第二話
慌ただしい夜が明けようとしていた。蔀戸から薄っすらと日の光が透けだしている。
結局夜通し赤子の対応に追われた老夫婦は、流石に疲労の色が隠せていなかった。
赤子は存分に桃の果汁を飲み、今は健やかな寝息を立てている。
「ふぅ……参ったな」
「今日は柴刈り、休んでも良いんじゃないですか?」
「……んだな」
お互いに疲労困憊で板間に項垂れる。
「腹減ったな……」
「何かすぐ出せるものあったかしらねえ……たしか団子がまだ……」
妻も疲れているはずなのに、翁が言えば食事の用意をしようと動き出す。
「いいから、ゆっくりしてろって」
「でも……」
「食い物なら……ほれ」
翁が顎をしゃくるから、自然とまな板に転がる桃の果肉に二人の視線が向く。
「でもこれは……」
赤子を当面養うための桃だと妻は言おうとしてやめる。夜の間ずっと嗅ぎ続けた芳香に、今の状態では抗うのが難しかった。
「こんなにあるんだ、少しくらいいいべ」
言って翁は桃に手を伸ばす。
「待ってください」
「大丈夫だって、少しだけだから……」
「切り分けますから」
「あ、ああ」
妻も、もう反対する気はなくなったとみて翁はおとなしく引き下がった。
妻は再び包丁を握る。夜中のような慎重な動作ではなく、慣れたように皮を剥ぎ、実を切り分けていった。
「この皮、洗ってあの子の産着が作れないかしら」
剥いだ桃の皮はその大きさだけあって、確かに赤子の服くらい作れそうだ。
「好きにしたらいい。桃、はよくれや」
「もう!」
深く取り合わない翁に機嫌を損ねつつも、妻は桃を器に乗せて翁に差し出した。
「!?」
一口頬張ると翁は驚いた。これまで口にしたどんな桃よりも美味しい。瑞々しく香り立ち甘くとろける。
そして何より疲れが一瞬で吹き飛んだかのように体が軽いのだ。
「どうですか?」
あまりの美味しさに固まってしまった翁を妻は不審に見つめる。
「やっぱり、人が食べるもんじゃなかったですかねえ……?」
「いいから! 食ってみろ! いいから!」
動きを取り戻した翁は勢い込んで妻に桃を勧めた。
妻は不安を感じつつもおずおずと一口齧る。
「!?」
「な!」
妻も驚愕に目を見開いて、ただただ翁に頷いて同意を示した。
「何でしょう、これ!」
「うんめぇよな!」
「ええ、それにすっかり疲れが飛びましたよ」
それからは二人とも桃に伸びる手が止められなかった。
「全部、食っちまったな……」
「ええ……」
昨夜はその姿を隠していたまな板が、今はしっかりと見えている。
衝撃的な出来事に、夜中は夢中で気付かなかったが、二人とも思った以上に空腹だったらしい。
「里さ行くしかねぇか……」
妻はもちろん、赤子のためにはもう腹を決めるしか無さそうだと翁は考えた。
「そうですね……ふぁ」
妻の欠伸につられて翁も大口を開ける。
「とにかく、一眠りすっぺ。こいつも寝てくれてるうちに」
「そうですね……」
二人はお互いの布団に赤子を挟むようにして寝転んだ。体を倒すと一瞬で睡魔に意識を奪われていく。
翁が目を覚ますともう日が高く上がっている頃合いだった。
妻はまだ寝ているのか、こちらに向ける小さな背が深い呼吸に合わせて微かに動いている。すぐ隣の赤子も幸いまだぐっすりと眠ってくれていた。
(なんだか大きく……いや、気のせいか……?)
その場で翁は大きく伸びをするとスッと起き上がった。桃のお陰か体が軽く、いつもの寝起き特有の体の痛みがない。
(夜通しの疲れは後からどっとくるかもしんねぇが……)
年を重ねる毎に学んだ疲労の出るまでの時間の差。油断出来ないと苦笑しつつ、雨戸や蔀戸を開けて進んだ。
一つ開ける度に差し込む日の光が徐々に屋内を明るくしていく。
光と風が入り込むと、夜の緊迫していた空気が一気に温かいものに入れ替わった。
「ああすみません、あなた……」
妻も屋内が明るくなった事で目が覚めたらしい。後方からそんな声が翁の耳に届く。寝起きだからか、なんだかいつもの声じゃないみたいだった。
(思えば寝起きの声なんて久々に聞いたな)
いつも翁より先に起き出して精力的に動く妻。いつだって朝からしっかりとした声で「おはよう」と言って送り出してくれるのだ。
当たり前のありがたさを、改めて噛み締めながら翁は妻の方を振り向いた。
「!?」
この一日で目を見開くのは何度目か。翁は再び驚愕に体が動かなくなる。
「おはようございます……って、え!?」
妻も翁の方へ向き直るから、ついにお互いの目が合った。
「な、な、な?!」
「え、え、えっ?!」
暗がりでは気が付かなかった妻の艶のある黒髪を、吹き抜ける風がさらりと揺らした。
眠りにつく前とあまりの変わりように、お互い言葉を失う。
「お前、どした?!」
「あ、あ、あなたこそ!」
お互い自分の体を撫で回し視認する。
「嘘……」
「若返り……?」
「そんな、バカな……」
「ふえ……」
二人が大声を出したからか赤子も目を覚ましぐずりだした。
「え?!」
それと同時に妻がまた驚きの声を出す。
自分の体に異変を感じているのか胸に手を当てた。翁はそんな妻の様子がどうも気恥ずかしく、見ないようにして、しかし視界の隅に入れておく。
「ど、どした?」
「胸が張って……もしかしたら」
妻がぐずる赤子を抱き上げると、翁に背を向け着物をずらした。翁はチラリとみえる妻の項に思わず生唾を飲み込む。
「やっぱり! お乳! お乳が出ましたよ!」
「そ、そうか!」
「ええ、まあ元気に飲んで」
妻は体を揺すり、あやしながら与えるから、赤子の頭側の肩から着物がずり落ちる。
「そうか……ちょっ、厠! 厠行ってくっから!」
「はーい」
たまらず翁は家を飛び出した。
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