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喫茶マンハッタンに正直者はいない ——それでも珈琲の味は嘘をつかない  作者: 試作ノ山
第4部「答え合わせ」

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第三十七話 しかたない

 冬の朝。

 千影の自宅マンションのバスルーム。

 シャワーの湯が、千影の肩を叩いた。

 ——あの春の朝と、同じ場所に、湯が落ちる。

 同じ体。同じ高さ。

 でも、今朝の湯は、違っていた。

(あの朝は、男を演じるための、湯、だった)

 肩を伝う湯が、鎖骨を越え、胸の膨らみへ滑る。

 今朝は、補正インナーを取り出す必要がない。男物のシャツも、整髪料も、低音を確かめる鏡前の儀式もない。

 ただ、素のまま。

 女の体に、湯が落ちる。

(——今朝の湯は、女の子としてあの人に会いに行く朝の湯だ)

 千影はシャワーを止めた。

 湯気の中で、地毛のショートを軽くタオルで挟む。

 窓の外で、冬の朝の陽が、薄く、白く、差し込んでいた。



 冬の昼下がり。

 マンハッタンは定休日、だった。

 駅前商店街のアーケードの下を千影が歩いていた。

 隣に柊一、が、いた。

 千影は今日、素の真白千影として歩いていた。

 男装モードでも、「白河凛」の女装モードでもなかった。

 地毛のショートヘアを軽く、耳にかけて。

 軽い、メイク。

 丈の長い、淡いベージュのカーディガン。

 首筋にほんの一滴だけ、フローラルの香水。

 「白河凛」、ほど、濃くはなく。

 男装モードでもなく。

 普段の素モードの無香でもない。

 ——三つのモードのどれでもない、今日のための香り。

 カーディガンはあの秋の日——柊一に商店街で助けられ、あの脇道を曲がる、前に買ったあのカーディガン、だった。

 あの日は柊一に見られるはずじゃ、なかった服。

 今日は柊一の隣で着ている。

「——マスター」

「ん」

「今日は何の買い出し、でしたっけ」

「……豆だ」

「いつもの問屋、ですか」

「ああ」

「じゃあ、私、その間にあそこのクレープ屋、寄っていいですか」

「……勝手にしろ」

「マスターも食べます?」

「俺はいい」

「じゃあ、一個、買って半分こにします」

「……だから、俺はいい——」

「半分こ」

 千影は小走りで屋台の方へ走った。

 柊一は豆の紙袋を抱え直してその背中を見ていた。

(……買うのか)

(あの屋台で)

(あの日、こいつは、俺に、「ありがとうございました」、と言って逃げていった)

(あの近くの脇道だ)

(あのときは、違う、服装だった)

(今日は——同じ、商店街を)

(同じ、歩幅で)

(隣で歩いている)

 千影が戻ってきた。

 バナナクレープ。

 生クリーム、たっぷり。

「——半分こ、です」

「……俺はいい」

「マスター」

「いい」

「ここで断ったら、クレープが二人分になります」

「…………」

 柊一は無言で半分を受け取った。

 指先にクリームがついた。

 一口、かじった。

「……甘い」

「クレープなんで」

「甘すぎる」

「マスター、コーヒーは、『甘さに逃げない』、のが信条、でしたよね」

「…………」

「でも食べてる」

「……しかたない」

 千影は声を出して笑った。

 商店街の人混みの中で誰にも遠慮しない、笑い方、だった。

 ——あの閉店後のカウンターで初めて素の笑い方を見せて柊一のカップを磨く、手を止めさせたあの夜と同じ、笑い方。

 違うのは、今日は柊一が手を止めない、代わりに口元が少しだけ、動いている、こと。

 微笑、と呼ぶには、小さすぎた。

 でも千影には、見えていた。

 二人は並んで歩き出した。

 脇道の合流点を通り過ぎた。

 ——あの日、千影が肩を内側に入れて視線を落として声を震わせた場所。

 今日は何もない。

 普通の脇道。

 普通の人通り。

「——マスター」

「ん」

「私、ここで一回、マスターに会ってますよね」

「……ああ」

「覚えてました?」

「……忘れる、わけが、ない」

「あのとき、私、すごく、頑張って演技したんですよ」

「知ってる」

「知ってる?」

「お前が話してくれた。性別、バレたあとに。『マスターが、LINEしてたあの人として振る舞おうとして崩れました』、って」

「あ……そうでした」

「あのときのお前、震えてたな」

「演技、です」

「……知ってる」

 少しの沈黙。

 柊一は前を向いたまま、ぽつり、と言った。

「あの日、追いかけなくて良かったと今は思う」

「え」

「追いかけてたら、お前は本気で逃げたかもしれん」

「……」

「今みたいに隣を歩いてくれなかったかもしれん」

「…………」

「先生がお前と相談した上で番号を選んで渡してくれたから俺はあの人と直接、やりとりできていた」

「はい」

「商店街でお前を見かけても深追いしなかったのは、そのおかげだ」

「はい」

「……先生の選び方に俺は救われた」

「……」

「あれは、正しい、選び方だった」

「——マスターが誰かの選び方を、『正しい』、って言うの」

「なんだ」

「初めて聞きました」

「……一年、経った」

 千影は柊一の横顔を見上げた。

(マスターが)

(あの日のことを、「良かった」、って言ってくれた)

(あの日、私は世界で一番、悲しい、演技をしてた)

(好きな人を騙して震えて逃げた)

(それが、「良かった」、って言える日が来るなんて)

(あの日の私に教えてあげたい)

(……ううん、教えなくていい)

(教えたら、あの日の悲しさが、薄まる、から)

(あの悲しさが、あったから今の隣がある)

 千影が柊一の腕に手を絡めようとして紙袋とクレープで上手く、いかなかった。

 柊一が無言でクレープを受け取った。

 片手で持ち直した。

 空いた千影の手が自然に柊一の袖を掴んだ。

 腕を組むほどでは、ない。

 袖を掴む、だけ。

 柊一は何も言わなかった。

 手を振り払うこともしなかった。

 ただ、クレープを持ったまま、歩いていた。

 すれ違った主婦、二人がちら、と振り返った。

 ——年の差、カップル、と思われたかどうかは、定かでは、なかった。

 誰にどう見られても今日はかまわなかった。

「マスター、豆問屋、まだ、寄るんですよね」

「ああ」

「ついていっていいですか」

「……勝手にしろ」

「はい」

 二人は商店街の奥に歩いていった。

 冬の昼下がりの光が淡いベージュのカーディガンを斜めから照らしていた。




 夜。

 閉店後のマンハッタン。

 柊一がカウンターの中でコーヒーカップを磨いていた。

 ——一年前と同じ、動作。

 同じ、布。

 同じ、手つき。

 ——ただ、カップだけが、違っていた。

 あの割れた日から新しい、カップに変わっていた。

 柊一の手の中で新しい、カップが鈍く、光った。

 隣に千影がいた。

 エプロンを外しているところ、だった。

「——お疲れさまです、マスター」

「ああ」

 カウンターの中にもう一人分のエプロンが掛かっていた。

 千影のエプロン。

 最初の頃は端の方に遠慮がちに掛かっていたのに。

 ——今は柊一のエプロンと同じ高さで隣同士に並んでいた。

(……いつから並んで掛かってるんだ、これは)

(気づいたら、隣にあった)

(気づかなかったのか)

(気づかない、ふりをしていたのか)

 千影は自分のエプロンをいつもの位置に掛け直した。

 柊一のエプロンのちょうど、隣。

 高さが、揃っていた。




 千影がカウンターの上に置かれたメニュー表を手に取った。

 ——一年前と比べて項目が倍以上に増えていた。

 コーヒー。

 サンドイッチ。

 日替わりケーキ。

 鉄板ナポリタン。

 オムライス。

 カレー。

 冬の季節限定、シュトーレン+スパイスの温かい一杯。

 ドラマコラボのメニュー。

 バレンタイン限定のチョコドリンク。

 パスタ、各種。

 ラーメン——。

「——マスター」

「なんだ」

「これ、全部」

「ああ」

「『しかたない』、って言いながら、作ったんですよね」

「……ああ」

「でもどれも美味しいですよ」

「褒めてない」

「いや、私が褒めてるん、ですけど」

「…………」

 千影が小さく、笑った。

 素の笑い方。

 柊一の手が布を持ったまま、ほんの一瞬、止まった。

(……また、この笑い方だ)

(今は何もすり替えなくていい)

(楽だ)

(が——少し、寂しい)

 千影はメニュー表をカウンターに戻した。

「マスター、来週からもまた、新しいの考えてるんでしょ」

「……」

「厨房から匂いが、します」

「何も言うな」

「言いません」

「ああ」

「三日後を待ちます」

「…………」

 柊一はカップを棚に戻した。




 千影がカウンターの奥からミルに豆を入れた。

 柊一が磨く手を止めてそれを見ていた。

 千影が豆を量るとき、手のひらに乗せて重さを確かめる、癖があった。

 ——それは、柊一がよくやる、仕草、だった。

 教えていなかった。

 見ているうちに移ったのだろう。

 千影が湯を注いだ。

 角度。

 速さ。

 休止のタイミング。

(……俺の手と同じだ)

(教えてない、部分まで似ている)

(前傾姿勢の角度)

(湯を切る、手首の返し方)

(……毎日、見てたんだな)

 二杯分。

 千影が柊一の前にカップを差し出した。

 カップの持ち手が柊一の方を向いていた。

 ——面接の日に柊一が千影にしてくれたのと同じ、向き。

(一年前、マスターがしてくれた向き)

(あの時、私は気づいた)

(この人は手で語る人、だって)

(今度は私が同じ向きで返す)

 柊一がカップを取って一口、飲んだ。

「……悪くない」

「褒めてます?」

「褒めてない」

「マスター、それ、口癖ですよね。一年、経っても変わらないんですね」

「……変わらないものは、ある」

(……渡ったな)

「マスター」

「ん」

「覚えてますか」

「なんだ」

「面接の日に淹れてくれたコーヒー」

「覚えてない」

「嘘」

「……覚えてる」

「私、あの一杯のことずっと覚えてました」

「ああ」

「正直な、味だな、って」

「……」

「この人、みたいだな、って」

「……」

「怖い顔、して嘘がない人だな、って」

「…………」

「今のコーヒー、あの日のと同じ味になってますか」

 柊一はカップをもう一口、口に含んだ。

 含んで置いた。

「……ああ」

「はい」

「同じだ」

「やった」

 千影はカウンターの内側で小さく、拳を握った。

 男装モードの日には、絶対にやらない、仕草。

 今日は素の千影、だから、出せる、仕草、だった。




 柊一がカウンターの椅子を上げ始めた。

 千影が反対側から椅子を上げた。

 一年前の面接の夜。

 「手伝います」

 「好きにしろ」

 ——千影は知らない、単語を覚えるみたいにぎこちなく、椅子を持ち上げていた。

 今は何も言わなかった。

 二人とも何も言わずに自然に役割が分かれていた。

 柊一が右側。

 千影が左側。

 間で目が合うと軽く、うなずく、だけ。

(……椅子を上げるのに)

(もう、言葉はいらない)

(一年前はこいつが、何も知らずに椅子を持ち上げていた)

(重そうに)

(今は俺と同じ、テンポで動いてる)

(……同じ店の人間の動き方だ)

 最後の椅子が上がった。

 二人がカウンターの中に戻った。




 ——同じ、夜。

 少し、時計を戻す。

 マンハッタンが閉まる、少し前のことだ。

 律と彩音のマンションの廊下。

 二人はいつものように、「おつかれさまです」と言い合ってそれぞれの部屋に入った。

 学校では、まだ、先生と生徒。

 廊下でもまだ、敬語。

 律が自室のベランダに出た。

 隣のベランダに彩音が出てきた。

 仕切り越しに顔は見えない。

 ——玄関で向き合える、ようになった今でも。

 二人はこの場所を選んだ。

 顔が見えないから言えることが、まだ、あった。

 彩音が手すりに手を置いた。

 手すりは、冬の夜の冷たさをしていた。

「——律くん」

「……はい」

「あのね」

「はい」

「来月」

「はい」

「実家に帰ろうと思ってるの」

「……」

「母に話したい人がいる、って伝えてあるから」

「……先生」

「『先生』、は、学校だけね」

「あ」

「あと連れて行く予定がある人には、それなりの覚悟があるはず、です」

「……覚悟、しときます」

「ふふ」

 彩音は仕切りに額を押し当てた。

「——おやすみ」

「おやすみなさい、彩音さん」

 冬の夜の空気の中で——

 声だけの距離が一つ、未来の約束を交わした。

 仕切り越しにその一行が残ってそれぞれの部屋に持ち帰られた。

 ベランダでだけ、二人は声だけの距離に戻った。

 それが、二人の正直な、場所、だった。




 ——同じ、頃。

 喫茶マンハッタンのカウンターでは。

 柊一と千影がまだ、二人で立っていた。

 柊一がカウンターの中で店内を見渡した。

 月明かりが、窓から入ってボックス席の縁を白く、撫でていた。

(……一年前)

(ここには、俺一人、だった)

「——マスター」

「ん」

「何、見てるんですか」

「……俺の店を見てる」

「いい店ですよね」

「…………ああ」

 千影がコーヒーをもう一杯、淹れようとしてふと手を止めた。

 柊一を見た。

「——マスター」

「ん」

「明日も」

「ああ」

「同じ時間に来ますね」

「ああ」

 ——一年前の閉店の夜。

 あの面接の日。

 「明日もよろしく、お願いします」

 「ああ」

 あのやりとりが——

 「明日も同じ時間に来ますね」

 「ああ」

 に変わっていた。

 同じ、二人。

 同じ、カウンター。

 同じ、「ああ」。

 ——でも。

 間に流れる、空気の温度、だけが、違っていた。

(俺の理想は静かな、コーヒー専門店、だった)

(カウンターの中には、俺一人で)

(常連の声もなく)

(料理の油も飛ばず)

(コーヒーだけが、ある、場所)

(それが、理想、だった)

(……しかたない)

 千影はカウンターの内側でもう一つのカップを磨いていた。

 磨きながら、柊一の手元を見ていた。

(この人の手を初めて綺麗だと思った日のことを)

(今も覚えてる)

(あれは、面接の日、だった)

(嘘が嫌いだと言う、この人の手が)

(嘘のない、コーヒーを淹れていた)

(それを、「綺麗だな」、としか、言葉にできなかった私は)

(まだ、恋を知らなかった)

(今なら、もう少しだけ、正確に言える、気がする)

(——あの手は嘘のない、手、だった)

(嘘のない、手で淹れたコーヒーが)

(私の正直さを引き出した)

(私が、「言えなかったこと」、を)

(「嘘とは、呼ばない」、と決めてくれたあの言葉も)

(たぶん、同じ、手から来ていた)

(——マスター)

(私、この店でずっとコーヒーを淹れます)

(あなたの手と同じ、手つきで)

(あなたの言葉と同じ、「悪くない」を聞きながら)

 柊一が最後にカウンターを軽く、布で拭いた。

 布をいつもの位置に畳んで置いた。

 明かりを落とした。

 月明かりだけが、残った。

 二人は扉の外に出た。

 柊一が鍵を回した。

 鍵の金属音が冬の夜の空気の中で小さく、鳴った。

 千影が隣に立っていた。

「——マスター」

「ん」

「駅まで一緒にいいですか」

「……勝手にしろ」

「はい」

 二人は駅の方へ歩き出した。

 背中が並んでいた。

 コーヒー豆の紙袋はもう、抱えていなかった。

 代わりに隣に一人、いた。




 ——一年前、この店に正直者はいなかった。

 今は、正直者しかいない。

 それでも珈琲の味は何も変わっていない。

 最初から嘘をついていなかったから。

 ——そして、今夜もカウンターの中には、もう一人分のエプロンが隣同士に並んで掛かっていた。


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