第十四話 秋色の午後
土曜日の朝、九時。
鏡の前に知らない女が立っていた。
明るめの茶髪のロングウィッグ。眉山をほんの少しだけ長く描いて口紅は淡いコーラル。淡いベージュのカーディガンと秋らしいミモレ丈のワンピース。足元はベージュのパンプス。このデートのために新調した組み合わせで鷹宮社長の「二十四時間が本番」の教えに律儀に従って靴の踵の高さまで白河凛のものに揃えてある。
千影は鏡に向かって小さく息を吐いた。
(……地毛ショートの黒髪とこのロングの茶髪)
(どっちが本物かなんてもうよくわからない)
(でも今日はこっちが本物。白河凛だけが、今日のマスターに会える)
テーブルの上には携帯が二台、行儀よく並んでいた。白いケースが業務用、黒いケースが個人用。デートに持っていくのは白いほうだけ——これは昨日の閉店後、彩音と二人で取り決めたルールだった。
「白河凛の番号は白河凛のもの。真白千影の番号は家に置いていくの」
先生の声が今朝は妙にはっきりと頭の中で再生される。
(ルールを決めた人間のほうが、ルールに縛られる)
(先生、本当にあなたの言う通りだ)
白いケースの画面を開く。昨夜届いたLINE。
『明日の十時、駅の南口改札で。待ってます』
短い。柊一らしい。
(……マスターは、LINEでも敬語なんだ)
(カウンターの中では私が敬語でマスターはタメ口なのに。立場が逆。いや、違う。私が白河凛だからだ。マスターは「あの日の女性」に対して敬語なんだ)
携帯を鞄に入れる。姿見の前で最後にもう一度、輪郭を確認した。撮影前と同じ手順。両手でワンピースの裾を押さえて呼吸を整える。
(白河凛の歩幅で出る)
玄関のドアを閉める音が部屋の中にまだ一人、誰か残してきたような、そんな余韻を作った。
駅の南口改札。
柊一は九時五十分には着いていた。十分前行動が身についている。開店前の仕込みで分刻みに動く体になってもう六年になる。休日もその体内時計は変わらない。
改札を出入りする人の流れをカウンターの向こう側から客を眺めるのと同じ姿勢で見ている。手持ち無沙汰だ。コーヒーを淹れる手がない。何も持っていない自分の手のひらを一度見下ろした。袖を一度まくって戻す。またまくってまた戻す。
(……六年ぶりか。誰かと待ち合わせて街を歩くなんて)
(どんな顔で立ってればいいんだ、こういうとき)
十時ちょうど。
改札の向こう側から淡いベージュの後ろ姿が見えた。
柊一の視線が止まる。
ゆっくりとこちらに歩いてくる女性。歩幅が小さい。視線が少し落ちている。肩の力が抜けているようで抜けきってはいない。——商店街の人混みで一度だけ見たあの人と同じ人だ。疑う余地がない。
三メートル。二メートル。一メートル。
「……お待たせ、しました」
小さな声。
「……いえ」
柊一の返事も小さい。
二人とも次の言葉が続かない。柊一が半歩、自然に後ろへ引いた。相手の領域に踏み込まない距離——カウンターの中で客との距離を測り続けてきた男の反射のような動き。
千影が内心でほっと息をつく。
(……近すぎないマスターはいつものマスターだ)
(距離が同じなら、たぶん、息は吸える)
「美術館、ここから歩いて十分です。……行きますか」
「はい」
並んで歩き始める。アスファルトの上で二つの影が少しだけ離れたまま伸びた。秋の光が影の端に細い縁取りをつけていた。
市立美術館は駅から緩い坂を登ったところにあった。
柊一が選んだ場所だ。コーヒー豆の仕入れ先のロースターがこの街にあって月に一度、豆の選別のために通う。その帰りに何度か覗いた常設展。LINEで千影に送ってきた紹介文はこれだけだった。
『派手じゃないけど、静かな絵が多い。よかったら』
(マスターの「よかったら」は、たぶん「来てほしい」だ)
(……翻訳癖、やめよう。今日は素直に受け取る)
音のない廊下。足音が響かないように二人とも自然に歩幅を落とす。柊一の足運びは、開店前の床磨きのときと同じ——音を立てないことが身についている。
最初の一枚の前で二人とも立ち止まった。
小さな油絵。秋の田舎道。色が抑えめで光の入り方が柔らかい。千影は少し長く見つめた。
「……どう、ですか」
柊一の声。
「……好きです、この絵」
「どこが」
唐突な質問だった。
千影が一瞬、絵を見直す。——白河凛なら、「光の入り方が柔らかくて」くらいで言葉を止める。口数が少ない大人の女性。そう設計されている。そう、演じている。
なのに口が勝手に動いた。
「空の色が……朝じゃなくて昼でもなくて夕方の少し前の……なんて呼ぶんでしょう、この時間。たぶん、撮影だと一番難しい時間です。ライトの色温度が合わない」
言ってからしまったと思う。
白河凛は映像の仕事について自分から話さない——そのルールを一枚目の絵で破ってしまった。
柊一が視線を絵から千影へわずかに移した。
でも何も聞かなかった。
「……撮影、するんですか」
「……少しだけ」
「そうですか」
それ以上、追わなかった。千影は黙って絵に視線を戻す。
(……聞かれなかった)
(聞いてもおかしくない流れだったのに聞かれなかった)
(マスターは聞かない人だ。知ってた。知ってたのに少しだけ、寂しい)
(……聞かれたら話したかったのか、私は。この気持ちの名前は知らない)
柊一の視線は絵のほうに向いているように見えて半分は隣の人の手元のほうに向いていた。
(仕事のこと聞けばよかったか)
(いや、先生が言ってた。「本人が話したい範囲で」——踏み込むな)
(踏み込まない距離を守れ。それが、この人を守る方法だ)
二枚目へ進む。静物画。白い布の上に林檎と水差し。
柊一がぼそりと短く呟いた。
「……この林檎、うまそうですね」
千影が思わず素の声で笑った。
「ふっ」——というだけの小さな、一瞬。
慌てて口元を引き締める。白河凛の笑い方じゃない。ちょっとだけ、地毛の黒髪ショートのあの千影の笑い方が混ざってしまった。
柊一はちらっと横を見た。
でも何も言わなかった。ただ柊一の口元もほんのひと筋、緩んでいた。
(……今の笑い方)
(どこかで——いや、いい。気のせいだ)
(この人の素の笑顔を初めて見た)
千影は次の絵に視線を移しながら、心の中で小さく深呼吸した。
(素が出た)
(……いいのかな、これで。白河凛のまま、でも少しずつ、素が混じっていいのかな)
(マスターが笑ってくれた。ほんの少しだけ。それで、足りる)
美術館を出ると日は少し傾いていた。
柊一が案内したのは、マンハッタンではない別の喫茶店だった。仕入れ先のロースターの近く、路地を一本入ったところ。古いカウベルが掛かった木の扉に小さく「はなれ」と書かれた看板。
カランと鳴る。店内は暗め。BGMは流れていない。テーブルは四つだけ。カウンターの奥に白髪の店主が立っていて柊一と目で軽く挨拶を交わした。言葉はない。視線だけで「いつもの」が通る。
奥のテーブル席に案内される。千影が向かい側に座り、鞄を膝の上に置いた。
「……コーヒーを二つ」
柊一が短く頼む。
(……マスターの「行きつけ」に連れてきてもらった)
(初めてだ。カウンターの向こう側にいるマスターじゃなくてカウンターのこっち側に座ったマスターを隣で見てる)
(なんだろう。少しだけ——背中が丸い)
コーヒーが運ばれてくる。深い色。千影が一口飲んで口を開いた。
「……うちのブレンドと違いますね」
言ってから口元に手をやる。「うちの」と言ってしまった。
——白河凛の言葉じゃない。
でも柊一は違和感を示さなかった。喫茶店の話が出ると客でも「うちの」「あそこの」と言うことはある。柊一はそう流してくれたらしい。たぶん。
「違う。深煎り寄りだ。俺は中煎り派だから、違うベクトルの旨さを勉強しに来る」
柊一の語尾がマンハッタンでカウンターに立っているときのそれに戻った。コーヒーの話になると柊一は少しだけ饒舌になる。千影が一番よく知っている、マスターの「コーヒーを語る声」。
千影の肩の力がほんの少しだけ抜けた。
しばらく、沈黙が流れた。心地よい沈黙。路地裏の窓から秋の光が柔らかく差し込んでくる。
柊一が二口目のコーヒーを置いてぽつりと呟いた。
「……うちの店を開いたのは、六年前だ」
千影が顔を上げる。
「——最初、二人で開くはずだった」
「……二人で」
「ああ。大学の頃からずっと話してた奴だ。あいつが経営、俺が豆。資金も物件もほぼ決まってた」
沈黙。
「……『ちょっと急用で』って消えた。それきりだ」
千影の手がコーヒーカップを持ったまま、止まった。
「金を貯め直して一人で開いた。——それだけの話です」
柊一がカップを置く。磁器の縁がテーブルに小さな音を立てた。
(……なぜ今、これを話した)
(聞かれてもないのに)
(……この人の目が聞いてたからだ)
「……大事な場所、なんですね」
千影の声がほんの少しだけ震えた。白河凛の声の上に真白千影の声が薄く重なる。
「……そうですね」
柊一がカップの縁を親指の腹でなぞる。
「一人でやるのは、割に合わない。でも割に合わないほうがマシだと思った」
「マシ」の先にある痛みを千影はすぐに察した。
でも聞けなかった。——聞くのは、白河凛の線を越える。
沈黙。
窓の外。路地裏の石畳に夕方の前のあの名前のない時間の光が落ちている。
(マスターが自分から話してくれた)
(LINEでも話さなかったこと)
(私は嬉しい。白河凛としても真白千影としても嬉しい)
(嬉しくて——なのになんでこんなに胸が痛いんだろう)
(……あの人は信じた相手に嘘をつかれた人だ)
(今、私はそのマスターに——)
続きが、心の中でも言葉にならなかった。
カウンターの店主が千影の前にもう一杯のコーヒーを置いた。千影は頼んでいない。柊一が目で合図したらしい。
「……温まるほうがいい」
柊一がそれだけ言った。
夕方。
駅の南口。来たときと同じ場所。人の流れも来たときとほぼ同じ。
「……今日はありがとうございました」
柊一が頭を軽く下げる。
「こちらこそ、です」
千影も頭を下げた。
柊一が半歩下がる。手が一度、千影の肩の高さまで上がりかけて——そのまま止まって下りた。触れなかった。
「……また、連絡します」
「……はい」
柊一が改札の反対側へ歩き出す。振り返らない。千影も反対方向へ歩き出した。
五歩、十歩。
千影が立ち止まってほんの少しだけ振り返った。
柊一の背中が人混みに消える、その直前。
「……」
何か、言いかけて飲み込む。
(——ここで呼び止めたら、全部、崩れる)
そのまま、踵を返す。白河凛の歩幅で改札に向かう。
電車の窓に白河凛の顔が映っていた。
茶髪のロングウィッグ。淡いコーラルの口紅。撮影帰りと同じ顔。違うのは、撮影カメラの代わりにガラスに映っているだけというところ。
夕方の乗客は少ない。誰も千影を見ていない。
千影は膝の上に置いた鞄の持ち手をぎゅっと握った。
(……楽しかった)
(——楽しかったのが、一番つらい)
(あと二ヶ月半。鷹宮さんの区切りまで)
(その先、この時間はあるのか)
(主演オファーが来たら、白河凛は「週の半分は撮影、残りは番宣」になる。マスターの隣でカップを磨く時間はどこにある?)
(……今日の秋の光もこの静かな帰り道も、「あと何回」で数えられるものに変わってしまった)
最寄り駅で降りる。自宅までの道を白河凛の歩幅で歩いた。
鍵を開ける。誰もいない部屋。電気をつけないまま、玄関で靴を脱ぐ。
居間。テーブル。
白い業務用携帯を充電器に差す。
黒い個人用携帯を手に取った。
彩音へのLINE画面を開く。
『先生。今日、お会いできました。静かなデートでした。マスターはやっぱり聞かない人でした』
指先が送信ボタンの上で迷う。
——この話を誰かにしたい自分と誰にもしたくない自分が同じ指先で争っている。
押した。
返事はすぐに来た。
『お疲れ様。よく頑張ったね』
彩音の文字はいつも短くて優しい。
千影はベッドに倒れ込んだ。ワンピースのまま。白河凛のまま。着替える気力がない。
(マスターが六年前の話をしてくれた)
(私は白河凛として聞いた)
(明日からマンハッタンに戻ればまた男装の千影としてマスターの隣でカップを磨く)
(……そのとき私は今日の話を聞いていない顔をしなければならない)
(聞いていない顔で聞いた内容を知っている)
目を閉じる。
白河凛のメイクがまだ顔に残ったままだ。
天井の暗さが、瞼の裏の暗さとゆっくり重なっていった。




