第十二話 休日の遭遇
晩夏の駅前商店街。
蝉の声はもう遠ざかり始めていた。アーケードの軒下に店ごとの秋物の旗がちらほらと差し替わり始めている。
柊一にとっては、豆の問屋からの帰り、というだけのなんでもない午後だった。
大切な豆の袋を両手で胸の前に抱えながら、柊一は駅前の人混みを長身の歩幅でゆっくり進んでいた。
ふと視界の隅で見覚えのある後ろ姿が止まっていた。
——彩音だ。
ヒールの低いパンプスに薄い色のニット。普段の教師らしい姿勢がいつもより、少しだけ、体の半分を引いている。
彩音は明らかに困っていた。
彩音の肩越しに酔っ払いらしい中年の男が千鳥足で半分覆い被さるように立っていた。
彩音の隣にもう一人。
明るめの茶髪のロングヘアの女性。前髪を斜めに流している。淡いブルーのワンピース。柊一の角度からは、後頭部しか、見えない。
柊一の足が勝手に二歩、進み出ていた。
「——先生?」
彩音がぱっと振り向いた。安堵が額の力をわずかに抜いた。
「マスター!」
柊一は酔っ払いと彩音とその隣のロングヘアの女性の間に無言で一歩、入った。
長身。豆の袋を抱えたまま。表情はいつもの感情のスイッチがどこにあるのかわからない、あの顔。
酔っ払いは、柊一の上半身を首を上げてゆっくり、見た。
「……あ」
「……」
柊一は何も言わなかった。ただ、視線をその男のほうへ向けただけだった。
酔っ払いは、何かを誤魔化すように舌打ちを一つしてから千鳥足のまま、後ろの群衆の中へ消えていった。
柊一はふっと肩の力を抜いた。それから隣のロングヘアの女性のほうへ半身を向けた。
「大丈夫か」
女性がゆっくりと顔を上げた。
——同時に。
柊一の鼻先を軽い、フローラルの香りが、ほんの一瞬だけ、かすめた。
店では、一度も嗅いだことのない、香り。
それから視線が合った。
女性の睫毛の角度。頬の緊張。少し上向きのあごのライン。
柊一の心臓がどん、と一度、胸の真ん中で跳ねた。
胸の前で抱えていた豆の袋が両手の指の力から半分、抜けかかった。
慌てて柊一は両手でそれを胸に押さえ直した。
(…………何だ、今のは)
(心臓が)
(……豆を落とすところだった)
(危ない)
(この豆は高い)
(……それに花っぽい、香り)
(店の空気には、無い、香りだ)
柊一は心臓の動悸を豆の心配の中に無理やり、押し込めた。
女性はわずかに頭を下げて口を開いた。
「ありがとうございます」
——素の声。
演技で作ったのではない、地のままの女性の低めの声。
女性は彩音の腕を肘の上のあたりで軽く引いた。
「先生、行こう」
彩音はぱっと頷いて女性に引かれるまま、商店街のアーケードの奥のほうへ駆け出した。二人の背中は夕方の人混みの中にすぐに紛れて見えなくなった。
柊一はその場に立ち尽くしていた。
豆の袋を両手で胸の前に抱えたまま。
千影は彩音の腕を引いて走っていた。
ヒールがアスファルトを叩く乾いた音が自分のものとは思えないほど、不規則に響いていた。
角を一つ曲がって人通りの少ない裏路地に入ったところで彩音がようやく、息を整えた。
「千影ちゃん、大丈夫?」
「……大丈夫です」
声が半分、震えていた。
(マスターだった)
(マスターに会った)
(——今日は「白河凛」として街を歩く日だったのに)
(事務所のスケジュールでは、女装モードの勤務日)
(明るめの茶髪のロングウィッグをかぶってメイクをして白河凛としての所作を練習しながら、歩いてたのに)
(それが、全部、一瞬で吹き飛んだ)
千影は路地の壁に片手をついた。
(助けられた瞬間に、「白河凛」の仮面が落ちた)
(あの「ありがとうございます」は、白河凛の声じゃ、ない)
(素の私の声、だった)
(……マスターがあの目でその一瞬を見た)
(バイトの私にも白河凛にも一度も向けたことのない、目で)
(……嬉しい)
(嬉しいけど、今、それどころじゃ、ない)
(逃げないと)
(仮面を拾い直さないと)
千影は両手で頬を軽く、押さえた。指の腹にメイクが薄く、つくのを感じた。
(……なんでこんなに動揺してるんだ、私)
(マスターの顔のパターンに詳しすぎる)
(——これが、何なのか、まだ、わからない)
(わからないのに胸が痛い)
彩音が千影の肩に軽く、手を置いた。
「千影ちゃん」
「……はい」
「マスターには」
「……」
「言わない。約束する」
「……ありがとうございます」
千影はふっと息を吐いた。
彩音は千影の隣で走りながら、一度だけ、振り返った。
商店街のアーケードの入り口の少し手前。
柊一はまだ、立ち尽くしていた。豆の袋を両手で胸の前に抱えたまま。
その横顔。
いつもの感情のスイッチがどこにあるのかわからない、あの顔の——どこに感情のスイッチが入っているか、彩音には、はっきりと見えた。
(……あの顔は——)
(恋に落ちた顔だ)
彩音の足がほんの少しだけ、遅くなった。
(マスターが千影ちゃんに恋をした)
(千影ちゃん、だって気づいてないのに)
(……ああ、これは、まずい)
(とてもまずい)
(私は今「言わない」って約束したけど)
(マスターが今後、毎日、カウンターの中にいる、千影ちゃんの横で、「あの人」の話を始めたら)
(……どうするの)
(どうするの私)
彩音は千影に手を引かれるまま、もう一度、振り返った。
柊一の背中はまだ、商店街の入り口の手前でこちらに半分、背中を向けて立っていた。
(……あの無表情の人があんな顔、するんだ)
(恋ってそういう、顔か)
(ドラマで何百回も見たのに)
(——私、知らないんだ)
(こんなに近くで見るのは、初めてだ)
彩音はその続きを考えなかった。考えられなかった。
胸の中が誰かに代わって熱いような、切ないような、けれどなぜか少しだけ、嬉しいような、不思議な温度に満たされていた。
柊一は商店街の入り口の手前でしばらく、動けなかった。
豆の袋を抱え直してようやく、駅と反対方向へ歩き出した。
長身の影が暮れかけた歩道の上で長く、伸びた。
(……誰だ、あの人は)
(先生と一緒にいた)
(名前も知らない)
(連絡先も知らない)
(なのに——)
(なぜ、あの目がこんなに残る)
柊一は横断歩道で信号が変わるのを待った。
(コーヒー以外のものでこんなに頭がいっぱいになったのは、初めてだ)
(……豆)
(豆は無事だ)
(帰ろう)
信号が青に変わる。
柊一は歩き出した。横断歩道の白線をいつもの歩幅で踏んでいく。
ふと頭の中で別の顔を思い浮かべようとした。
毎日、カウンターの隣に立っているはずの——千影の顔。
——浮かばない。
顔の輪郭がいつもより、ずっと遠かった。手元のコーヒーカップを取る手の動きや、布巾を絞る角度や、低い声の語尾はすぐに浮かぶのに顔だけが、輪郭から滲んでいた。
(……なぜ、千影の顔を思い出そうとした)
(関係ないだろう)
(あいつは、男だし、いつも通りだ)
(俺が今、ぼんやりしてるのは、商店街で助けた女性のせいだ)
柊一は足の運びをいつもの速度に戻した。
ただ、頭の中の片隅で、「あの目」が、何度も再生されていた。
夜。
千影は自宅マンションのバスルームでシャワーの栓をひねった。
茶髪のウィッグをもう外していた。鏡台の前でメイクを丁寧に落とした。首筋にほんのわずかに残っていた女装モード用のフローラルの香水も泡を立てて洗い流した。
明日はバイトだ。マスターのルールで無香で男装モードに戻す日。
服を脱ぐ。鏡が湯気でまだ完全には曇っていない。曇る前の一瞬だけ、素の身体が映り込んだ。肩幅。鎖骨の薄い窪み。胸。腰のくびれ。
千影はその鏡の中の自分をしばらく、見た。
湯を肩で受ける。
熱い湯が肩から鎖骨を伝って鳩尾のあたりへゆっくり、流れ落ちていく。胸の膨らみを越えて肋骨の窪みを越えて腹の上へ。素足の指先でシャワーの湯がタイルを叩いて跳ねた。
商店街の角で震えていた自分。
咄嗟に「大丈夫か」と言ってくれたマスター。
あの一瞬の——マスターの目。バイトの私に向ける、ぶっきらぼうな目とも白河凛として書店で見られた「観察する目」ともまた、違う目。
素の声で返事してしまったあの一瞬がまだ、耳の奥に残っていた。
(……女の人として見られた)
(「イケメン女子」でも、「バイトの千影」でも、「白河凛」でもなくて)
(ただ、一人の女の人として)
千影は両手で首の後ろに湯を回した。
(……ちょっと嬉しかったかも)
(認めたら、終わりな気がしてたけど)
(お湯が全部、ゆるめてくる)
鎖骨の下で心臓が一度、強く、打った。
千影はその鼓動の場所を自分の手のひらで軽く、押さえた。掌の下でまだ、心臓がいつもより少しだけ、速かった。
(でも真白千影としてあの人の前に立てない)
(男装で何ヶ月も立ってきた分、素の顔じゃ、遠すぎる)
(……業務用の白河凛、なら)
(あの殻、なら、もしかしたら)
(——一度きり)
(もし、マスターが連絡先を聞いてきたら)
(先生に間に入ってもらって、業務用のLINE IDを、マスターに伝えよう)
(嘘じゃ、ない)
(……選ぶだけ)
千影はシャワーを止めた。
湯気がまだ、バスルームの天井のあたりにゆらゆらと残っている。
千影は自分の両手のひらを目の前に開いた。
カウンターでコーヒーを淹れる、手。台本のページをめくる、手。スマホを握る、手。
(……明日、先生に話そう)
千影は両手でゆっくり、顔の湯を拭った。
翌日。
事務所のビジュアルチェック室。
大きな全身鏡の前に千影は座っていた。今日は女装モードの勤務日。
明るめの茶髪のロングのウィッグが千影の頭に被せられていた。
柳瀬副社長は千影の後ろに立っていた。長い指で櫛を持ち、ウィッグの毛束を後ろから丁寧に整えている。
部屋の中には、櫛がウィッグを通る、低いしゅっ、という音だけが、響いていた。
「最近」
柳瀬の声が櫛の音の隙間に滑り込んできた。
「目の動きが、変わったわね」
「……え?」
「鏡を見ながら、視線が内側に落ちることが、増えた」
千影の指が膝の上で半分、こわばった。
柳瀬は櫛を止めない。前髪の毛束を指で流してウィッグの位置をほんの一ミリだけ、後ろへずらす。
「何か、思い出してる、顔」
「……」
「悪い意味じゃ、ないわ」
柳瀬の指が千影のうなじの後ろのウィッグの縁をぴたりと押さえた。
「——何か、景色が変わったのね、あなたの中で」
千影の肩がほんの一拍、強張った。鏡の中の自分がわずかに目を伏せた。柳瀬はその動きも目だけで見ていた。けれど、何も言わなかった。
柳瀬は櫛をドレッサーの上に置いた。
「言わなくていい、わ」
「……はい」
「それは、演技に出していい。むしろ、出せる感情は全部、出しなさい」
「……」
「技術で制御しようとするより、感情を通したほうが、あなたは、伸びる」
千影は鏡の中の白河凛を見た。前髪の角度がほんの一ミリだけ、整えられていつもより、ほんの少しだけ、目元の表情が深くなっていた。
(柳瀬副社長、全部、読まれてる)
(昨日、マスターに会って、「白河凛」の仮面が落ちた一瞬を顔の筋肉の動きから拾われてる)
(……でも中身までは、読まれてない)
(「あの目を思い出してる」とまでは、言われてない)
(助かった)
(——いや、助かったのか?)
柳瀬はドレッサーの引き出しからリップを一本取り出して千影の前に置いた。
「そのリップ、今日のチェックでは、ベージュじゃなくてこっちにしておきなさい」
「……はい」
柳瀬の声にもう、さっきの一瞬の柔らかさは、無かった。事務所のビジュアル責任者のいつもの低い声に戻っていた。
千影はリップを手に取って鏡の中の白河凛の唇にゆっくりと塗り重ねた。
鏡の中の白河凛の唇がほんの少しだけ、深い色をまとった。
千影の鎖骨の下では、まだ、昨日の鼓動の余韻がほんの少しだけ、残っていた。




