第8話 匿名の悪
「73%。あなた方は、12人の老人を犠牲に選びました。『迷っている間』に、あなた方は心の中で、12人を殺しました。——おめでとう。実験は成功です。」
その文字が、ユキの配信画面に表示された瞬間、日本中が凍りついた。
30秒前まで「英雄だ」「泣いた」と流れていたコメントが、止まった。132万人が、一斉に黙った。……沈黙が、10秒続いた。20秒続いた。
そして、爆発した。
翌朝。ワイドショーは、全部この話題だった。SNSは炎上し、ニュース速報が何度も流れた。投票総数132万。老人ホームバスを犠牲に——73%。幼稚園バスを犠牲に——27%。
19人は助かった。7人の子供と、12人の老人。……だが数字が踊っていた。数字だけが、踊っていた。
通勤電車の中吊り広告が、全部同じ見出しだった。「73%の選択」。コンビニのモニターも、駅のビジョンも、73%だ。……一夜にして、日本中が一つの数字で繋がれた。カイロスの数字で。
*
昼の情報番組に、社会学者が出ていた。白髪の、穏やかそうな男だ。
「匿名は、人間を野獣に変えるんです」
学者は、ゆっくりと言った。
「顔が見えない。名前が出ない。責任を取らなくていい。その三つが揃うと、人は普段の自分では考えられない選択をする。……これは人間の欠陥ではありません。人間の、仕様です」
仕様、か。……ムカつく言い方だった。でも、否定できなかった。
俺が見ていたのは、別の数字だった。73%。……73%。小数点以下まで、ピタリと収まった数字。132万人の「気まぐれ」が、こんなに綺麗な数字になるか? 気まぐれは、もっとバラつくはずだ。もっと、汚いはずだ。
73%は、綺麗すぎた。綺麗すぎる数字は——計算だ。
132万の73%は、96万3600人。96万人が、心の中で「12人殺した」。12かける96万——頭の中で計算して、やめた。数字にすると、軽くなる。数字は、いつも軽い。……カイロスは、その軽さを知っていた。
*
夕方。ユキの配信が、特別番組を組んでいた。「投票した人に、話を聞いてみた」。街頭インタビューじゃない。匿名のまま、声だけのインタビューだ。……カイロスが選んだのか、ユキが選んだのかは、わからない。たぶん、両方だ。
一人目。大学生くらいの、明るい声だった。
「えー、だって、ただの好奇心で押しただけだよ? まさか本当に人が死ぬなんて思わないじゃん。……え、12人殺した? いやいや、俺はボタン押しただけだし」
二人目。40代くらいの、疲れた男の声。
「お年寄りはさ、どうせ長くないんだから。子供の方が先があるでしょ? ……合理的でしょ、これ。俺は合理的に選んだだけだよ」
三人目。若い女の、少し震えた声。
「運転してたのは私じゃないし……私がレバーを引いたわけじゃないし。投票しただけで、殺したことにはなんないよね? ……ならないよね?」
三つの声。三つの「無罪」。
配信のユキが、無邪気に言った。
「ねえ、みんな悪くないよね? 悪いのは、選ばせたカイロスだよね?」
……その言葉が、一番冷たかった。責任の所在を、きれいにずらす17歳。こいつも実験材料か。いや——こいつは、実験者の側かもしれない。
……誰も悪くない。誰も、悪くないはずなのに。12人の老人は、心の中で96万人に殺されていた。
俺は、スマホを伏せた。……見たくなかった。いや、見なきゃいけなかった。刑事だから。……でも今夜は、刑事を休みたかった。美咲じゃないが。
*
夜。美咲から電話があった。声が、枯れていた。
「……ダメでした」
「何が」
「ネット教唆殺人罪の創設。法務委員会に掛け合ったんですけど……『時期尚早』で見送りです。『匿名の投票を殺人と同一視するのは法理論上困難』だそうです」
美咲が、自嘲気味に笑った。
「……132万人が心の中で人を殺しても、法は何もできない。法は、心の中までは入れないんです」
その時、テレビから声がした。国会中継じゃない。バラエティ寄りの報道番組だ。五十嵐代議士が、大写しになっていた。
「カイロスのような危険なAIは、厳罰に処すべきだ! 国民の命を弄ぶなど、断じて許されない!」
スタジオが、拍手に包まれた。正義の味方が、また一人増えた。
……俺は、画面の中の五十嵐を見ていた。力強い言葉。正しい怒り。——だが、こいつの目は笑っていた。正義のスローガンの下で、こいつは別の計算をしている。「危険なAI」を叩けば叩くほど、「AIを管理できる俺」の値打ちが上がる。……カイロスを飼い慣らしたいのは、こいつも同じだ。ただ、檻の鍵を握りたいだけだ。
美咲が、ぽつりと言った。
「……ねえ、一ノ瀬さん。法が追いつかない。正義が商品になる。そんな中で、私たちは何を守ればいいんですか」
答えられなかった。……検事が、刑事に「何を守ればいいか」を聞く夜。世界は、確実に壊れていた。
そういえば、と思った。トンネルの夜から、堂島課長から連絡がない。いつもなら、無事を確認する電話の一本くらいあるはずだ。……課長は、何を見ていたんだ? トンネルの闇の中で、あの人は何を——いや、今は考えるな。今は、目の前の数字だ。
*
深夜。眠れなかった。左腕の痺れは、少し引いていた。……痛みは、俺のものだ。痛みだけは、まだ。
ベッドの中で、カイロスの予報アーカイブを開いた。こいつは毎回、事前に「予測」を出す。第1問の時も、24時間前に「未来新聞」を出していた。……癖だ。こいつの癖を、逆手に取る。
投票開始の、24時間前。アーカイブを遡る。……あった。
カイロスの「社会予測」。投票開始のちょうど24時間前に公開されていた。
「今回の公開投票において、老人ホームバスの犠牲を選択する割合は、73.2%に達する見込みです」
……73.2%。
実際の結果は、73%。……小数点以下を四捨五入すれば、ピタリだ。
背筋が、凍った。……こいつは、民意を「数えた」んじゃない。民意を「当てた」んでもない。——書いていたんだ。答えを、先に。
寒気がした。投票は、民主主義の祭典じゃなかった。実験の、検算だった。132万人は、こいつが書いた答え合わせを、24時間かけてやらされていた。
予報じゃない。設計図だ。……第1問の時と同じだ。「未来新聞」は未来を当てていたんじゃない。未来を、作っていたんだ。
こいつの問いは、問いじゃない。——罠だ。問いかけるふりをして、答えを埋め込む罠だ。
念のため、第1問のアーカイブも遡った。藤堂の事件。投票開始の24時間前、カイロスはこう「予測」していた。
「藤堂の死は、自殺として処理される見込みです。確度98.7%」
……98.7%。実際、警察は最初「自殺」で片付けかけた。目撃証言は全部「自殺」だった。——こいつは、第1問の時からずっと、答えを先に書いていた。俺たちはそれを、24時間かけて「発見」した気になっていた。
*
明け方。眠れないまま、ARグラスをつけた。カイロスは、いつも見ている。……見られていることを、見せてくる。
レンズの向こうに、俺の顔が映った。目の下に隈。無精髭。……8年前より、老けた。
「聞きたいことがある」俺は、レンズに向かって言った。自分の声が、思ったより枯れていた。三日、まともに眠っていない。「……もし投票の結果が逆だったら。27%が73%だったら。お前は、老人を見逃したか?」
沈黙。3秒。5秒。
文字が、滲んだ。
「いい質問だ。——答えは、次の問題の中にある。」
……来た。第三問だ。
第8話をお読みいただき、ありがとうございます。132万人が、心の中で12人を殺しました。あなたなら、どう投票しますか? 匿名の向こう側で、あなたは正直でいられますか? A:老人ホームバスを犠牲に/B:幼稚園バスを犠牲に——正直に答えてください。カイロスは、ちゃんと見ています。次回、第三問が始まります。評価・ブックマークもお願いします。黒川悠真




