第十三話 あの人は誰だ
九月のある日の午前。
事務所の会議室。
窓の外で街路樹の葉がいちばん端の数枚からほんのわずかに色を変え始めていた。
鷹宮麗華は窓際に立って片手にスマホを持ったまま、画面を斜めから見ていた。柳瀬静香は長机に肘をついて万年筆でメモを取っている。
ドアがノックされた。
「失礼します」
千影が男装モードの低い声で応えながら、入ってきた。
「真白さん、座って」
千影が長机の手前に腰を下ろした。
鷹宮はスマホを机の上に伏せて千影の正面に回り込んだ。
「——主演、来てるわよ」
「……主演?」
「宗方さんの次回作。『カウンターの向こう側』」
千影の視線が半拍だけ、宙に浮いた。
「『通り雨』の端役であなた出てたでしょう。あれを宗方さんが見てらして。次作の主演候補に挙げてる」
「……」
「正式オファーはまだ。でも近いわよ」
千影は椅子の上で背筋を半分だけ、曲げた。膝の上で組んでいた指の力が無意識に強くなった。
(主演)
(……主演)
(頭の中がぐらぐらする)
(端役で出させてもらったことも信じられなかったのに)
(次は主演?)
(……いや、候補。まだ、候補だ)
(落ち着け)
鷹宮は机の角に軽く片手を置いた。
「現実の話をするわ」
「……はい」
「主演が決まれば週の半分は撮影。残りは、番宣・雑誌・打ち合わせ。マンハッタンのバイトを続ける時間的余地は物理的に薄くなる」
千影の息が半分、止まった。
「辞めろ、とは、言わないわ。それを決めるのは、あなたよ」
鷹宮の声は低く、けれど、押しつけるところが、何もなかった。
「ただ——オファーが来た瞬間に流されたくないなら、今のうちに、『なぜ続けるのか』を自分の言葉で持っておきなさい」
「……」
「持っていなければどっちに転んでも後悔するわよ」
「……はい」
「それとあなたは、一人で抱える癖がある」
鷹宮は机の上のスマホを軽く指の腹で撫でた。
「主演のプレッシャーとバイトを両方背負って潰れる前にこっちが、段取りを組んでおく必要がある。業界ってそういうものよ」
柳瀬が万年筆の蓋をぱちんと閉じた。
「じゃあ、期限を切りましょう」
柳瀬はレンズの奥から千影をまっすぐ見た。
「三ヶ月」
鷹宮が首だけ、半分、柳瀬のほうへ向けた。
「——三ヶ月」
「三ヶ月の間に宗方さんから正式オファーが来たら、その時点で真白さん本人に判断させる。辞めるか、続けるか。来なかったら、この話は一度白紙。オファーが来るまでは、現状維持で来たときに動く」
鷹宮はしばらく、柳瀬の眼鏡の縁を目だけで見ていた。それから軽く、頷いた。
「——それで、いい。段取りとしては、綺麗ね」
柳瀬は千影に視線を戻した。
「真白さん、それで、いい?」
「……はい」
(三ヶ月)
(……猶予をもらった)
(でもこれは、猶予じゃない)
(三ヶ月後には、どっちかを選ばなきゃいけない日が来る、ってことだ)
鷹宮のスマホが机の上で短く、震えた。鷹宮はそれを取って画面を見た。
「——ちょっと出るわ」
鷹宮は長机を回って廊下のほうへ消えた。会議室には、千影と柳瀬だけが、残った。
柳瀬はファイルを片づけてゆっくり立ち上がった。
「真白さん。エレベーターまで送るわ」
「……はい」
廊下。
エレベーターのインジケーターの光が柳瀬の眼鏡のレンズに薄く映り込んでいた。二人きり。
「千影」
——「真白さん」では、なかった。
千影はほんの一拍、顔を上げた。
「……はい」
「ひとつだけ、聞いていい?」
「……はい」
「マンハッタンを辞めたくない理由——」
柳瀬の声は低く、けれど、責めるところが、無かった。事実を確認するときのいつもの抑揚。
「『役作り』じゃ、ない方の理由をあなたは、自分で言葉にできてる?」
千影は黙った。
エレベーターのインジケーターが上の階で止まっていた。
「答えなくていいわ」
柳瀬は千影の沈黙を最後まで待たなかった。
「ただ、三ヶ月の間に自分で言葉にしておきなさい」
「……」
「正式オファーが来たとき、あなたが、選ぶのよ。麗華さんでも私でもなく、あなたが」
エレベーターが到着した。
千影が乗り込む。扉がゆっくり、閉まる。柳瀬は廊下にしばらく、立ったまま、動かなかった。
扉の隙間が最後に閉じる、その一瞬で千影は柳瀬と目を合わせた。柳瀬はほんの少しだけ、唇の端を引いていた。
(自分で言葉にする)
(……役作りじゃ、ない方の理由)
(——わかってる)
(わかってるけど、まだ、名前がついてない)
(ついてないのに柳瀬副社長には、もう、見えてる)
同じ日の夕方。
マンハッタン。
彩音はいつものカウンターの席に座っていた。
ボックス席では、高峰と相席の男子高校生がいつもの席に向かい合って座っていた。高峰がスマホで彼に何かの動画を見せている。カウンターの離れた席では、いつもの口喧嘩のカップルが今日も何かの細かい話で低い声の応酬を続けていた。
いつものマンハッタンの夕方の風景。
柊一が彩音の前にブレンドのカップをいつもの角度で置いた。
「ありがとう」
彩音は両手でカップを包んで口元に運んだ。
一口。
舌の上で苦味がゆっくり、ほどけていく。
——彩音は半拍だけ、口の中の温度を止めた。
(……ん?)
(今日のブレンド、いつもと違う)
(柔らかい——というか、甘い?)
(マスターのブレンドって、「潔い苦さ」が、持ち味なのに)
(……何か、あったの?)
彩音はカップをソーサーの上に軽く戻した。
マンハッタンに通い始めて二年。常連の舌はごまかせなかった。
彩音はカウンターの中の柊一の手元を目だけで追った。
柊一はもう一杯のブレンドを淹れている。湯を注いでいる、その指の角度。湯の落ちる、タイミング。
——微かにズレていた。
いつもより、半拍。湯がネルに当たる時間がほんの少しだけ、早い。
この人の手がブレるのを見たことが、なかった。通い始めてから今日まで一度も。
「マスター」
「ああ」
「今日のブレンド……いつもと違う?」
——柊一の指が、空中で一拍、迷った。
ネルの上で湯のポットの傾きが、半秒だけ、固まった。それからまた、注ぎ始めた。
「……」
「マスター?」
「気のせいだ」
柊一は顔を上げなかった。
数分後。
柊一は淹れ終わったカップを別の客の前に置いて戻ってきた。布を取って別のカップを磨き始めた。
それからふっと彩音のほうを見た。
「……先生」
「はい」
「あの人は誰だ」
「……」
「連絡先を、教えてくれないか」
彩音はカップを口元に持っていく途中で止めた。
半秒、口の中でコーヒーを飲み込めなくなりかけて必死に喉のほうへ押し込んだ。
(——来た)
(来ると思った)
(この目はまずい)
(本気の目だ)
(千影ちゃんのこと聞いてる)
(……で私はどうするの)
(嘘は——つけない)
(つく気もない)
(マスターの前で嘘はだめ)
(絶対にだめ)
彩音はカップをソーサーに戻した。
「……マスター、連絡先、って」
「あのあと、無事だったか、気になる」
柊一は布を持ったまま、半歩、カウンターの内側で彩音のほうを向いた。
「店に一度、来てもらえれば、それでいい」
「…………」
彩音は口を半分、閉じた。
嘘嫌いのマスターに嘘はつけない。だけど、「はい、これ」と千影の個人のLINEを勝手に出すわけには、いかない。『あの人』は白河凛——女優の顔だ。事務所経由の窓口があるかもしれない。それでも、本人に確認もせずに勝手に動くのは、違う。
「教えない」と言い切ってしまえばこの目はたぶん、これで引き下がる。けれど、それは、千影に確認もせずに自分が勝手に決めることになる。
「……ちょっと待ってくれる?」
彩音は自分の声をできるだけ、いつものぼーっとした先生の声に近づけて口を開いた。
「本人に確認するわ」
「……」
「勝手に渡せないの。ごめんなさい」
柊一はしばらく、彩音の顔を見ていた。それから軽く、頷いた。
「……ああ」
それ以上、押さなかった。
布を取り直してまた、カップを磨き始めた。
(先生が「本人に確認する」と言った)
(嘘じゃ、ない)
(連絡先というのは、本人のものだ)
(本人がだめだと言えばそれで、終いだ)
柊一はそれ以上、深追いしなかった。
(……嘘、つかずに済んだ)
(でも、「確認する」って言った以上、本当に確認しないといけない)
(千影ちゃんに)
(——今日、閉店後に話す)
彩音はぬるくなったコーヒーの残りをもう一口、飲み込んだ。
カウンターの内側で千影は空になったグラスを布で磨いていた。背中越しの会話を聴いていないふりをして磨いていた。
(……「本人に確認する」)
(私だ)
(先生、ありがとう)
(嘘をつかずに選ぶ側に回してくれた)
(——昨日の夜、シャワーで決めたはずだった)
(でもいざ、マスターの声で「連絡先」って言われると心臓が落ち着かない)
(……落ち着け)
(選ぶのは、私だ)
千影はグラスの底を布の角でぐっと軽く、押した。
閉店後。
柊一が「豆屋に寄って帰る」と勝手口から出ていった。
店内の照明が半分だけ、落とされていた。ボックス席の椅子はすでにテーブルの上に上げられてカウンターの布巾はシンクの縁に畳んで掛けてある。
千影はエプロンを外さないまま、カウンターの内側に立ったまま、カップを布で磨いていた。
彩音はいつもの席の隣のもう一つ手前の席に座っていた。
「……千影ちゃん」
「はい」
「マスター、本気で連絡先、聞いてきた」
「……はい」
「『あのあと、無事だったか気になる』って」
「……」
「『店に一度、来てもらえれば、それでいい』、って」
「……はい」
「どうする? 私は、『本人に確認する』って言った。嘘はついてない」
彩音はカウンターの天板を指の腹で一度、軽く撫でた。
「でもここで、『教えない』ってなったら、マスターの目はたぶん、これ以上、深追いは、しない。——それでいいなら、明日、私からそう、伝える」
——千影の手が一瞬だけ、止まった。
磨き布がカップの縁の同じ場所を三回、なぞった。
(……教えない)
(それが、一番、安全)
(マスターも納得する)
(私もカウンターの中で今まで通り、過ごせる)
(……でも)
千影は布の動きを止めた。
「……先生」
「うん」
「個人のLINEは、無理です」
「そうよね」
「……でも」
千影は布をカウンターの天板にゆっくりと置いた。
「業務用の方——白河凛の事務所経由のLINE IDなら、どうでしょうか」
彩音がぱっと顔を上げた。
「……」
「あれは、公的な、連絡先です」
千影の声は低かった。男装モードの「俺」の声でもない、たぶん、ほんとうに選んでいる人間の抑えた声。
「事務所を通せば誰でも知ってる、LINE ID。マスターが、『あの人』に連絡を取るために使うなら、おかしくないです」
「……」
「女優としての白河凛宛に連絡が来る——それは、普通のことだから」
「千影ちゃん」
「マスターに——」
千影は息を丹田まで一度、落とした。
「一度だけ、繋がっておきたいんです」
「……」
「連絡を受け取るのは、『あの人』で。……真白千影、じゃ、なく」
彩音はカウンターの縁に両手をついてしばらく、千影の表情を見ていた。
(……この子、昨日の夜、どこかでもう、決めてきてる)
(私に相談するために持ち帰ってるんじゃ、ない)
(私を使って、「選んだ」形を整えようとしてる)
(……いい子、すぎる)
彩音はふっと息を吐いた。
「……わかった」
「……はい」
「明日、マスターに業務用のLINE IDを伝える」
「お願いします」
千影はエプロンのポケットからスマホを取り出して、白河凛名義のLINEのIDが表示された画面を彩音のほうへ差し出した。
彩音は店の備品のメモ用紙を一枚取って、そこへIDをゆっくりと書き写した。一度画面と照合してから、メモを二つに折って自分のバッグの内ポケットにしまった。
「……預かる」
「……はい」
「千影ちゃんが、決めたってマスターには、言わない。『本人の許可は取った』ってそれだけ、言う。いい?」
「……はい、お願いします」
「これは、嘘じゃ、ない」
「はい」
「選び方、よ」
「……はい」
「——でも千影ちゃん」
「はい」
「選んだの私たち、二人ね」
千影はほんの少しだけ、目を見開いた。
それからゆっくりと頷いた。
「……はい」
「二人で選びました」
彩音は椅子から立ち上がってバッグを取った。ドアの手前で一度だけ、振り返った。
「千影ちゃん」
「はい」
「……もう一つだけ、聞いていい?」
「はい」
「『一度だけ、繋がっておきたい』ってさっき、言ったわよね」
「……はい」
「本当に一度だけで足りる?」
——千影の指が磨き布の上で止まった。
答えが、出なかった。
彩音は待たなかった。
「……答えなくていいわ」
「……」
「おやすみなさい」
ドアが閉まった。カランとベルが閉店後の店の半分だけ落とした照明の中でいつもより、低く、響いた。
店内に千影だけが、残った。
千影は布を握ったまま、しばらく、カウンターの天板を見ていた。
(……一度だけ)
(一度だけのはず)
(……のはず、なのに)
(なんでもう、「足りるか」なんて聞かれたら、答えられなく、なるんだ、私)
千影は布をシンクの縁にようやく、掛け直した。
翌日。
マンハッタン。
昼を過ぎた頃、彩音はいつもの席に座っていた。柊一の前に業務用の白河凛のLINE IDを写したメモをそっと滑らせた。
「マスター。本人の許可は取ったから」
「……ああ」
「連絡する、っていう用事、以外には、使わないでね」
「使わない」
柊一はメモを二つ折りにしてエプロンの胸ポケットに収めた。
それからまた、布を取ってカップを磨き始めた。けれど、布の動きは、いつもより、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。
数日が過ぎた。
柊一はふとした瞬間に彩音に向かってぽつりと口を開くようになった。
「……先生」
「はい」
「あの人は——誰なんだろうな」
「……」
「髪が長かったな」
「……」
「目が綺麗だった」
「……」
「声が柔らかかった」
彩音はコーヒーカップを口元に運んだまま、半秒、固まった。
(髪が長い——ウィッグです!)
(目が綺麗——カウンターの中にいます!)
(声が柔らかい——男装で低くしてるだけです!)
(しかもその番号の主は今、マスターの隣に立ってるんですけど!)
(……私はいつまでこの我慢大会を続けるの?)
彩音は口の中でコーヒーを押し込んだ。
カウンターの中で千影が黙ってグラスを磨いていた。
(……髪が長い)
(目が綺麗)
(声が柔らかい)
(それ、全部、私なんですけど)
(私、今、あなたの目の前にいるんですけど)
(……嬉しい)
(嬉しいけど、これ、喜んでいい状況、なの?)
千影は布でカップの底を撫でた。
(マスターの胸ポケットに白河凛の業務用のLINE IDが入ってる)
(私が昨日の夜、自分で、「選んで」、先生に渡させたLINE ID)
(今夜、その業務用のLINEに、メッセージが、来るかもしれない)
(——来たら、私は白河凛として返さなきゃ、いけない)
(毎日、この目の前にいる「千影」の顔のまま、夜だけ「白河凛」として文字を打つ)
(……言えない)
(「あの人は私です」って言えたら、全部、解決するのに)
(でもそしたら「じゃあ、なんで今まで黙ってた」になる)
(なるに決まってる)
彩音がカップを空にした。
「マスター、おかわり」
「ああ」
「……今日のブレンド、ちょっとだけ、甘くない?」
柊一は布を持つ手を空中でほんの一瞬、止めた。
「……気のせいだ」
彩音は空のカップをソーサーに置いた。陶器が陶器に当たる、低い音が店内に妙に大きく、響いた。
千影はカウンターの内側でもう一つのカップを布で丁寧に磨き続けていた。




