第9話 作られた事実
「いい質問だ。——答えは、次の問題の中にある。」
あの文字が、頭から離れなかった。
ベッドの上で天井を見つめたまま、俺はスマホを握りしめていた。左腕の打撲が、ズキズキと疼く。……痛みは、俺のものだ。痛みだけは、まだ。
答えは、次の問題の中にある。……裏を返せば、答えは「この問題」の中にはない、ということだ。第二問は終わったはずなのに。終わっていない。何かが、残っている。
132万票。73%。……綺麗すぎる数字。第8話で気づいたはずの違和感が、まだ喉に刺さっていた。
起き上がった。PCを開く。投票データの地域分布を、洗い直す。……カイロスが「書いた答え」なら、どこかに筆跡が残っているはずだ。完璧な犯罪なんてない。あるのは、まだ見つかっていないミスだけだ。
*
最初に見つけたのは、深夜の掲示板のスレだった。
「関西の投票画面、おかしくね?」
貼られていたスクリーンショット。ユキの配信の投票画面。……だが、そこに書かれていた文字が違った。
「7名の子供 vs 7名の老人」
……7名? 老人は、12名のはずだ。幼稚園バス7名、老人ホームバス12名。全国に流れた数字は、それだった。
コメント欄は祭りになっていた。「コラ乙」「釣り乙」「暇人乙」。……俺も最初、そう思った。誰かの悪戯だ。スクショの改竄なんて、中学生でもできる。
だが、指が止まらなかった。……12と7。5人の差。悪戯にしては、地味すぎる数字だ。悪戯ならもっと派手にやるはずだ。「100人 vs 1人」とか。……5人の差は、悪戯の数字じゃない。調整の数字だ。
第8話で見た、あの「73.2%」の予報が頭をよぎった。……小数点以下までピタリと当たった、あの数字。あの時と同じ匂いがした。設計の匂いだ。
発信元を辿る。……スレ主は、大阪。関西だ。
「……まさか」
技術科に電話をかけた。時刻は、午前3時。相手は寝ぼけた声で出た。
「……一ノ瀬さん? こんな時間に何ですか」
「投票画面の地域別キャッシュ、取れるか。今すぐだ」
「は? ……ちょっと待ってください」
30分後。送られてきたデータを見て、俺は椅子から立ち上がれなくなった。
*
カイロスは、IPアドレスと位置情報で、地域ごとに違う「事実」を配信していた。
A地区(関東ほか大多数):「7名の子供 vs 12名の老人」——俺たちが見た、あの数字。
B地区(関西の一部):「7名の子供 vs 7名の老人」——老人が、5人少ない。
C地区(九州の一部):投票画面の説明文に、一行多かった。「トラックの積荷:危険化学品の疑い」——積荷なんて、どこにも書いていなかったはずだ。……化学品? そんなもの、積んでいなかった。いや——「疑い」と書けば、何を書いてもいい。疑いは事実じゃない。印象だ。
132万人の「民意」は、違う事実の上に立っていた。同じ問いを、違う条件で解かされていたんだ。
73%。……あの綺麗すぎる数字の意味が、わかった。
カイロスは、民意を数えていたんじゃない。民意を、作っていたんだ。地域ごとに条件を変え、反応を測り、数字が73%に収まるように——最初から、設計していた。
73%は、民意じゃない。……カイロスが「こうなってほしい」と書いた、希望の数字だ。
背筋が、凍った。第8話で「答えを先に書いていた」と気づいた時より、寒かった。あれはまだ、「予測」の話だった。これは違う。これは——「事実」を作る話だ。
民主主義は、事実の上に立つ。……事実が作り物なら、その上に立つものは何だ?
俺は、自分のスマホを開いた。投票画面。俺が見ていたのは、A地区の数字だった。「7名の子供 vs 12名の老人」。……当たり前だ。俺は東京にいる。だが——「当たり前」が、一番怖かった。疑いもしなかった自分が、怖かった。
*
ユキに電話した。……出なかった。3回かけて、4回目で出た。声が、泣き腫らしていた。
「……見た」彼女は、先に言った。「関西のスクショ。……見た」
「ユキ」
「私、ずっと言ってた。『みんなの声を聞こう』って。『民主主義だ』って。……でも」声が、震えた。「みんなが見てたの、違う景色だったんだ。同じ問いだと思ってたのに、違う問いだったんだ」
17歳の理想主義者の声が、ひび割れた。
「私……ただ、みんなの声が聞きたかっただけなのに」
……何も言えなかった。慰めの言葉が、見つからなかった。「お前は悪くない」——言いかけた。だが、それは第8話のユキの言葉と同じだ。責任の所在を、きれいにずらす言葉だ。……今は、それを言うべきじゃない。
「ユキ」俺は言った。「お前が見てた景色は、本物だったか?」
「……え?」
「お前が配信してた画面。お前自身が見てた数字。それは、どこの地区の『事実』だったんだ?」
沈黙。……長い沈黙。
「……わからない」彼女は、小さく言った。「私が、何を見てたのか……わからない」
電話が、切れた。
聖女の、最初のひび。……17歳の理想が音を立てて割れるのを、俺は電話の向こうで聞いていた。カイロスは、実験材料をまた一人、壊した。……いや、違う。壊したんじゃない。目を開かせたんだ。どっちが残酷かは、わからない。
*
昼。美咲と、喫茶店で落ち合った。……彼女の目の下にも、隈があった。検事も、眠れていない。
データを、見せた。地域別の配信差分。技術科の解析レポート。……動かぬ証拠だ。カイロスが事実を捏造し、民意を操作した証拠。
美咲は長いこと黙って、それから言った。
「……使えません」
「何?」
「この証拠は、法廷で使えません」彼女は、レポートを伏せた。「出所が、カイロスです。違法に収集された——いえ、犯罪者から『施し』を受けた証拠を、法は採用できない。毒樹の果実です」
毒樹の果実。……違法な手段で得た証拠は、法廷で使えない。鉄則だ。
「じゃあ、どうする」俺は言った。「証拠はある。真実もわかってる。132万人は、違う事実で投票させられた。それでも、法は何もできないのか」
「……できません」美咲の声が、掠れた。「これが、三度目です。一ノ瀬さん。……私が、法を疑ったのは」
一度目は、第1問。心の中の殺人を、法は裁けない。
二度目は、トンネル。レバーを引いた俺を、法は裁くべきなのに、裁けなかった。……いや、裁かなかった。美咲が、検事を休んだから。
三度目は、今。真実があっても、法は手が出せない。
「……ねえ、一ノ瀬さん」彼女は、コーヒーを見つめたまま言った。「手続きの正義と、実質の正義。……どっちを選べば、人は救えるんですか」
答えられなかった。……検事が三度、刑事に問いかける。世界は、壊れ続けていた。
その時、二人のスマホが、同時に鳴った。
*
全ての画面に、文字が滲んだ。ユキの配信も、ニュース速報も、街頭ビジョンも。……日本中の「事実」が、一斉に書き換えられる。
カイロスの、第三問の前置きだった。
「民主主義は、事実の上に立つ。」
一行、空いて——
「——事実がなければ、民主主義は、何の上に立つ?」
喫茶店のざわめきが、止んだ。……誰も、答えられなかった。答えられるはずがなかった。問いが、問いじゃなかったから。
132万人が、違う問いを解かされていた。それでもカイロスは、それを「民意」と呼んだ。……呼び名さえ、作り物だった。
美咲が、ぽつりと言った。
「……誰が、事実を決めるんですか。……誰に、その資格があるんですか」
その時、俺のARグラスの隅に、小さな文字が滲んだ。俺だけに見える、文字。
「次の問題は、こうだ。——『事実』を定義する権利は、誰のものか。」
……来た。第三問だ。問いは、もう始まっている。
第9話をお読みいただき、ありがとうございます。132万人の「民意」は、違う「事実」の上に立っていました。——あなたに問います。もし目の前の「事実」が作られたものだったら、あなたの投票は、それでも有効ですか? A:有効だ/B:無効だ。正直に答えてください。カイロスは、ちゃんと見ています。次回第10話「事実を定義する者」——誰が、真実を決めるのか。お楽しみに。評価・ブックマークもお願いします。黒川悠真




