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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第2部「あの人」

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第十五話 コインランドリー

 秋のセールの紙袋を提げて律は商店街を歩いていた。

 中身は新品のパーカー。グレーのシンプルなやつ。夏のTシャツ一枚だとそろそろ夕方の風が肌寒い。

(先生、秋物どうしてるんだろう)

(……いや、知らない。別に知らない)

 内心で三回くらい同じことを繰り返してから自分で自分に呆れる。前方に見覚えのある後ろ姿が見えた瞬間、その内心が全部どこかに吹き飛んだ。

 薄手のニット。大判の楽譜袋を大事そうに両手で抱えている彩音だ。

「あ、先生」

 声をかけると振り返った彩音の目がぱっと大きくなった。

「瀬尾くん? ……奇遇ね」

「買い物ですか」

「楽譜。来週の課題曲が切り替わるの。瀬尾くんは?」

「秋物の服」

「あら、いいわね。秋物、ちゃんと探してたの?」

(買いに来ただけです、と言えばいいのに、口が動かない)

(ない、ない。これでいい)

 二人は自然に並んで歩き出した。商店街のアーケードの下、話題は課題曲のこと部活のこと夕飯のこと。彩音の話は一貫して散漫で話題があちこちに飛ぶ。律は聞き役。たまに頷く。たまに相槌を打つ。それだけでいい。それだけで足りる。

 アーケードが途切れて住宅街に入った。並木道。マンションまで徒歩十分ほど。並木はもう葉先が色づき始めていて歩道にぽつぽつと落ち葉が散っている。

 空が暗くなっていたことに二人とも話に夢中で気づかなかった。

 ぽつ、と律の頬に冷たいものが落ちた。

「先生、雨——」

 次の瞬間、バケツをひっくり返したような豪雨。

 住宅街の片側は塀、反対側も塀。軒を貸してくれる店はない。傘を差す余裕もない。

「走ります!」

 律が一歩踏み出した。彩音が慌てて楽譜袋を胸に抱え込む。

 彩音は楽譜袋を前に回して両腕で覆うように庇った。自分の前髪はもう水が滴っているのに袋の上には一滴も当てない。

 律が半歩前を走りながら、ちらりと振り返る。

(……あ)

(あのドジで朝Tシャツ一枚で玄関開ける人が)

(走りながら、ちゃんと何かを守ってる)

 律の胸の内側で何かが温かくなった。雨の冷たさとは、別の場所で。

 並木道の先、住宅街の角にコインランドリーの白い看板が見えた。

「あそこ!」

 彩音が息を切らしながら頷く。袋は胸に抱えたまま。



 飛び込んだコインランドリーは無人だった。

 蛍光灯が白い。並んだ業務用洗濯機と乾燥機の正面に細いベンチが一つ。BGMはない。雨が屋根を叩く音だけが、薄く店内に響いている。

 二人とも髪の先から水が滴っていた。

 彩音がまず紙袋を開けて中の楽譜を確認する。順に一冊ずつ、手のひらで表面を撫でるように確認する。

 ——完全に乾いている。

「……守ったわ!」

 彩音の表情がぱあっと緩んだ。

 胸に手を当ててふう、と息を吐く。濡れた前髪を掻き上げながら、律のほうを向いて笑う。生徒を思う教師の誇らしげで無邪気な笑顔。

 律の心臓が雨とは別の理由で跳ねた。

(……この人は)

(こういうところが、好きなんだ)

(だらしないって思ってた。違う。肝心なところは、絶対に守る人だ)

 その笑顔のあと彩音が自分の格好をふと見下ろした。

 ブラウスが全身にぴったり張り付いて下着の輪郭までくっきり透けている。

「……あっ」

 小さな声。

 律の視線がつられて慌てて床に落ちる。

「先生、これ」

 律は紙袋を開けて買ったばかりのパーカーを取り出した。タグがまだ付いている。

「さっき買ったばかりなんで乾いてます」

「……いいの? 新品よ」

「先生のほうが、先です」

 彩音がパーカーを受け取る。指先が冷たい。律が差し出した手は熱い。短く触れてすぐに離れる。

「乾燥機の陰で着替えるから」

「はい」

 律は壁を向いた。ぎゅっと目を閉じる。

(見るな)

(絶対に見るな)

(……見たい)

(いや、見るな。先生だぞ。担任だぞ)

(……背を向けてるのに)

(衣擦れの音が全部、聞こえる)

 布と肌がこすれる、微かな音。腕を抜く音、袖を通す音、衣擦れの終わりに小さく息を吐く音。

 律は天井の蛍光灯を数えた。一本、二本、三本。意味のない数え方。

「替えたよ」

 振り向く。

 彩音が律のグレーのパーカーを着ていた。大きい。袖が余って手のひらが半分隠れている。裾は太ももの三分の一まで来ている。

「……大きいね、瀬尾くんの服」

 律の心臓がもう一度跳ねた。

 律は自分の濡れたシャツを脱いで隣の乾燥機に放り込む。ドラムの中でぺしゃ、と重たい音がした。

 上半身裸。

 彩音が一瞬、律のほうを見てすぐに視線を逸らした。

(……肩、広い)

(腕も——)

(……何を見てるの私は)

(生徒よ。生徒)

(ドラマだとこういう場面、もっと落ち着いてるのに)

(なんで心臓、こんなにうるさいの)

(蛍光灯のせいだ。蛍光灯が変なの)

 彩音は目を逸らして隣の乾燥機の回転ドラムを見つめた。ガラス窓に自分の顔がぼんやり映っている。顔が赤い。蛍光灯のせいだ、と自分に言い聞かせる。

 二人で乾燥機の前のベンチに並んで座った。

 律は上半身裸。彩音はパーカー一枚。

 ゴウン、ゴウン、と乾燥機のドラムが回る。その音だけが、店内を埋めている。

 他の客が来たらどうしよう、と二人とも同時に思っていたが、誰にも言わなかった。

 律が咳払いを一つして口を開いた。

「先生、さっきの楽譜袋——コンクールの課題曲、入ってました?」

「見てたの? ……うん。来年の自由曲もまだ決まってなくて」

「先生が選ぶなら、僕はどんな曲でもいいですけど」

 彩音が律を見た。

 律は乾燥機の回転ドラムを見ている。

(……この子、部活の話、してるだけなのに)

(たまにこういう言い方するのよね)

 乾燥機の音だけが、続く。

 沈黙が少し長かった。

 彩音がその沈黙を破るようにふと聞いた。

「瀬尾くんって好きな子とかいないの?」

「……いません」

「クラスで可愛いって言われてる子くらい、いるでしょ」

「……いないです」

「好みのタイプは? 年下? 同い年?」

 律は答えない。彩音はなぜか引かずに押してきた。

「しっかり者だから、年下の子の面倒、見そうよね」

 律の耳が熱くなる。

「……年下では、ないと思います」

「じゃあ、同い年? 年上?」

 律は目を逸らした。

(……答えないのも変だ)

(沈黙はむしろ答えを教える)

 観念して一番曖昧な言葉を選ぶ。

「……どちらかと言うと年上が好きかもしれないです」

 彩音の指先が、ほんの一瞬だけ、宙で迷った。

 律を見た。

 律の耳はもう真っ赤だった。

「へぇ」

 彩音の声がほんの少しだけ、上擦っていた。

「——大人っぽいのね、瀬尾くん」

 彩音はパーカーのフードを引き上げて顔を半分、隠した。なぜ隠したのか、自分でもわからない。ただ、律の「年上」という言葉がなぜか耳に残ってフードの中で頬が熱い。

(……「年上」)

(フードの中で頬が、熱い)

(蛍光灯のせいだ)

(蛍光灯が、変なの)

 乾燥機の音だけが、二人の間を埋めていた。

 律は彩音のフードから視線を外せなかった。

 彩音はフードの中で動かなかった。



 乾燥機が止まる音がした。

 彩音が乾燥機の陰で元のブラウスに着替え直す。律はまた背を向けた。

(……さっきと同じ衣擦れの音)

(今度はパーカーを脱ぐ音)

(……僕のパーカーを脱ぐ音)

(やめろ)

(考えるな)

 律もシャツに腕を通す。乾燥機の熱で生地がほんのり温かい。

 戻ってきたパーカーは彩音の体温が残っていた。そしてかすかに柔らかい髪の匂いが、袖口のあたりに移っていた。

 外に出ると雨はもう上がっていた。

 並木のアスファルトが濡れた鏡のように光を跳ね返している。

「今日のことは」

「誰にも言いません」

「特に千影——くんには」

「絶対に」

 彩音が一瞬、「ちゃん」を飲み込んだ。律は気づかない。

 彩音が笑う。律も笑う。

 律は帰ってから三日間、そのパーカーを洗えなかった。袖口の柔らかい匂いが残っているから。



——翌日。



 千影は事務所のビジュアルチェック室に呼ばれていた。

 壁一面の全身鏡の前で柳瀬副社長が櫛を動かしている。白河凛のロングウィッグを今日のオーディション用に整えている最中だ。

 柳瀬は櫛の手を止めずに横目で千影を見た。

「一ヶ月、経ったわね」

「……はい」

「——半分よ」

 千影の肩が一瞬、強張る。

 期限のことを柳瀬はいつも当然のように数えている。

「焦らなくていいわ。ただ、時間は進んでる。そのことだけ、覚えておいて」

「……はい」

 鏡の中の千影が自分の顔を見た。

 ——残り、二ヶ月。

(……あと二ヶ月で私は白河凛として主演を受けるか、降りるかを決めなきゃいけない)

(その先、マスターの隣でカップを磨く時間はあるのか)

 柳瀬が櫛を置いた。

「鏡、綺麗よ。——今日の白河凛、いいわ」

 千影は頷いた。鏡の中の白河凛が同じ角度で頷き返した。



 その日の夕方。

 マンハッタンのカウンター。

 律が学校帰りに立ち寄っていた。千影はバイトの時間。柊一はいつも通りカウンターの中でコーヒーを淹れている。

「瀬尾くん、最近どう」

「……先生と同じマンションなの知ってます?」

「知ってる。先生からLINEで聞いた」

 千影が布巾でグラスを拭きながら笑う。

「『瀬尾くんと同じマンションだったの!』ってびっくりマーク三つつきで」

 律の耳が少し熱くなる。

「先生、だらしないんですよ」

「どんなふうに?」

「朝、Tシャツ一枚で玄関開けるし、ソファで寝落ちするし、この前なんか、傘も持たずに出かけてずぶ濡れだし」

 千影が声に出して笑った。素の柔らかい笑い方。律もつられて笑う。

 千影が布巾を置いて律の顔を覗き込んだ。

「瀬尾くん、先生に差し入れしてるんでしょ?」

 律の耳がまた熱くなった。

「……」

「先生から聞いたよ。『余ったから』って」

「……余ったんです」

「余ってないでしょ、三段重」

 律が口を開きかけて閉じる。何も言い返せない。

 千影がくすりと笑う。

「笑ってごめん。——私も似たようなもんだから」

「似たようなもん?」

「嘘じゃないけど、本当でもない」

 千影がカウンターの向こうの柊一に視線をやってからまた律に戻した。

「……そういうのやめられないんだよね。三ヶ月後に全部終わるのは決まってるのに——やめたら、今すぐ、私じゃなくなる気がして」

 律は一瞬、その「三ヶ月後」の意味を掴み損ねた。聞こうとしてやめた。

(……千影さん。聞かないほうが、いい気がする)

(この人もなにか、抱えてる)

 千影の内心では、別の声が鳴っていた。

(……律くんには、言えない)

(事務所の期限のこと。オファーが来たら、ここを離れなきゃいけないこと)

(……言ったら、律くんまで巻き込む)

 律は千影の横顔を見た。

(……千影さんも)

(「嘘じゃないけど本当でもない」ことをしてるんだ)

(マスターに性別を隠してること)

(僕の「余ったから」と千影さんの「嘘はついてない」は)

(——同じ、なのかもしれない)

(千影さんは、綺麗な人だけど、そういう対象じゃない)

(理由はわかってる。俺の中には、最初から先生しかいない)

 二人はしばらく黙ってカウンターの中の柊一を見ていた。

 柊一はいつも通りの手つきでコーヒーを淹れていた。嘘のない手だ。湯の線、豆の量、抽出の秒数。全部、同じ。

 けれど、ふと手が一瞬、止まる。

 誰も気づかない程度のほんの一瞬。

(……聞かない方がいい)

(先生は困ってた。あの困り方はただの「知らない」じゃなかった)

(……だが、忘れられないのは、俺の問題だ)

 柊一は質問を飲み込んだ。

 ネルを持ち直して最後の一滴を落とす。



 奥のテーブル席から彩音がそれを見ていた。

 律が千影と笑い合っている。律の声がいつもより柔らかい。千影の笑い方が素に近い。

(律くん、千影ちゃんとずいぶん仲良くなったわね)

(年も近いし、男同士の兄弟みたいな感じ、かしら)

(……千影ちゃんが、男の子と自然に話せてるのは、良いことだわ)

 彩音はコーヒーを一口飲んで小さく頷いた。

 カウンターの向こうで律と千影が並んで柊一の手元を見ている。男子高校生と男装の従業員。外から見れば歳の近い男友達にしか見えない。

 彩音はそれを疑わない。疑う材料がまだない。

 窓の外では、夕方の日差しが、昨日の雨の名残を濡れた道路から乾かしつつあった。



 カウンター席の隅で常連の男が片手を上げた。

「マスター、カレーないんすか」

 柊一は目線を動かさず、布巾を畳む手も止めず、短く返した。

「ない」

「あー、そっすか」

 常連の男はカップを置いて立ち上がろうとした。

「……アンタ」

 柊一の声が止めた。

「え?」

「名前は」

「え? ……佐伯遼ですけど」

「……三日後、また来い」

 佐伯は肩をすくめて座り直した。隣の連れがコーヒーカップを傾けながら呟く。

「私は頼んでないわよ、カレー」

 その三日後。

 カウンターの上に本格的なスパイスカレーの皿が二つ並んでいた。一つは佐伯の前。もう一つは隣の連れの前。

 連れが佐伯の皿からスプーンでひと口、つまみ食いしている。

「……あなた自分の皿があるでしょう」

「味が違う気がするんだよ、なんか」

「同じよ」

「いや、違う」

 千影はカウンターの内側で布巾を畳みながらそれをちらりと見ていた。

(また、三日後)

(パターン、もうわかった)

(ナポリタン、オムライス、次はカレー)

(……この店が好きな理由がまた一つ、増えた気がする)

 連れが改めて自分の皿を受け取って軽く会釈した。佐伯はほっと息をついた。千影がくすりと笑って布巾を畳み直す。

 柊一はドリップポットをコンロに戻しながら、ふと指の力を抜いた。

(……この店は最初からこうだったか)

(……いや)

(変わったのは——あいつが、来てからだ)

 「あいつ」が誰のことか、柊一は自覚していない。

 カウンターの内側で千影が布巾をたたんでカップを一つ磨き始めた。磨く手の動きが、普段よりほんの少しだけ、柔らかい。

 柊一はその手元を視界の端で捉えて——そのまま、視線を戻した。

 ネルの最後の一滴がぽつり、と落ちる音がした。


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