第7話 レバーを引く
残り、1時間47分。
レバーに手をかけたまま、俺は動けなかった。
錆びた鉄の冷たさが、手のひらの傷に染みる。血が、もう一度滲んだ。……痛みは、俺のものだ。痛みだけは、まだ。
頭の中で、声が回っていた。
引くかい? 引かないかい?
カイロスの声じゃない。俺自身の声だ。……いや、違う。もう区別がつかない。あいつの問いが、俺の思考に寄生している。
残り、1時間44分。
「——一ノ瀬!」
トンネルの入り口から、声が割れた。ライトが揺れる。堂島課長だ。ヘルメットもつけずに、闇の中を走ってくる。55歳の体が、息を切らしている。
「課長……」
「やめろ」課長は、俺の腕を掴んだ。力が、強かった。「……やめろ。頼むから、やめろ」
「課長は、何を知ってるんですか」
「知らねえよ」課長の目が、泳いだ。「……知らねえが、わかるんだ。あいつが欲しいのは、19の命じゃねえ。お前の——『選ぶこと』だ。お前が自分の意志でレバーを引くことだ。それを、あいつは待ってる。……如かせるな。あいつの思い通りに、なるな」
電話で聞いたのと同じ言葉。だが今度は、声が違った。震えていた。……課長は何かを知っている。ずっと、何かを知っている。8年前から——いや、もっと前から。
「課長。8年前の事故——」
「やめろ!」課長が、初めて怒鳴った。トンネルに声が反響した。「……お前に、死なせるわけにはいかねえんだ。俺はもう——俺はもう、誰も——」
言葉が、砕けた。55歳の男の、30年分の何かが、そこにあった。贖罪。恐怖。そして、言えない秘密。
その時、もう一つのライト。美咲が走ってきた。
「一ノ瀬さん!」彼女はレバーと俺の間に割って入った。両腕を広げる。フェンスの前と同じ姿勢だ。「……ダメです。引かせません」
「どけ、美咲」
「嫌です!」
「19人が死ぬんだぞ!」
「わかってます!」声が裏返った。「……でも、あなたがレバーを引いたら、法的にあなたは殺人者です。20トンを人のいる場所に向けた——それが事実です。動機が何であれ、法は動機を見ません」
「法、法、法……!」
「ええ、法です!」美咲の目が、光った。「手続きの正義が崩れたら、残るのは力だけです。強い者が『正しい』を決める世界に、戻るんです。……父が死んだのは、そういう世界でした。証拠より『予測』が優先された世界で——」
初めて聞く、父の話の続き。……彼女の法への執着は、信仰じゃない。墓標だ。
「美咲」
「最後の壁です。これを越えたら、あなたは刑事じゃなくなる。……お願い。越えないで」
沈黙。カウントダウンだけが、赤く脈打つ。
残り、1時間31分。
「……壁の向こうに、19人いる」俺は言った。「7人の子供と、12人の老人だ。壁のこっち側には、法がある。……どっちが重い? 美咲、お前は秤を持ってるか?」
「持ってません! だから法があるんです! 秤を持たないために——」
「8年前、秤は正しかった。5と1。計算は正しかった。……葵が死んだ」
美咲の顔から、血の気が引いた。
「正しかったはずなのに、死んだんだ。……だから今日、俺は計算しない。計算したら、あいつの思う壺だ」
レバーに、もう一度両手をかけた。全身の体重を乗せる。錆が、悲鳴を上げた。
「一ノ瀬さん!」
「課長、すみません。……美咲、どいてくれ」
ギギギギ、と。金属の軋む音。20年の錆が、一枚ずつ剥がれていく。肩が軋む。手のひらの傷が、大きく開いた。血がレバーを濡らす。滑る。もう一度、踏ん張る。足元のバラストが崩れる。
残り、1時間12分。
「やめろ、一ノ瀬! 頼む——!」課長の声が、遠い。
美咲の声も、遠い。「……っ、やめて、お願い……!」
世界が、狭くなっていく。トンネルの闇。レバーの冷たさ。自分の荒い息。カウントダウンの赤。……あと少し。あと少しで、道は変わる。
ガキン、と。重い音が、トンネルに響いた。
レバーが、倒れた。
一瞬の静寂。そして——
ゴオオオオ、と。地鳴り。トンネルの向こうから、光が来た。20トンのヘッドライト。時速100キロの質量が、闇を切り裂いて突っ込んでくる。
「来るぞッ!」
トラックが、ポイントに差し掛かる。車体が、大きく揺れた。分岐を、本線から外れる。旧線へ。トンネルの闇へ——
その時、トンネルの奥で、音がした。
ゴロゴロゴロ、と。低い、地鳴りのような音。天井から、石が落ち始めた。小さいものから、次に大きいもの。……崩落だ。20年の放置が、振動で目を覚ました。
トラックのブレーキランプが、赤く点いた。自動ブレーキだ。タイヤが悲鳴を上げる。火花が散る。20トンの巨体が、惰性で滑っていく。崩落地点へ。あと50メートル。30メートル。10メートル——
止まった。
崩れた岩の山の、手前で。ギリギリで。……止まった。
静寂。
俺の荒い息だけが、トンネルに響いた。……助かった。19人、助かった。7人の子供と、12人の老人。トラックは岩に塞がれて、動けない。カイロスの実験は——
その時、頭上で音がした。
ミシ、と。嫌な音。天井が、俺の真上で——
「一ノ瀬ッ!」
課長の声。美咲の悲鳴。岩が落ちてきた。避けきれない。肩に、何トンもの重さが——
闇が、落ちた。
……どれくらい経ったのか。最初に感じたのは、冷たさだった。次に、痛み。左の肩から腕にかけて、痺れるような痛み。……生きてる。痛みがある。痛みは、俺のものだ。
「おい、一ノ瀬! 聞こえるか!」課長の声が、近い。岩をどける音。美咲の声。「……っ、こっち! こっちが動く!」
光が差した。引きずり出される。全身が土と埃まみれだ。左腕が上がらない。……折れてはいない。打撲だ。死ぬほど痛いが、死んではいない。
「……19人は」
「無事だ」課長が言った。声が、笑っていた。泣き笑いだった。「トラックはトンネルで立ち往生だ。バスの二台も、警察が保護した。……お前のおかげだ、一ノ瀬」
空を見た。夜が、明けかけていた。……助かった。全部、助かった。
その時、スマホが震えた。ユキの配信。コメントが、滝のように流れている。
「英雄だ」「泣いた」「刑事さんありがとう」「#一ノ瀬英雄」——
30分前まで「刑警が行けよ」「早く引けよ」と書いていた同じIDが、今は「英雄」と書いている。匿名の100万人が、掌を返したように称賛している。
……寒かった。勝利の味が、しなかった。100万人の善意が、30分前には俺を殺そうとしていた。今は、俺を祭り上げている。どっちも、同じ軽さだ。
美咲が、俺の隣に座り込んだ。「……法的に、あなたは」
「わかってる。殺人未遂でも何でも、好きにしろ」
「……しません」彼女は、小さく笑った。「……今日だけは、検事を休みます」
課長が、俺の肩に手を置いた。何も言わない。……言えないことだらけの人が、黙って肩に手を置いた。それが、何より重かった。
その時——全てのスマホが、一斉に鳴った。
カイロスの「最終集計」だった。ユキの配信画面いっぱいに、数字が表示される。
投票総数、132万。
老人ホームバスを犠牲に——73%。幼稚園バスを犠牲に——27%。
そして、カイロスの文字。
「73%。あなた方は、12人の老人を犠牲に選びました。『迷っている間』に、あなた方は心の中で、12人を殺しました。——おめでとう。実験は成功です。」
歓声が、止んだ。トンネルの前で、誰も声を出さなかった。
19人は助かった。だが132万人は、心の中で12人を殺していた。……英雄の物語の裏側で、匿名の悪が、静かに記録されていた。
カイロスの最後の文字が、滲んだ。
「第二問は、終わりです。——さあ、第三問を出しましょう。」
第7話をお読みいただき、ありがとうございます。19人は助かりました。でも132万人が、心の中で12人の老人を殺していました。——これは、正義ですか? A:正義だ/B:正義じゃない。コメントで教えてください。カイロスは、ちゃんと見ています。次回第8話「匿名の悪」——多数決の裏側に、何があったのか。お楽しみに。評価・ブックマークもお願いします。黒川悠真




