【第十一話】
重く揺らめく黒い靄。その形は静かに燃える炎のようで。
憎い……
「桃太郎……?」
自分の名を呼ぶ鈴の声が、この時なぜか桃太郎は不快だった。
憎い……
「ねえ、どうしたの」
「煩い!」
「え……ごめん」
「あ……いや」
《不浄に気をやるな》
(分かってる!)
桃太郎は不浄に飲まれそうになるのを、頭に響くだんごの声を頼りに意識を戻す。
憎い……
私の……子は……
(勝手に喋るな!)
………
桃太郎の強い意識が威嚇となり靄へ飛ぶ。同時に不浄の訴えが収まった。
「鈴には、視えないんだな……」
「何が……」
「いや、いいんだ」
視えなくて良かったかもしれない、そう桃太郎は思った。
靄が次第に女の形に変わっていく。全体的に黒いのに、目だけははっきりとしていて、それは怒りに満ちていた。
真っ直ぐに鈴に向けられる鋭い睨み……。
「鈴頼む」
「な、何?」
「笛を吹いてくれ、剣舞の」
「え?」
「いいから!」
最後は叫ぶように言って、桃太郎はダンッと大地を蹴って跳躍した。
あの日、林で視た父の本当の舞を頭に思い描く。
鈴から桃太郎が離れたからか、靄は鈴に突進して行く。
《威嚇!》
(分かってる!)
勝手に動くなと強く意識し睨みを利かせれば、靄はまたその場に縫い付けられるように動かなくなる。
だが靄の尖らせた先端が、今にも鈴に刺さりそうで……
《威圧もお忘れなきよう》
(ああ、もう分かってるって!)
そんな事を許さないと強く念じれば、靄の切っ先は吹き飛んでいく。
《慈愛の心もね。それに、舞も止まってるよ》
(ああもう! ごちゃごちゃと…!)
集中が揺らいで威嚇の縛りが弱まった。靄はそれを逃さず鈴に鋭く向かう。
桃太郎は咄嗟に跳躍して鈴を押し倒すように靄を躱した。
「大丈夫か、鈴」
起き上がり鈴を後に庇いながらも、靄に威嚇を飛ばして縛るのを桃太郎は忘れなかった。
「う、うん。……ねえ、どうしたの」
「悪りぃ、やっぱしまだ動き足りなくてさ。舞てぇんだ」
「………」
「頼むよ……」
わけが分からない筈だが、ただならぬ桃太郎の雰囲気に、鈴は帯に挿していた笛を口元に持っていく。
ピロロ……と清らかな音に目の前の靄が怯んだのが分かった。
笛の音のお陰か、桃太郎の意識も澄んでいく。呼吸を一度深く行って、膝を曲げて腰を落とす。構え、再びダンッと大地を踏み鳴らして跳躍した。
威嚇し、強く威圧し、荒々しく舞う。
桃太郎の足踏みが、振るう剣先が、靄を散らして切り刻む。
(憎いのか……。だがもう忘れてしまえ)
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ………
(現し世の事など忘れてしまえ)
私の……子は………
(もう、安らかになっていい)
同情ではなく、ただ祈り、舞う―――
「ぃあやあ!!」
桃太郎の雄叫びと共に、怒れる靄は消えた。微かに漂う残滓も、鈴の吹いた笛の余韻が天へと連れて行った。
はあはあ、と肩で息をする桃太郎。ただの稽古で舞うのとは違って疲労感が凄まじかった。
(今日はもう舞えない……)
そう思うほどなのに、後方の従者達が再び警戒の念を強める。
(もう、勘弁してくれ……)
桃太郎は膝に手をつき疲労に項垂れていた体を何とか起こそうとする。
その時、ゾクッと背筋に強い怖気が走り抜けた。
(何か……居るんだ………)
とてつもなく恐ろしい何かがこちらを見ている、桃太郎はそんな気がした。
これには敵わないと、本能が言っている。
「あれによく似た型だこと」
嗄れた声に吐き気が襲う。後方の従者達は動けない桃太郎に代わって威嚇を飛ばした。
「それに、大したもんを従えているね。これは面白い」
従者達の強烈な威嚇にも怯まずそれは嗄れた声を発してくる。
「おばあちゃん!」
「!」
鈴が声のする方へ駆けていく。
「おかえり。笛、上手になったねぇ」
「本当?! でもなんで居るの? お祭りの準備は?」
「今日はちょっと危ないかと思ってね。でも、心配なかったね。……さて、桃太郎。顔をお上げ」
桃太郎の名を呼ぶその声は、鈴に対するそれまでの声とは確実に違う響きを持っていた。
嫌なのに、首が勝手に顔を上げていく。
「ひっ……」
「何だい、人を化け物みたいに」
静かな笑みを湛えてそう言う老婆は、桃太郎にはやはり化け物にしか見えなかった。あえて不浄を纏っている化け物―――
「良い〝目〟を持っているね」
夕日が辺りを赤く染めていく。老婆の黒が赤黒い淀みとなって陽炎のように揺らめいていた。
「この子を守り送ってくれたこと、礼を言うよ。さあ、あんたも早くお帰り。魔に逢わぬように」
そう言って老婆はこちらに背を向ける。それだけで桃太郎は幾分呼吸が楽になった。
「桃太郎に挨拶しておやり」
それまで心配そうに桃太郎を見ていた鈴が、老婆の言葉に従順に手を振った。
「桃太郎、じゃあね」
夕日のせいか、鈴の黒い目が赤く見える。
「………」
かろうじて、桃太郎は鈴に手だけを振る。
二人の姿が見えなくなるとようやく桃太郎はその場に膝をつけられた。
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