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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第2部「あの人」

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第十七話 あいつは化ける

 十一月のある日の昼過ぎ。

 事務所の会議室。

 柳瀬静香が固定電話の受話器をゆっくりと置いた。ネイルの先が電話機の黒い樹脂に小さな音を立てる。

 鷹宮麗華はソファに脚を組んで座り、タブレットでスケジュール表を開いていた。

「麗華さん」

 柳瀬の声はいつもの柳瀬だった。淡々としていて感情の色が薄い。

「宗方監督の事務局から。——『カウンターの向こう側』の主演。千影で決まったそうよ」

 鷹宮がタブレットから顔を上げる。指先が液晶の上で止まった。

「……三ヶ月以内、ね」

「二ヶ月と二週間。麗華さんの読み通りよ」

「読みじゃない。計算よ」

「どっちでもいいわ」

 柳瀬は薄く笑った。

「主役よ、千影が」

 鷹宮が立ち上がる。ハイヒールの踵がカーペットの上で鈍い音を立てる。窓際まで歩いてカーテンを指で少しだけ開けた。街路樹の葉はもうほとんど落ちている。ガラスに自分の顔が映る。

「……彼女、まだ、バイトを続けてる」

「ええ」

「期限が切れた」

 鷹宮は窓の外を見たまま、続けた。

「さあ、どうする」

「千影が決めるのよ」

 柳瀬がノートに何かを書き込みながら、言った。

「麗華さんでも私でもなく」

 沈黙。

 鷹宮が窓から振り返った。

「……あの子に会う。今から宗方さんのところに行く。先に一杯やるって言ってた」

「一緒に行くわ」

「あなた酒は弱いでしょう」

「仕事よ」

 柳瀬がノートを閉じる。

「酔う予定はないわ」



——同日、夜。



 都内の暗めのバー。

 ジャズが低く流れている。壁一面の棚に琥珀色の瓶が整然と並んでいる。カウンターの向こう側には白髪を短く刈り込んだ老バーテンダーが立っていて客の口元を見ずに手だけを動かしている。

 奥のテーブル席に男が一人、座っていた。

 六十代。寡黙。目が鋭い。灰色のジャケット。無造作に分けた白髪混じりの髪。テレビドラマ界の巨匠、宗方鉄哉。

 鷹宮がハイヒールを鳴らして近づく。宗方が軽く目線だけで挨拶を返した。鷹宮が向かいに座る。柳瀬は少し離れたカウンター席に腰を下ろし、ノートを開いた。

「マンハッタンを」

 宗方がバーテンダーに短く告げた。

 鷹宮が眉を上げる。

「……マンハッタン? あなたロック派でしょう」

「気分だ」

 しばらくしてカクテルが運ばれてきた。細い脚のグラスに琥珀色の液体。浮かべたチェリーがグラスの底で沈黙している。

 宗方がグラスを傾ける。最初の一口で甘さと苦みが同時に来る。

「麗華」

「はい」

「『通り雨』の編集でラッシュを何度か、見返した」

「……ほう」

「端役で出てた白河凛。——台詞は三行、画面に映るのは数秒だが、あの目が残ってる」

 鷹宮の口角がわずかに上がった。

「……やっぱり、受けてくれるのね」

「次の作品『カウンターの向こう側』。——あいつで行く」

「……宗方さんが、自分から役者を指名するなんて何年ぶり?」

「端役だった。台詞は三行。画面に映るのは数秒だ。——だが、目が死んでなかった。あの歳でカメラの前であの目ができる役者はいない」

 鷹宮がグラスの脚に指を絡める。

「……ヒロインに抜擢したい」

 宗方は短く言った。

 鷹宮がグラスを置いた。置いた音がテーブルの上で予想より大きく響いた。

「……ヒロイン、に」

「ああ」

「ヒロインってことは——女役、よね」

「当たり前だ。何を言ってる」

「——うちのイケメン女子路線は!?」

「知らん」

「男装で売り出す計画は!?」

「知らん」

「なんで女役なのよ!!」

 鷹宮がグラスを指差しながら身を乗り出す。カウンター席の柳瀬がノートの端を持ち上げて鷹宮の勢いから自分のペンを避難させた。

「俺は役者の目を見て決める」

 宗方はグラスを空けないまま、短く返した。

「目で決まるのか。性別を無視して」

「女の役でも男の役でも目が同じ種類なら、化ける」

「……」

 鷹宮が黙ってマンハッタンを一口、飲んだ。宗方と同じものを頼んでいた。甘さと苦さが、同じ一口の中に溶けている。

(……正直な顔をして全部は見せない)

(この酒、あの子に似てる)

 鷹宮がグラスをテーブルに置いた。

「……この子、今、バイトしてるのよ。喫茶店で」

「ほう」

「店の名前が——喫茶マンハッタン」

 宗方がグラスを見た。琥珀色の液体。

「……マンハッタン、か」

「良い店なのよ。私も行ったことがある。レトロでコーヒーが美味しくて。店長が寡黙で——千影が懐いてるみたいでね」

 宗方はグラスを口に含んだ。

 甘い。苦い。同時に来る。分けられない。

 グラスをテーブルに戻す。

「……マンハッタンは嘘の味がする」

「え?」

 宗方がカウンターの向こうのバーテンダーの手元を見た。

「……正直な顔をして、全部は見せない。そういう、酒だ」

 鷹宮はしばらく、自分のグラスを見た。チェリーが底で沈んでいる。

「……あの子に似てるわね」

 宗方は何も言わない。グラスを空けた。

「……受けるわ」

 鷹宮が微かに笑った。

「宗方さんの直感は外れたことがない」

 カウンター席の柳瀬がノートを閉じて立ち上がった。こつり、と踵の音が一度だけ鳴った。テーブルの横まで来て鷹宮の横に立つ。

「——だから、正統派で王道を歩かせるべきだと言ったでしょう」

 柳瀬は無表情だった。

「うるさい!」

 鷹宮がグラスを置く手に力を入れた。

「三:三:一は私が主導した決議よ!」

「社長肝いりの三:三:一決議と宗方監督の直感、どっちが、信用できると思う?」

「…………」

 鷹宮が一拍、黙った。

「……男装路線も捨てない。並行、よ、並行」

「欲張りね」

「欲張りで何が悪いの」

 宗方が黙ってバーテンダーに二杯目を頼んだ。カクテル名は言わなかった。同じものをと目で合図しただけだった。

 バーテンダーが白髪の下で微かに頷いた。



——翌朝、近く。



 千影の部屋はまだ暗かった。

 ベッドの脇で業務用の携帯が低く震えた。

 画面には「鷹宮社長」の文字。

 千影はウィッグをまだつけていない。地毛の黒髪ショート。パジャマ姿。

 電話に出た。

「はい」

『宗方監督がアンタを気に入ったわ』

 鷹宮の声は昨夜のバーの甘苦さを一片も引きずっていなかった。

『ヒロインに抜擢よ』

「……え」

『ドラマの仮タイトルは、『カウンターの向こう側』』

(端役、だったのに)

(……ヒロイン?)

(宗方鉄哉監督の?)

(……嘘、でしょ)

 千影はベッドの端に腰を落とした。

『そうそう』

 鷹宮の声が少しだけ柔らかくなった。

『この前、アンタのバイト先、行ってみたわよ』

「……え」

『良い店じゃない。コーヒーが美味しかった』

「……社長、マンハッタンに来たんですか」

『うん。たまたま、近くにいたから。店長さん、寡黙だけど、いい人ね』

(鷹宮社長がマンハッタンに)

(……いつ、来たんだろう)

(私がいない日だったのか)

(……まあ、それだけなら、問題、ない)

「……そうですか」

『返事は一晩考えて。ヒロインは生半可な仕事じゃないわ』

「はい」

 電話が切れた。

 千影は携帯を掌の上でじっと見ていた。

 カーテンの隙間から朝の光が細く入ってきていた。



 千影はその日、一日、ずっと考えていた。

 ヒロインを受ければ撮影日数が増える。マンハッタンを休む日が増える。女装モードで街に出る頻度も上がる。柊一とまた、鉢合わせるリスクも。そして鷹宮の「今すぐ、マンハッタンを辞めなさい」が、事務所サイドの当然の前提になる。

 柳瀬の宿題がここで返ってくる。

 ——役作りじゃない方の辞めたくない理由を自分で言葉にしておけ。

(三ヶ月の間、考えてた)

(考えてたのに何度も言葉にし、そこなった)

(でも今なら、わかる)

 千影は机の上のマグカップを見ていた。中身は冷めたコーヒー。インスタントじゃない。マンハッタンのブレンドを豆で分けてもらって自宅で淹れたもの。

(マスターのカウンターの中にいる時間が——)

(私が私のままで立てる、唯一の場所になってる)

(白河凛でも真白千影でも男装した千影でもない)

(——ただ、カップを持ってる手の形をしてる私)

(……それを失いたくない)

(だから、辞めない)

(ヒロインは受ける)

(バイトも続ける)

(両立、できなければ——)

(両立、できるようにする)

(怖い)

(でも——)

(宗方監督の目に止まった)

(端役の三行の台詞で、宗方鉄哉監督が直接、選んでくれた)

(これを逃したら、白河凛は一生、端役のままだ)

(マスターに、「嘘のない演技がしたい」と言った)

(あの言葉に嘘はなかった)

(……だから、受ける)

(演技で嘘をつかないために)

(もう少しだけ——マスターの前では、嘘をつく)

 翌朝、鷹宮に電話した。

「社長。ヒロイン、受けます。——それとマンハッタンのバイトは続けます。シフトを組み直してでも」

 鷹宮が一瞬、黙った。

『……柳瀬の読み通りね』

『いいわ、やってみなさい』

『ただし、撮影が始まったら、泣き言は聞かないわよ』

「はい」

 電話を切る。

 窓の外。街路樹の葉が一枚、ゆっくりと落ちていった。

 千影は椅子の背に深くもたれた。

 ——柳瀬の宿題にようやく、自分の声で答えた。



 その日の夕方。

 マンハッタンのカウンター。

 千影は男装モードでいつも通りに出勤した。前髪を整髪料で軽く上げて額を出し、補正インナーをつけ、エプロンを締める。鏡の中でバイトの千影がすっと背筋を伸ばした。

「マスター」

「なんだ」

 柊一はカウンターの内側で豆を挽いていた。ミルの音が静かに店を満たしている。

「僕、端役で出てたドラマなんですけど」

「ああ」

「……監督に気に入ってもらえて」

 千影の声が途中でわずかに揺らいだ。

「ヒロ——」

 口が止まった。

 ——ヒロイン。

 ヒロインって言ったら、「女の役?」ってなる。マスターはそこまで鈍くない。ヒロイン=女の主役。男だと思ってる私が、「ヒロインに抜擢された」って言ったら——。

 一瞬の思考。

 千影は言い換えた。

「——いや、主演に抜擢、されまして」

 言い換えた。

 今、言い換えた。「ヒロイン」を「主演」に。

 ——嘘はついていない。主演は事実だ。

 でも、「ヒロイン」を飲み込んだ。

 初めてだ。

 今まで「言ってないだけ」だった。聞かれなかったから言わなかっただけだった。

 でも今のは、違う。

 言いかけたのを止めた。

 自分の意思で。

(……今の嘘じゃ、ない)

(主演は事実だ)

(でも——)

(「言ってないだけ」と、「言い換えた」は、違う)

(わかってる)

(全然、違う)

 柊一がミルの手を一度止めた。千影の顔を見る。

「……端役から主演か」

 柊一の声はいつも通りだった。

「大したもんだ」

「……ありがとう、ございます」

 千影の声は小さかった。

 柊一は気づかなかった。——たぶん。

 千影がカウンターの中でコーヒーカップを棚に戻すとき、手が一瞬、止まった。

 棚の上に並ぶ、開店初日から使っているカップ。毎日、柊一の手が磨いている。

(……なんだろう、この感じ)

(前にも見た気がする)

(夢の中で——)

(カップが落ちる、夢)

(……気のせいだ)

 手を動かし直した。

 何かが近づいている予感だけが、指先の内側にひんやりと残っていた。



 柊一が二杯のコーヒーをカウンターの上に並べた。

 千影が自分の分を受け取る。

 そのとき、千影の中で何かがほどけた。——受けると決めたこと。バイトを続けると決めたこと。宗方鉄哉の名前。「化ける」と言われたこと。全部が胸の奥で同時に小さく光った。

 嬉しさが、先に動いた。

 体が一歩、前に出る。

 両手が柊一の胸の前まで伸びる。

 ——寸前で止まった。

 千影の両腕が宙で凍っている。柊一の少し色褪せた黒いTシャツの胸元、一〇センチ手前。

「……どうした」

 柊一が落ち着いた声で言った。

「——いえ」

「つい、すみません」

 千影は両手をゆっくり下ろした。

(危なかった)

(嬉しくて体が先に動いた)

(役作り、中)

(私は今、男だ)

(男は嬉しくても同僚に抱きつかない)

(……たぶん)

 柊一は千影の両手を視界の端で捉えていた。

(……喜びが、大きいとそうなるか)

(いや——)

(男で抱きつきかけるか?)

(……役者は感情豊か、なんだろう)

 柊一は布巾を持ち直してカウンターの上を拭いた。いつもと同じ動きで。

 千影は自分のコーヒーを一口、飲んだ。

 味が少しだけ、しょっぱいような気がした。でもそれは、千影の舌の錯覚だった。コーヒーの味は今日もいつもと同じだった。

 千影は布巾をたたんだ。たたんでからもう一度、広げてもう一度、たたみ直した。

 指先が熱かった。

 胸の奥でまだ、言い換えた「主演」の音だけが、小さく、反響していた。

 ——「言ってないだけ」から、「言い換えた」へ。

 千影の中で何かが、一段、降りた場所に落ちた。

 指先はその重さをまだ、上手く、受け止められていなかった。


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