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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第2部「あの人」

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第十話 オーディション

 梅雨が来た。

 マンハッタンで働き始めてふた月になる。窓の外、街路樹の葉が雨粒を一つずつ抱えて重そうに揺れていた。

 千影のバイト生活はすっかり軌道に乗っていた。柊一との無言の連携もこなれてきた。常連たちの顔と名前もおおむね覚えた。蓮司の好み、彩音の好み、ボックス席の高校生たちの常連シフト。

 ——けれど、千影の「言ってないだけ」は、何も変わっていない。


 閉店後のマンハッタン。

 千影はカウンターの天板の上に台本を広げていた。明日のオーディション用の三場面。短い独白と相手役との掛け合い。

 柊一はいつものように布でカップを磨いていた。

 千影は台本のページの端を指で軽く折って目印にしてから口を開いた。

「マスター」

「なんだ」

「相手役、お願いしてもいいですか」

「……」

 柊一は布を持ったまま、しばらく天井のあたりを見た。

「俺はバリスタだ」

「お願いします」

「……」

 千影は台本のページのほうを両手で持ち上げて柊一に見せた。

「ここの相手役の台詞、読むだけでいいです」

 柊一は布を置いて千影の差し出したページを無言で受け取った。眉間に薄く皺を寄せてページに書かれている台詞を目で追っている。

「……読むぞ」

「お願いします」

 柊一はぼそりと台本を読み始めた。

「『……お前はもう、ここに来るな』」

 ——完全な、棒読みだった。

 千影の口元がぴくっと動いた。台本のページを支える指がふっと震えた。笑いそうになるのを奥歯で噛み殺す。

「……マスター」

「なんだ」

「もうちょっと感情、込めてください」

「俺はバリスタだ」

「マスター、それさっきも聞きました」

「……」

 柊一はもう一度、台本に視線を落とした。眉間の皺が少しだけ深くなる。喉の奥で二回ほど咳払いをしてそれからもう一度、口を開いた。

「『お前は……もう、ここに来るな』」

 ——少しだけ、感情が入っていた。

 短い、息の引き方。最後の「な」の音がわずかに低く落ちた。

 千影は台本をぱっと顔の前まで持ち上げた。

(……上手い)

(マスター、絶対、本気出してない)

(出してないのに上手い)

(この人、表現が下手なんじゃない)

(……抑えてるだけだ)

 千影は自分の番の台詞を応える形で声に乗せた。

「『——わかってます』」

 柊一はもう一行、続けた。台本に視線を落としたまま。声はまた、半歩だけ、棒読みに戻っていた。

 千影は笑った。喉の奥でちゃんと押し殺してから口元だけを引き締めて続きを読んだ。

 数往復した。

 最後のページを閉じる頃、千影の仮面がほんの少しだけ、緩んでいた。低く作っていた声の語尾がいつもより、ふっと柔らかくなった。

「……ありがとうございます」

 柊一は台本を千影のほうに返した。

「ああ」

 千影が頭を下げる。

 柊一は布を取り直してまた、カップを磨き始めた。けれど、布の動きが、いつもの一定速度より、ほんの少しだけ、遅かった。

 千影はそれに気づかなかった。


 翌朝。

 千影はワンルームで白河凛になっていた。

 ロングのウィッグ。前髪を斜めに流して頬の角度を柔らかく見せる。淡いベージュのチークを頬骨の高い位置に。眉はふんわりと丸めに。リップはローズベージュ。襟元の開いた淡いブルーのワンピース。脚を見せるのは、ヒールの音だけ。

 鏡の中の自分に千影は軽く首を傾けて声を確かめた。

「——白河凛、です」

 高めのけれど、甘ったるくならない、芯のある女性の声。男装モードの低音とは、別の人格が宿る声。

 千影は鏡の中の白河凛に軽く頷いて見せてハンドバッグの口を留めた。


 オーディション会場は雑居ビルの三階。ホワイエに応募者の女性たちが、十人ほど座っていた。誰もが、自分の番を待ちながら、台本を膝に置いて口の中で台詞を反芻している。

 千影は隅の椅子に座って台本を膝に乗せた。

 昨日のマスターの棒読みが、頭の中でもう一度、再生された。

(『お前はもう、ここに来るな』)

 千影の口元がわずかにほどけた。

(……あの棒読みに比べたら)

(どんな審査員も怖くない)

 千影の指から力がふっと抜けた。


 名前が呼ばれた。

「白河凛さん、お願いします」

「はい」

 審査室。

 長机の向こうに三人の審査員。中央に座っているのは、年配の男性。顔写真でしか見たことがなかったけれど、宗方鉄哉監督だとすぐにわかった。

 千影は深く一礼した。

「白河凛と申します。よろしくお願いいたします」

 短い独白。続けて相手役の声を別のスタッフが読み上げる形での掛け合い。

 千影は息を丹田に落とした。白河凛の声で台詞を丁寧に乗せていく。最後の一行——「もう、ここに来るな」と言われた側の最後の応えを千影は声を作らずに静かに口にした。

「……わかってます」

 審査室の空気がほんの一拍、止まった。

 宗方監督は視線を台本の上に落としたまま、何も言わずにページの端に何かを書き込んだ。

「ありがとうございました」

 千影はもう一度頭を下げて審査室を出た。

 ホワイエの廊下で千影は壁にもたれて小さく息を吐いた。


 夕方。事務所。

 会議室の長机に鷹宮社長と柳瀬副社長が向かい合って座っていた。

 鷹宮はいつもの黒に近い赤紫のジャケットの肩に髪をふわりと払いながら、千影が入ってくるなり、口元に小さな笑みを浮かべた。

「合格、おめでとう」

「……えっ」

「事務局からもう連絡入ってる。端役だけど、宗方さんの『通り雨』。現場で何かしら掴んでらっしゃい」

 千影は椅子に座る前にもう一度、頭を下げた。

「ありがとうございます」

 千影が腰を下ろすのと同時に柳瀬が万年筆のキャップを閉じた。眼鏡の奥から千影をまっすぐ、見た。

「真白さん」

「はい」

「宗方監督の現場は台詞の数で評価されないわ」

「……」

「画面に映る数秒で何を残せるかで決まる。——あなたは、技術はまだ追いついてない」

 千影の背筋が半分だけ、緊張した。

「けど、感情は誰よりも正直よ」

 柳瀬の声は低かった。事実を述べる、というだけの抑揚。

「それだけは、覚えておいて」

 千影は唇を軽く噛んでからもう一度、頭を下げた。

「……はい」

 鷹宮が腕を組んで横目で柳瀬を見た。

「柳瀬。甘やかさないの」

「甘やかしてないわ。事実を言っただけよ」

「同じよ」

「違うわね」

 千影は二人の応酬の途中でもう一度頭を下げて会議室を出た。

 廊下の壁にもたれて深く、息を一つ吐いた。

(技術は追いついてない)

(それは、わかってる)

(……でも、「感情は正直」——)

(柳瀬副社長に言われるとお世辞じゃない)

(この人、お世辞を言うタイプじゃないから)

 千影は廊下の窓のほうをぼんやり見た。雨はもう上がりかけていた。

(……感情は正直、か)

(それは、たぶん、あの店のせい、かもしれない)


 翌日のマンハッタン。

 千影は男装モードに戻っていた。低い声、補正インナー、ワイシャツの第一ボタンは緩く開けて地毛のショートで。

 午前の客足が一段落した時間。柊一はいつものようにカウンターの中でコーヒーミルの音を低く回している。

 千影は布巾をシンクの縁に掛けて軽く息を整えてから口を開いた。

「マスター」

「なんだ」

「オーディション、受かりました」

 ——コーヒーミルの音が一拍、止まった。

 柊一がゆっくり、振り返った。千影の顔を目だけで一瞬見てそれから視線をほんの少しだけ、千影の頭の上の天井のあたりにずらした。

「……そうか」

「端役、ですけど」

「最初は誰でもそこからだ」

 短い言葉だった。

 柊一はコーヒーミルから手を放してネルとポットに手を伸ばした。湯を沸かし直して豆を計量する。何も言わずに千影の前に出来上がった一杯のブレンドを置いた。

 カップの持ち手は千影の利き手のほうを向いていた。

「……ありがとうございます」

「飲め」

 千影は両手でカップを包んだ。陶器の温度が手のひらに馴染んだ。

(……嬉しい)

(マスターに認めてもらえた)

 千影は湯気の向こうの柊一の横顔をちらりと見た。柊一はもう、別のカップを布で磨き始めている。

(……でも私は、「受かりました」としか、言ってない)

(マスターは男の役者がドラマに出る、って思ってる、んだろうな)

(実際は女優として出るのに)

(また、「言ってないだけ」が、増えた)

(……この嘘、いつか、ちゃんと返せる日が来るんだろうか)

 千影はカップに口をつけた。苦味の中の長い余韻。柊一の手が淹れたいつもの味。

(こいつの受かった顔は素直だな)

(……台本を棒読みした甲斐があったか)

(……いや、俺は何の手助けもしてない)

(コーヒーの話をしただけだ)

 柊一は布をカップの底にもう一度滑らせた。


 昼を過ぎた頃。

 ボックス席の常連の女子高校生——柊一が前から「あの体格のいい男子高校生の友達のほう」と認識している、明るい色の髪をハーフアップにまとめた子がカウンターのほうへぱっと振り返った。

「マスター」

「なんだ」

「あの可愛いメニューが欲しいんです」

「……」

「オムライスとか……」

「ここはコーヒー専門店だ」

「……マスターなら、絶対、作れますよね?」

 柊一は布を持つ手をぐっと天板に押さえつけた。

「ここはコーヒー専門店だ」

 女子高校生は椅子の上で身を乗り出した。

「でもナポリタン、あるじゃないですか」

「……」

「コーヒー専門店にナポリタンがあるなら、オムライスもいけるでしょ」

 ——柊一の反論する言葉が止まった。

 布を握る指の関節に軽く、力が入った。

「……アンタ、名前は?」

「高峰琴葉です」

「……高峰」

 柊一は布を天板の隅に置いた。

「三日後、また来い」

「やった!」

 高峰はボックス席の隣に座っていた幼馴染の男子高校生のほうを向いて両手でガッツポーズを作った。男子高校生はストローでアイスコーヒーを吸いながら、ちらりとカウンターのほうを見てまた視線を戻した。

 千影はカウンターの内側で口の端を軽く引き上げた。

(……「ナポリタン、あるじゃないですか」)

(マスター、その手でもうやられてる)

(高峰さん、賢い)


 三日後。

 夕方の店内。高峰琴葉は隣の幼馴染の男子高校生と並んでボックス席に座っていた。柊一は奥のキッチンで何かを丁寧にひっくり返す音を立て続けに鳴らしていた。

 数分後、柊一は楕円形の白い皿を両手で運んできた。

 ふんわりとした卵が湯気を立てて艶のあるオレンジ色のチキンライスの上に乗っている。卵の表面は薄く、滑らかに艶を持っていた。

 高峰は両手を口の前で合わせた。

「うわっ」

「……」

 柊一は皿を高峰の前に音を立てずに置いた。

 千影はカウンターの内側でケチャップのボトルを構えた。

「ハート、描きましょうか」

 高峰の目がぱっと光った。

「描いて描いて!」

 千影はボトルの先を卵の表面に近づけた。深呼吸を一つ。

 ボトルをゆっくりと傾ける。

 ケチャップの細い線が卵の表面に滑らかに半円を描いていく。一筆目。きれいに左の弧。

 二筆目。右の弧。

 ——途中でボトルの傾きが、わずかにぶれた。線が太くなった。慌てて千影は手の角度を戻したけれど、もう片側の弧と上の頂点で上手く繋がらなかった。

 卵の表面に軽く崩れた左右非対称のハートのような何かが、出来上がっていた。

「……あ」

 千影はボトルを構え直した。もう一度。

 その時、千影の手元に横から長い指が伸びてきた。

 柊一が無言でケチャップのボトルを千影の手から取り上げた。

「マスター」

「……貸せ」

 柊一はボトルを自分の利き手に持ち替えた。卵の表面を目だけで一秒、観察する。

 それからボトルの先を卵に近づけた。

 ボトルが滑らかに傾いた。

 一筆。

 左右対称の輪郭の整ったハートが卵の上に完璧な線で描かれた。

 高峰が息を吸った。

「……マスター」

「……」

「マスター、手先、めっちゃ、器用ですね」

「褒められる話じゃない」

「えっ」

「……手先は、道具のうちだ。器用なのは、事実だ」

 千影はボトルを取り戻しそびれたまま、口の端を軽く引き上げた。

(……今、自分で褒めた)

 高峰はスマホを構えて皿の真上から写真を撮った。隣の男子高校生が皿を覗き込んだ。

「うわ、ちゃんとハートだ」

「ね、すごくない?」

「俺のは、ハート、いらないけど」

「あんた頼んでないでしょ」

「……一口、くれ」

「最初からそう言いなよ」

 高峰はスプーンでふんわりとした卵の縁をひと匙すくった。卵の下の艶のあるチキンライスごと男子高校生の口元に差し出した。

 男子高校生は無言で口を開けてそれを食べた。

 高峰がもう一度、自分の皿に向き直ってハートの真ん中にスプーンを入れた。

 千影はその様子をカウンターの内側からちらりと見ていた。

(……向かい合って座って互いの皿に手を伸ばす)

(でそれが、特別な、ことだとは、思ってない)

(……まあ、そういう、距離もあるよね)

 柊一はケチャップのボトルを棚の元の位置に戻して布を取り直していた。

(メニューが増えていく)

(……しかたない)

 千影はカウンターの内側でケチャップが残った自分の指の腹を布巾で軽く拭いた。

(私のハートは左右、ちょっと歪んだなあ)

(マスターのは、一筆で対称)

(……羨ましい、というか、なんというか)

 千影はもう一度、カップを布で磨く柊一の手を横目で見た。

(あの手で淹れたコーヒーで私はまた、生きていく)

(——「言ってないだけ」をまた、抱えて)

 千影は布巾をシンクの縁に戻して次の客の皿を棚から取り出した。


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