないのに)
(楽しかった夜の、延長として、出てしまった)
(……カウンターの中の自分じゃない俺がここにいる)
(それが、怖い)
(怖いのに、嫌じゃ、ない)
柊一の中にも同じ種類の違和感が風のような形で通り抜けていた。
駅の南口改札。来たときと同じ場所。
駅前広場のイルミネーションが点灯し始めていた。青白い光が木の枝の間で規則的に点滅している。寒さが、足元からじわじわ上がってくる。
「……今日はありがとうございました」
「こちらこそ、です」
柊一が改札から半歩、下がる。コートのポケットから手を出して紙袋を持ち直す。
——イルミネーションの反射が柊一の手元で一瞬、きらめいた。
親指と人差し指で紙袋の取っ手を挟む。残りの指を軽く添える。カウンターでカップの取っ手を掴む、あの手。
千影の身体が先に反応した。
「マスター、あの——」
言ってしまった瞬間、血の気が引いた。
柊一の視線が千影に止まる。一拍。
——バイトの千影の呼称が白河凛の喉から漏れた。
柊一がゆっくりと目を瞬いた。
「……うちの店、ですか」
柊一の声は落ち着いていた。
「……よくご存知ですね」
千影の脳が高速で回転する。
「あ——友達が通ってるみたいで」
「そうですか」
柊一はそれ以上、聞かなかった。視線を自分の紙袋に戻す。
(取り繕えた)
(……ほんとうに?)
(マスターの目が一瞬だけ、止まってた)
(——あの止まった一瞬は)
(流してくれた、合図、だったのか)
(それとも、見てしまった、合図、だったのか)
柊一が手を上げかけた。
デート一回目と同じ動き。顔の高さの手振り。
——今日はその手がゆっくり、下りてきた。
千影の手の高さまで。
柊一の手が千影のコートの袖口に向かって数センチ、伸びる。
止まる。
「……」
「……また、連絡します」
「……はい」
柊一の手が小さく引かれてコートのポケットに戻った。
柊一が改札の反対側へ歩き出す。振り返らない。千影も反対方向へ歩き出した。
五歩、十歩。
千影は立ち止まって自分の手を見下ろした。
——触れられなかった手。
でも温度だけ、感じた気がした。ほんのわずかに。
「……」
千影はその手をコートのポケットに深くしまった。
電車に乗る。
窓に映る白河凛の顔。イルミネーションの光が車窓を流れていく。青、白、青、白。
千影は冷えた手をコートのポケットでゆっくり温めていた。
(マスター、あのと言ってしまった)
(「うちの店」で流してくれた)
(——でも、目が一瞬、止まった)
(見えていなかった、と信じたい)
自宅。鍵を開ける。電気をつけないまま、玄関で靴を脱ぐ。コートも脱がない。
居間。テーブル。業務用の携帯を充電器に差す。
個人用の携帯を手に取る。
彩音へのLINEを開いた。
『先生。今日、マスターって呼びかけちゃいました。ぎりぎり、流してもらえました』
送信する。
彩音からの返事はすぐに来た。
『よく戻れたね。偉い』
もう一通、すぐに続いた。
『でも千影ちゃん。その「ぎりぎり」は、何回、持つと思う?』
千影の指が画面の上で止まった。
返信を打てない。
画面の小さな文字をじっと見つめる。
数秒、数十秒。
彩音の文字は短い。短いのに重い。
千影は返信を打たずに携帯をテーブルに置いた。
そのままベッドに倒れ込む。白河凛のコートを脱がないまま。メイクも落とさないまま。
千影は自分の手を暗い天井にかざした。指の輪郭が薄く見える。
(……あの手)
(毎日、カップを差し出してくる、手と)
(——同じ、手だ)
(今日、触れかけた)
(……触れていたら、私は泣いていたと思う)
(カウンターの内側で泣くわけには、いかない)
(明日からもカップを磨く手で)
(今日のあの手を受け取り直さないといけない)
千影は手を下ろして目を閉じた。
冬の空の音が窓の外で低く響いている。
白河凛のメイクがまだ、顔に残っている。
コートを脱ぐ気力は今夜、どうしても出てこなかった。




