第十一話 三段重
——昨夜、千影は何かが壊れる夢を見た。
何が壊れたのかは、思い出せなかった。
夏本番。
商店街のアーケードには、誰が吊るしたのかわからない風鈴とたくさんの蝉の声とぬるい風が混ざって流れていた。律は学校帰りの制服のまま、片手にスーパーの袋を提げて自分のマンションのほうへ歩いていた。
千影が端役で出る撮影はいつの間にか何度か入っていてバイトを不在にする日が定期的にできるようになっていた。律はその「千影さんが不在の日」が、いつのまにか自分の頭の中の店内地図に追加されていることにふと気づくようになっていた。
律自身の差し入れのほうは——一段重から二段重へついに三段重へと増殖していた。
マンションの廊下。
律は彩音の部屋の前でいつもの三段重を両手で支え直してドアの前に置いた。中身は煮物、酢の物、焼き魚。
ボタンを押そうとして指先が浮いたまま、止まった。
(余った)
(……余ってない)
(三段重は余らない)
(どう見ても余らない)
ボタンを押した。
ピンポーン。
数秒でドアが開いた。今日は早めに帰宅していたらしい彩音がジャージ姿で髪をうしろに一本に結んだ格好で出てきた。彩音は律の足元の三段重をじっと見た。
「瀬尾くん」
「はい」
「これ……三段重?」
「余ったんで」
「……これが、余るの?」
「はい」
「……嘘でしょ」
「余ったんです」
彩音はしばらく、律の顔と三段重を交互に見た後、観念したように両手で三段重を受け取った。
「……ありがとう」
「いえ」
「あとでお礼になんか、ジュース、買ってくるね」
「いえ」
律は軽く頭を下げて自分の部屋のほうへ歩きかけた。
ドアが閉まる前に彩音の声がもう一度追いかけてきた。
「あと瀬尾くん」
「はい」
「ベランダの洗濯物、もし夕立来たら、ごめん、合鍵で取り込んでくれない? 今日、私、急な会議が入りそうで」
「……はい、わかりました」
律は頷いた。
夕方。マンハッタン。
律は宿題のノートを抱えていつものカウンター端の席に座った。
千影がカウンターの内側で低い声で「いらっしゃいませ」と応えた。
律はブレンドを一杯頼んでノートを開いた。問題集のページを開く動きの合間にふと目線だけを上げた。
千影がカップを布で磨いている柊一の手元を見ていた。
いつもの千影の見方ではなかった。
いつもは、もう少し、楽しそうな目をしていた。「今日もマスターの手は綺麗だな」と口の中で呟いていそうな、柔らかい目。
今日のは、違っていた。
ほんの一瞬だけ、何かを恐れているような、目だった。
律の中で軽く、ペン先が止まった。
(千影さんが、マスターのカップを見る目が——)
(……なんだろう、いつもと違う)
千影はすぐに視線を下げて自分の手元の布巾に戻した。何事もなかった顔でシンクの縁に布巾を掛け直した。
律はノートに視線を戻した。けれど、ペン先はしばらく、計算問題の真ん中で止まっていた。
(千影さん、今日はどこか、上の空だ)
(……何か、あったのかな)
夕方の遅い時間。
雨の匂いが、開けた窓から流れてきた。
律のスマホが短く震えた。彩音からのLINE。
『瀬尾くん、ごめん、会議延びてる! 雨降りそう! 洗濯物、取り込みお願い!』
『はい、行きます』
律はノートを閉じてカウンターに千円札を置いて店を出た。
マンションに戻って合鍵を彩音のドアの鍵穴に差し込んだ。カチャ、と回す音が廊下にいつもより大きく響いた気がした。
「失礼します」
誰もいない部屋に小さく声をかけた。
ベランダに直行する。曇り空の下に洗濯物が紐に並んで揺れていた。タオル数枚、彩音のシャツ、それから——下着。
律の目が洗濯バサミの位置からその先を追ってしまった。
律の足がぴたりと止まった。
(……)
(……)
(……あった)
(……何がと考えるのは、よそう)
律は自分に二つだけ、ルールを課した。
タオルとシャツは丁寧に畳んで室内のラックに掛ける。
下着には、触れない。
律はまずタオルから取り込んだ。タオルを胸に抱えてシャツの順番に進む。シャツを取り込むときに隣の洗濯バサミに視界の端で別の色が映った。律は視線を即座に空のほうへ逸らした。
タオルとシャツをリビングの折り畳みラックに丁寧に掛けた。畳むときの折り目を律はいつも家でやっているのと同じ手順で四つ折りにした。
残ったのは、ベランダの最後の三本のピンチ。
律はベランダに戻った。
深呼吸を一度、空に向かってした。
目を半分だけ開けてピンチの位置だけを視界の中央に置いた。色は見ない。柄は見ない。律はそう自分に念じた。
布の端をつまんだ。指の腹は極力、触らない。爪と爪の先端だけでピンチから外して洗濯カゴの中にそっと落とす。
もう一枚。
もう一枚。
全部、カゴに落ちた。
律はカゴを抱えてリビングに戻った。室内のラックの端の段にカゴごと置いた。中身は出さない。畳まない。触らない。
(……見ないようにした)
(見てない)
(いや、カゴに戻した瞬間に色だけは、視界に入った)
(……忘れよう)
(忘れられないけど、忘れる、努力はする)
律はカゴからゆっくり目を逸らした。
顔を逸らした視線の先にリビングのテレビ横の棚があった。
以前ここで見たブルーレイディスクの並ぶ棚。背表紙がぎっしり並んでいる。
ふた月ぶりに見ると増えていた。
『夏の手紙』。『静かな階段』。『夜の止まり木』——。
律の目が最後のタイトルで止まった。
(……夜の止まり木)
(マンハッタンみたいな、タイトルだ)
(先生、また、宗方監督の買ったのか)
(……このジャンル、本気で好きなんだな)
(趣味を否定する気はないけど)
(——何度観てもなんで泣くんだ)
(話の構造、うちの現状と同じなのに)
律の目線が棚の最上段に上がった。律の手が届かない高さに未開封の新作が立てかけてあった。帯のデザイン。カウンターバーで向かい合う、二人の男の写真。
(——先生は男二人のほうを「切ない」と解釈する)
(現実の僕と先生の構図は、「切ない」カテゴリには、入らない)
(……なぜだ)
(構造は同じなのに)
(——あ)
(僕は男で先生も女だから)
(先生の頭の中の「切ない構図」には、ハマらない、のか)
(先生のアンテナは男二人じゃないと立たない)
(……そうか)
(そういう、ことか)
律は棚から目を離した。
ラックの端の布に触れていないカゴを横目で見た。
(……もう、手遅れだ)
(色も柄も視界に入ってしまった)
律はラックから半歩離れた位置で姿勢だけ、まっすぐ立ち直した。
それから三十分後。
玄関の鍵が外側から回された。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
「あ、瀬尾くん、取り込んでくれたの? ほんとごめん、助かったー」
彩音はリビングに入ってきてラックの端のタオルとシャツの綺麗な四つ折りに目を細めてそれから隣のカゴに視線を止めた。
「……」
「……」
律は視線を彩音とカゴの中間あたりの空中に置いた。
「タオルとシャツだけは、畳みました」
「うん」
「下着は……」
「うん」
「触れなくてラックに戻しました」
「……」
「……すみません」
彩音はしばらく、口を半開きにしたまま、固まった。
それから口元を片手で押さえて噴き出すように笑った。
「ごめんね」
「……いえ」
「そりゃそうよね」
「はい」
「ほんとありがとう」
彩音は笑いの残った息を整えながら、カゴを抱えて寝室のほうへ消えた。
律は玄関のほうへ歩きかけた。
(……忘れよう)
(忘れる努力はする)
(あとついでに先生の棚の新作タイトルも忘れる、努力はする)
律は靴を履きながら、もう一度、念じた。
夕方。
律は自分の部屋に戻る前にもう一度、コンビニで飲み物を買おうと商店街の方へ足を向けた。アーケードの中は湿った空気と屋台の匂いと昼間の名残のような暑さが、混ざっていた。
歩道の真ん中、雑貨屋の前で向こうから歩いてきた見覚えのない女性と目が半秒だけ、合った。
明るめの茶髪のロングヘア。前髪を斜めに流している。淡いブルーのワンピース。控えめなチーク。
——律はすれ違った直後、半歩、足を止めた。
(……あれ?)
(誰かに似てる)
(……誰だっけ)
髪の色が全然違う。背格好だけ、ちょっと似てる気がする。それくらいの引っかかり。
律は頭を軽く振ってまた、歩き出そうとした。
その時、背中側から声が追いかけてきた。
「あ、瀬尾くん?」
——律の足が止まった。
律はゆっくり、振り返った。
さっきの女性が五メートルほど離れた位置で半分、こちらを向いて立っていた。口がぽかんと半分開いていた。
(……名前、呼ばれた)
(なんで名前、知ってるんだ)
律の中で点と点が線になった。
背格好。顔の輪郭。あごのライン。瀬尾、と呼べるということは、自分を知っている、ということ。マンハッタン近くの商店街で。
「……千影、さん?」
女性が口をぱくぱくと閉じた。それからもう一度、開きかけてまた、閉じた。
「……ですよね?」
「……」
「千影さん、ですよね?」
「……静かに」
「……」
「瀬尾くん、ちょっと来て」
千影は律の腕を肘の上のあたりで軽くつまんで雑貨屋の角を曲がった先の人通りの少ないベンチへ引っ張っていった。
ベンチに二人で並んで座った。
千影は両手で顔を半分覆ってから深く息を吐いた。
「……瀬尾くん」
「はい」
「これは、内緒にしてもらえる?」
「えっ、はい、もちろん、します」
「……ありがとう」
千影は顔から手をゆっくり離した。
律の隣に座っている女性は確かに千影だった。けれど、声が低くなかった。男装モードの「俺」の声でもない。少し高めで芯のある、別人の声。
「……あの千影さんは、その」
「うん」
「女性、なんですか?」
「……うん」
「えっ」
「うん」
「……えっ」
「うん」
律は隣のベンチの背に体重をずるずると預けた。
「……ええっ……」
千影は申し訳なさそうに片手の指の背で頬の横を軽く掻いた。
「事務所の決議でね」
「決議」
「男装モード、三日。女装モード、三日。オフ、一日」
「……オフ……?」
「ゴロゴロ、する日」
「……ゴロゴロ……?」
「ゴロゴロ、です」
律はベンチの背に頭まで預けて夏の空をしばらく、見上げた。
「……整理します」
「うん」
「千影さんが、女性で」
「うん」
「マンハッタンでは、男の千影さんで働いていて」
「うん」
「でたまにこうやって女性の千影さんになる」
「うん」
「で一週間に一回、ゴロゴロする」
「うん」
律は口を半分開けたまま、二回ほど、瞬きした。
「……」
「……」
「……」
「……」
律は長い沈黙の後で軽く頷いた。
「……わかりました」
「ほんと?」
「……たぶん」
「ありがとう」
「あの」
「うん」
「マスター、には」
「絶対、言わないで」
「……はい」
「お願い」
「……はい」
「ほんとお願い」
「はい」
律はベンチに座ったまま、足元のアスファルトをぼんやり見ていた。
(……千影さんは、女だった)
(千影さんが、マスターをあの目で見つめてたのは——)
(……男同士の恋じゃ、なかった)
(女が男を好きなだけだ)
(普通の恋だ)
(……正直、ホッとした)
律は少し、肩から力が抜ける感じがした。
(先生は千影さんが、女だと気づいてる素振りが、ない)
(カウンターで毎日、隣にいるのに)
(……まだ、バレてないんだろう)
(じゃあ、先生は?)
律は頭の中で四角の図をもう一度、描き直した。
(マスターは先生が好き)
(先生は千影さんを男だと思ってるけど、気になってる)
(千影さんは、女でマスターが好き)
(で僕は先生が気になってる)
(……三角関係は変わってない)
(しかも先生だけ、千影さんの性別を知らないまま気にしてる)
(男だと思ってる相手は実は女で、しかもマスターが好き)
(……先生の恋だけ、最初から、詰んでる)
律は両手で顔を覆ってしばらく、ベンチの上で唸った。
「……瀬尾くん」
「はい」
「今、頭の中でなんか、考えてた?」
「いえ、何も」
「何か、考えてたよね」
「いえ、何も」
「……まあ、いいや」
千影は軽く笑ってハンドバッグからスマホを取り出した。
「これ、何かあったら、連絡して。LINEでいい?」
「……はい」
「教えて」
律は自分のスマホを取り出して、LINEのIDを千影に見せた。千影は自分の個人用らしい画面で律のIDを追加した。スマホの画面の中に、「瀬尾律」という文字が新しい連絡先としてぽんと表示された。
「これで共犯者だね」
「……共犯者」
「うん」
「……あのなんでマスターには、言わないんですか」
千影はスマホをハンドバッグに戻してベンチの背に軽く寄りかかった。
「……マスターは」
「はい」
「嘘が嫌いだから」
千影の声が低くなっていた。男装モードの「俺」の声でも白河凛の声でもない、たぶん素に近い、千影の声。
律はその声を初めて聞いた気がした。
(……)
(先生にも言えないよな)
(先生が千影さんを男だと思ってるのは、千影さんの事情に関わることだ、し)
(ここは、黙っておこう)
律はベンチの背にもう一度、頭を預けて夏の高い空を見上げた。雲がゆっくりと形を変えながら、流れていた。
「……瀬尾くん」
「はい」
「ありがとう」
「……いえ」
「ほんとにありがとう」
律は空のほうに軽く頷いた。
ベンチの隣で千影が軽く息を吐いた。その息の温度が夏の風にすぐに混ざって消えていった。




