第十六話 会いたい
秋のアーケード。
千影は駅前商店街を白河凛の歩幅で歩いていた。
今日は事務所のスケジュール上「白河凛として過ごす日」。ウィッグ、メイク、私服。鷹宮麗華の「二十四時間が本番」の方針どおり、街を歩くだけでも歩幅と視線と声のトーンを崩さないのが、白河凛という役の輪郭を保つ訓練だ。
駅前の小さなセレクトショップで淡いベージュのカーディガンを一枚買った。少し丈の長い秋物。試着室の鏡の中で「白河凛ならこれを選ぶ」と思ってレジに持って行った——というのは建前で本当は鏡の中の自分に似合っていたからほとんど反射で買ってしまった。
(……こういうとき、白河凛の仮面の奥から素が滲む)
(いい買い物だった。それだけ、ということにしよう)
紙袋を提げて店を出る。アーケードの天井から差し込む光が秋らしく少し傾いている。クレープの屋台の匂いに釣られて足が止まる。
(……役作りとしては、白河凛が甘いものを食べるシーンのために試食しておくと言い訳できる)
(男装モードの日には、絶対に選ばない)
バナナか苺かをしばらく真剣に迷って結局バナナを選んだ。生クリームたっぷりのやつ。
クレープを片手に紙袋を持ち替えながら、視界の悪い脇道を曲がった。
同じ瞬間に向こう側からも誰かが曲がってくる。
ぶつかりかけて二人とも反射的に立ち止まった。
——目の前にいた。
長身。無精ヒゲ。コーヒー豆の麻袋を両手で抱えている。距離、一歩。
千影の体が凍った。
思考より先に体が止まった。
柊一も止まる。豆の袋越しに千影の顔を見下ろす。目が合う。一秒。
「……あの日の」
柊一の声。
千影の心臓が跳ねた。
(近い)
(近すぎる)
(マスターの顔が目の前にある)
千影の指がコートの裾を握り直した。
(女の私を見てる)
(あの目だ)
(——だめだ。体が動かない)
心臓の音が耳の奥で鳴る。
(……今夜、九時。LINEで「次のデートはどこに行きたいですか」って返事する予定だった)
(その相手が昼の商店街で豆の袋を抱えて目の前に立ってる)
息が一度、詰まった。
(——白河凛)
(白河凛で応対しろ)
(LINEでやりとりしてる白河凛。マスターが「会いたい」と思ってる白河凛)
肩がゆっくり、内側に沈んでいく。
(口数が少なくて声を抑えて視線を落とす、あの白河凛)
(……体が勝手に動いてる。いい。それでいい)
(今ここで笑顔を作って「マスター!」って声をかけたら、次のバイトで詰む)
体が先に反応した。
肩が内側に入る。視線が落ちる。半歩、退く。声を抑える。
——何度も繰り返したLINEのやりとりと予定された二回目のデート前夜の自分を通してしか、もう白河凛は動けない。怯えでもなく、意識して作った仮面でもなく、繰り返しの中で身体に染み込んだ型。そこからぎりぎり搾り出すように言葉が出た。
「あ……あの時はありがとう、ございました」
「助けていただいて」
声が途切れている。震えている。
——演技だ。
全部、演技だ。
本当は嬉しくて心臓が壊れそうなのに怖がっているフリをしている。
柊一の内心では、別の動揺が鳴っていた。
(……驚かせてしまった)
(すまない)
(——この声)
(柔らかくて芯がある)
(うちのバイトに——いや)
(男で声が低い)
(……気のせいだ)
「……気にするな」
それだけ。柊一はそれ以上の言葉を飲み込んだ。一歩、下がる。自分から距離を取る。
千影に背を向ける、ことが、できない。
三秒だけ、立ち尽くす。
千影が小さく頭を下げて足早に去る。後ろ姿が商店街の人混みに溶けて消える。
柊一は豆の麻袋を抱えたまま、動けなかった。
(追わなくていい)
(LINEで毎晩、話している)
(先週、デートで二人で歩いた)
豆の麻袋を抱える腕に力が入る。
(今夜、二回目のデートの返事を打つ約束もある)
(こんな昼の商店街で豆の袋を抱えて追いすがる必要はない)
(たぶん、あの人も驚いただけだ)
柊一は息を一つ、深く吐いた。
(LINEのやりとりとも、デートの夜とも、少し違う顔だった)
(不意打ちで会うとこの人はこんなに縮こまるのか)
(——あの声)
商店街のざわめきがゆっくり、戻ってくる。
(「ありがとうございました」)
(LINEで読んでいる文字の、声だった)
(デートで聞いた声と、同じ声だった)
柊一の指が、麻袋の縁を探した。
(毎晩文字で話している相手と、先週となりを歩いた相手と、今ここで豆の袋越しに目が合った相手が——同じ一人だ)
(……当たり前だ)
(当たり前なのに、初めて、つながった気がする)
柊一は豆の袋を抱え直した。
(俺はどうかしている)
(仕入れの帰りに何を考えてるんだ)
(豆は無事だ。帰ろう)
柊一は豆の袋を抱え直してアーケードの光の中に戻っていった。
千影は商店街の角を曲がった先の細い路地に駆け込んでいた。
古い商店の裏口。ゴミ収集用のコンテナと自販機の低い唸り。人通りはない。
壁に背中をつけて膝が少しだけ震えた。
手には、まだクレープが残っている。ひと口も食べていない。生クリームが指の上でゆっくり溶け始めている。
(……演技としては、完璧だった)
(LINEで組み立てた「人見知り気味で口数が少ない白河凛」が)
(身体で勝手に完成していた)
(目を合わせない。体を引く。声を抑える)
(——意識して作った仮面じゃない)
(LINEで毎晩少しずつ積み上げてきた「白河凛の輪郭」が)
(不意打ちの昼の商店街で身体に先回りされて出てきた)
(……完璧だった)
壁に背中をつけたまま、空を見上げる。アーケードの継ぎ目から秋の青空が細長く切り取られている。
(でも——)
(あの一瞬、目を合わせたとき、嬉しかった)
(マスターがまた私を見てくれた)
(女の私を)
(怖がるフリをしながら、本当は近づきたかった)
(「ありがとうございました」じゃなくて)
(本当は、「また会えて嬉しいです」って言いたかった)
クレープの生クリームがぽつりと指の甲に垂れた。
(……皮肉だ)
(好きな人を騙す演技が一番、上手くいく)
(——「好きな人」)
(今、私、考えずにそう言った)
あの夜、助けられた雨あがりの夜。まだ名前がつかなかった引力が今、ぽたりと落ちて形になった。
(私はマスターが好きだ)
(好きで騙している)
(力を抜けって言ったのは、マスターなのに)
(マスターの前で力が抜けるから演技が自然になる)
(……最悪だ)
(最悪なのに——)
(少しだけ、嬉しかった)
千影は溶けたクリームを指で拭って路地裏のゴミ箱の上にハンカチごと置いた。クレープも結局、食べなかった。
アーケードに戻る。白河凛の歩幅に合わせ直す。
人混みに紛れる。
誰も千影を見ていない。
——同じ週のある平日。
マンハッタン、開店三十分前。
千影は今日、端役の撮影で不在。柊一が一人で豆を挽いていた。静かなミルの音。湯気の立たない朝のカウンター。
カウベルが鳴った。
顔を上げる。
開いたドアの向こうにスーツ姿の女性が立っていた。仕立ての良いジャケット、光沢のあるハイヒール、派手な赤のネイル。笑っていない目が店内をぐるりと一回り、舐めるように見る。
「ブレンドを一杯」
柊一は布巾を置いた。
「……開店前です」
「美味いと聞いたわ。座らせて」
返事を待たずに女性はカウンター席に腰を下ろした。
(……派手な客だ)
(開店前と言ったのに)
しかし「美味いと聞いたわ」の声に押しとも頼みともつかない温度があって柊一は黙って湯を沸かし直した。
豆を挽く。ネルをセットする。湯を注ぐ。
——手がほんの少しだけ、震えていた。
昨日の商店街の遭遇がまだ、指先の奥に残っている。
(集中しろ)
(このブレンドは嘘をつかない)
(今、この客の前で嘘のコーヒーを出すわけにはいかない)
一杯を出す。
女性——鷹宮麗華は湯気を一度、深く吸い込んだ。最初の一口で目が細くなる。
「……正直な味ね」
鷹宮はもう一口飲んで静かに呟いた。
「こういうの好きよ」
「……どうも」
沈黙。
鷹宮はカップを両手で包んでゆっくりともう一口。柊一はカウンターの向こうで布巾を畳み直す。
——会話は求められていない。鷹宮の目はただ静かに柊一の手元を見ていた。布巾を畳む指先がまだ少しだけ、震えていた。
(この人は何かを見ている)
(注文だけして、店も俺も観察してる)
(……知らない客に観察される筋合いはないが、追い出す理由もない)
(ブレンドの代金は払ってもらってる)
鷹宮が最後の一口を飲み干した。
カップを置く。財布を開けて札を一枚、カウンターに置く。
立ち上がってドアに向かう。
ドアノブに手をかけた瞬間、鷹宮は振り返った。
「マスター」
柊一が顔を上げる。
「コーヒーは嘘をつかないのね」
鷹宮の目が柊一の手元をもう一度、撫でるように見る。
「——あなたの手もたぶん」
「……え」
「じゃあ、またね」
カウベルが鳴った。
ドアが閉まった。
柊一は一人、カウンターの内側で立ち尽くしていた。
(「コーヒーは嘘をつかない」)
(俺の信条を初対面で言い当てた)
(……誰かから聞いたのか)
(それとも飲んだだけでわかったのか)
(……どちらにしてもこの人は)
(何かを知ってる)
豆の袋を見る。鷹宮の飲んだカップを見る。布巾で拭く。
指先の震えは、さっきより、少しだけ大きくなっていた。
商店街のアーケードを抜けてタクシー乗り場までのほんの数十メートル。
鷹宮はスマホを耳に当てていた。
「静香。千影の男、ね」
『……会ってきたの』
柳瀬副社長の声。電話口は静かだ。
「会ってきた。——千影に惚れてる。女として」
「そしてたぶん、自分が惚れてる女が毎日カウンターの中で男のふりしてる相手と同じ人間だって気づいてない」
『……そう』
「正直な味のコーヒーを出す男だった。こっちが、動揺を飲ませられて帰ってきたわ」
『……珍しいわね。麗華さんが、脱帽するの』
「脱帽じゃないわよ。現場主義の現場報告」
『でどうするの』
「決めるのは、千影よ。三ヶ月の期限、通りに」
鷹宮がタクシーに乗り込む。
街路樹の葉が窓ガラスの外を過ぎていく。ドアが閉まる。エンジン音の下で鷹宮は軽く息を吐いた。
(正直な味のコーヒー)
(あの男の手は千影が選んだ場所の手だ)
(……三ヶ月、か)
——同じ日の夕方。
マンハッタンは常連で賑わっていた。
ボックス席では、桐島蓮司がカウンター端から移動しかけている——いつもおさげの女子高校生が座る席の斜め向かい。別のボックス席では、高峰琴葉と相席の男子高校生が向かい合っていて、彼が高峰の皿から当然のようにフォークを伸ばしている。高峰はそれを黙認している。それが日常だという顔で。
カウンターの端では、佐伯が珍しくコーヒーを二つ持ってきて隣の連れの女の前に無言で一つを置いた。
「頼んでないんだけど」
「俺が頼んだ。飲まないなら、捨てる」
連れの女は砂糖を入れずに黙って一口飲んだ。
カウンターの内側で千影——今日は男装モード、撮影を終えて午後から合流した——が、気づかれない程度に片方の口角を上げた。
(……佐伯さん、あの女性がブラック派って知ってた)
(それ、言わないんだ。カッコつけるタイプ)
千影がブレンドを淹れる。柊一が隣で見ていた。
(……雑味は消えた)
(だが、まだ、何かを抑えてる)
(こいつの珈琲はまだ、正直じゃない)
柊一の指先には、今日の開店前、派手な客が自分の震えを見ていた記憶がまだ、残っている。
律がカウンター端に座って宿題を広げながら、千影と小声で何かを話していた。
千影が笑った。素の柔らかい笑い方。律もつられて笑う。
二人だけの内輪の空気。
カウンター席の端で彩音がそれを見ていた。
コーヒーカップを口に運びかけて止める。
(……私が今、この店で知ってること)
(千影ちゃんの性別)
(白河凛としての活動)
(マスターが最近よく口にする「あの人」が——たぶん、千影ちゃんだってこと)
(三つとも私はもう、気づいてる)
(気づいてるけど、マスターには言えないし、千影ちゃん本人にも言えない)
(知ってるだけで何もできない、先生)
(……それが、私の今の立ち位置)
彩音はふと律の顔を見た。
(律くん、千影ちゃんと随分仲良くなったわね)
(二人だけの秘密があるみたいな顔、してる)
(……そういえば千影ちゃん、教育実習のとき、高校三年だったから——今は二十二歳か)
(年上の女性)
(律くんの好みは、年上の——)
(……まさか、ね)
まだ確信ではない。
しかし胸の内側に小さな引っかかりが生まれる。「まさかね」と打ち消す自分に微かな違和感。
彩音はコーヒーが冷めていることに気づかなかった。
その瞬間——。
彩音がふと、何気ない一言を口にした。職員室の小さな出来事を笑い話のように。千影が声をあげて笑った。
目が細くなる。口元が少し照れたようにわずかに歪む。
——柊一の手が止まった。
豆を入れようとしていたスプーンが空中で止まったまま。
(……今の千影の笑い方)
(なんだ)
(何かに——似てる)
(……気のせいだ)
(男のバイトとあの人が似ているわけがない)
普段なら、そこで終わっていた「気のせいだ」を今日の柊一は一度だけ、反芻した。
スプーンがゆっくりとミルの上に戻った。
閉店、間際。
常連が一人、また一人と帰っていく。
残ったのは、カウンター端で宿題を広げた律とその近くでコーヒーを飲んでいる彩音だけ。千影は奥でフロアの椅子を畳んでいる。
カウンターの中で柊一が洗い物を始めた。水音が静かに響く。
柊一が彩音に切り出した。
「先生」
「……何?」
「俺は」
柊一はカップを一つ、置いた。
「仕入れの帰り道を何度か、遠回りした」
「……」
「二回、不意に会った場所をもう一度、通ってみたりもした」
「……」
「会えなかった。当たり前だ。あの人の生活が俺の仕入れルートと重なる理由はない」
律のシャーペンの先が、ノートの上で動かなくなった。
ページに小さな点が生まれる。
「LINEも、毎晩、続いている」
「デートも、一度、した」
「……」
「それでも」
「——先生」
柊一は手元の布巾を一度、置いた。
「LINEで読む文字の、声」
「デートで横を歩いていた、声」
「不意打ちで縮こまった、肩」
「三つとも、少しずつ、違う」
「……どれが、本当のあの人、なんでしょうか」
彩音が息を静かに呑んだ。
(マスター、それを、私に聞くの)
(LINEもしてる)
(デートもしてる)
彩音の指が、コーヒーカップの取っ手を強く握った。
(仕入れの帰り道まで遠回りして探した)
(それでも「本当のあの人」が知りたいって)
(私に、聞いてる)
胸の奥で空気が一度、詰まる。
(——六年間、カウンターから動かなかった人が、自分から踏み込んで)
(その先で、迷ってる)
(……三つとも、本当の千影ちゃんですけど!)
(……カウンターの中で椅子を上げてますけど! その人!)
彩音の胸の中で叫びが、一回、潰れた。声にはならない。
「……マスター」
「……」
「それは、ちょっと、私には」
「……そうか」
柊一はそれ以上、聞かなかった。
洗い物に戻る。
しかし、手の動きは、さっきより、少しだけ、ゆっくりになっていた。
律の頭の中では、特徴が一つずつ、整列し始めていた。
(髪が長い)
(目が綺麗)
(声が柔らかくてでも芯がある)
(笑い方は目が細くなって少し照れたような)
一つ。
一つ。
一つ。
——全部、千影さんだ。
一つも例外がない。全部、千影さんの女装モードに一致する。
マスターが「あの人」に会ったのは、千影さんがマンハッタンに入らない、女装モード勤務日。
(——「あの人」は、千影さんだ)
一瞬、くっきりとした確信が来た。
律のコーヒーカップを持ち上げる途中で、指先が震え始めた。
そしてすぐに思考が反転する。
(……落ち着け)
(そんなはずがない)
(千影さんは、バレないように絶対に反対口から帰ると言っていた)
(毎日、同じカウンターに立ってるのにマスターが気づかないなんてさすがにない)
(……ない、よな?)
(……出来すぎだ)
それでもコーヒーカップを持つ指先の震えは、止まらなかった。
律は小さく、呟いた。
「……この店、やばい」
宿題を広げ直す。シャーペンを構える。
しかし、問題文の字が頭に入らなかった。
彩音が律の顔をちらりと見た。
(律くんが、何か言った)
(「この店、やばい」?)
(……律くんにしては、珍しい、独り言)
(……何かに気づきかけてるのかしら)
律が視線を上げる。彩音と目が合う。
(先生)
(先生は千影さんの元担任で)
(千影さんの性別を知っているはず)
(僕も知っている)
(でもお互いにそれをまだ、交換していない)
(……この店、本当にやばい)
律は視線を逸らしてまたノートに戻った。
彩音もカップを口に運んだ。コーヒーは冷たかった。
常連が全員帰り、彩音と律も帰った。
残ったのは、柊一と千影だけ。
閉店作業。カウンターの中で柊一がカップを洗い、千影が客席側の椅子を上げ、テーブルを拭く。水音だけが、聞こえている。
——さっきの「会いたい」が、まだ、空気の中に残っていた。
(……言える)
(今なら、言える)
(店には、二人しかいない)
(マスターは、「あの人」に会いたいと言った。私に)
(——「実は私が」ってそれだけでいい)
千影は口を開いた。
「マスター、あの——」
声が出た。——出たはずだった。
でも出てきた声は低かった。作った声。男装モードの声。
体が動かない。椅子を持ち上げる腕の角度。肩の位置。全部、男の所作のまま。
柊一が振り向いた。水を止めてこっちを見ている。
「……なんだ」
黒い目。正面から。嘘のない目。
(言え)
(「実は私が——」)
(たった七文字だ)
喉が詰まった。
声を高くしようとした瞬間、体の深いところが、押し戻した。
——何ヶ月もかけてこの人の前で組み上げてきた「バイトの千影」が、骨ごと千影を固めている。役が降りない。カメラの前では、降りられる。でもこの人の前でだけ、幕が下りない。
「——なんでもないです」
出てきたのは、バイトの千影の声だった。
柊一が一瞬だけ、止まった。
手がタオルの上で動かない。
瞬き、一つ分。
すぐにまたカップを拭き始める。
「……そうか」
柊一は短く、言った。
「鍵、閉めとけ」
「……はい」
夜の商店街。
マンハッタンから二百メートルほど離れた交差点で千影は足を止めた。
深く、息を吸う。肩の力を抜く。声帯を緩める。歩幅を狭くする。
——戻った。
体が真白千影の形に戻った。あっけないほど、簡単に。
(……戻れるじゃん)
(マンハッタンから二百メートル、離れただけで)
(こんなに簡単に)
秋の夜風。街路樹の枯れ葉がアスファルトを転がっていく。
(さっき——)
(私は誰として声をかけたんだろう)
(「マスター、あの——」)
(言おうとしたのは、真白千影、だった)
(でも言った体はバイトの千影、だった)
(意識と体が別の人間みたいに動いた)
自宅のドア。
鍵を回す。電気をつけないまま、壁にもたれた。
(……「言えなかった」じゃ、ない)
(「なれなかった」だ)
(マスターの前で真白千影になれなかった)
(なろうとしたのに)
(体が許可、しなかった)
(……本当の私はどっちなんだろう)
答えは、出ない。着替える気力もない。男装モードの服のまま、ベッドに腰を下ろす。
(柳瀬副社長の宿題)
(「役作りじゃない方の理由を自分で言葉にできてる?」)
(——今日、「好きな人」と自分で言った。路地裏で)
(それは、言葉になった)
(でもマスターの前では、「なんでもないです」しか、出なかった)
(……言葉にできても声にできない)
(声にできたとしてもマスターの前では、男装の声しか、出ない)
(——柳瀬副社長。私はあなたの宿題にまだ、答えられない)
千影は両手で顔を覆った。
(——あと一ヶ月)
(鷹宮さんの区切りまでもう、残り、一ヶ月)
(それまでに、「なる」方法を見つけなきゃ)
千影の指が、男装モードのシャツの第一ボタンを掴んだ。
(真白千影としてマスターの前に立つ方法を)
(……オファーが来たら、私は白河凛として週の半分を撮影に取られる)
(マンハッタンのカウンターに立てる時間が今より、減る)
息を一度、深く吸う。
(その前に——)
(男装の千影を降ろして本当の顔でマスターに「実は私が」と言える、私にならなきゃ)
(間に合わなかったら、白河凛のまま、撮影現場に消えてカウンターから消える)
(マスターが本当の素顔を知りたいと言ってくれたあの人はどこにもいなくなる)
千影は目を閉じた。
部屋の中に聞こえるのは、壁の時計の秒針の音だけだった。
その音が一秒ずつ、期限を削っていた。




