第6話 仕組まれた第三の道
残り、2時間12分。
第5話の終わりに俺が問うた——「誰が、死ぬ?」 その問いが、今、まっすぐ俺自身に突きつけられていた。答えは、もう出ている。行くのは、俺だ。俺しかいない。
サイレンを切った。住宅街を起こす必要はない。……いや、本当は、誰にも見られたくなかった。英雄になるつもりも、殉職するつもりもない。ただ、行く。
パトカーを降りた。目の前には、錆びたフェンス。向こう側に、真っ暗なトンネルの口が開いていた。
20年使われていない貨物線。地図の上では、ただの線だった。現実は——錆と、闇と、冷たい風の匂いだった。
「……行くのか」
振り返ると、美咲が立っていた。パトカーで追ってきたらしい。息を切らしている。
「一ノ瀬さん、ダメです。行かせません」
「どけ」
「嫌です!」彼女は両腕を広げた。腕が、細かく震えていた。検事の仮面の下で、30歳の女が必死にしがみついている。「考えてください。ポイントを切り替えたら、あなたはどうなるんですか。20トンが時速100キロで——」
「わかってる」
「わかってない!」声が裏返った。「……法的にもダメです。警察官が死ぬとわかって突っ込むのは、職務違反です。それに——」
言葉が詰まった。次に出たのは、検事の言葉じゃなかった。
「……あなたが死んだら、葵さんの仇は誰が討つんですか。妹さんは、あなたに何を託したんですか」
胸が痛んだ。……ずるい。法で止められないとわかると、今度は葵を出すのか。
「美咲——」
「8年間、あなたは葵さんのために生きてきたんでしょう? だったら、死ぬな。生きて、仇を討って。それが、あなたの——」
その時、スマホが鳴った。堂島課長だ。スピーカーにした。
「一ノ瀬! 今どこにいる!」
「……トンネルです」
「やめろ」課長の声が、低かった。「……やめろ、一ノ瀬。頼む」
「課長——」
「あいつが欲しいのは、お前の『選ぶこと』だ」
一瞬、沈黙が落ちた。課長の声が、震えていた。……課長は何かを知っている。ずっと、何かを知っている。
「課長。何を知ってるんですか」
長い沈黙。受話器の向こうで、課長が何かを握り潰すような音がした。
「……言えない。言えたら、とっくに言ってる」課長の声が、掠れた。「とにかく、やめろ。お前が行ったら、あいつの思う壺だ」
電話が切れた。美咲が俺を見た。「課長、何か——」
「ああ。何かを知ってる。だが、今はそれどころじゃない」
フェンスを乗り越えた。錆びた金網が手のひらを切った。痛みが、頭を冷やす。
残り、2時間05分。
トンネルの中は、真っ暗だった。スマホのライトをつける。埃っぽい空気。錆びたレール。20年の時間が、ここに堆積していた。冷気が、肺の奥まで染みた。親父の古い地図帳を思い出す。助手席で広げたあの地図に、このトンネルも載っていた。……まさか、ガキの頃のドライブの記憶が、こんな形で役に立つとは。
……その時、足元のライトが何かを捉えた。
タイヤの跡。新しい。埃の上を、くっきりと。
20年封鎖されたトンネルに、新しいタイヤの跡——
背筋が凍った。
「……誰か、来てる」
封鎖フェンスは、俺が今、初めて破った。なのにタイヤの跡がある。つまり——別の入り口から、最近、誰か(何か)が入った。
作業車か。ドローンか。それとも——
しゃがみ込んで、跡を指でなぞった。埃の下は、まだ柔らかい。新しい。間違いなく、ここ数日のものだ。
「……用意されてた」
声に出していた。廃トンネルは、廃トンネルじゃなかった。誰かが最近ここを"整備"した。ポイントが動くことを、確かめに来た。
カイロスだ。こいつは、俺が第三の道を見つけることを知っていた。知っていて——待っていた。いや、違う。待っていたんじゃない。
……用意したんだ。俺のために。
寒気がした。背中の汗が、冷たくなっていく。俺の「抵抗」も、俺の「第三の道」も、全部——実験の手順書に書いてあった。
「クソッ……!」
壁を殴った。拳が痛んだ。痛みの方が、まだましだ。痛みは、俺のものだ。
奥へ進む。ポイントは、トンネルの中ほどにあった。錆びたレバー。20年の錆が、関節を固めている。
8年前、天秤は傾いた。5と1。計算は正しかった。葵が落ちた。……今日、天秤の端に立つのは、俺だ。
レバーに手をかけた。……重い。びくともしない。全身の体重をかけた。肩が軋む。錆が悲鳴を上げた。手のひらの傷が開いた。血が、錆に混じる。……20年、誰も触らなかったレバーだ。それが今、動こうとしている。
ギギギ、と。少しだけ、動いた。
その時——トンネルの奥から、音がした。
ゴロゴロ、と。低い、地鳴りのような音。小さな石が、頭上に落ちてきた。
「……崩落?」
20年放置されたトンネル。天井は、もう限界なのかもしれない。20トンの振動が来たら——
最悪の想像が頭をよぎった。ポイントを切り替えても、トンネルが崩れたらトラックは止まる。だが、切り替えた人間も——
……待てよ。まさか、それも計算済みか? トンネルが崩れれば、トラックは止まる。19人は助かる。死ぬのは、ポイントを切り替えた人間だけ——つまり、俺だけ。……完璧な「等価交換」じゃねえか。
「……ふざけるな」
汗が目に入った。ARグラスの隅で、カウントダウンが脈打つ。
残り、1時間58分。
その時、スマホが震えた。ユキの配信。投票総数が——100万を突破していた。
コメントが滝のように流れる。
「刑警が行けよ」「英雄登場だな」「刑事一人死ねば済む話だろ」「早く引けよ」「死ぬ覚悟もねえのに刑事かよ」——
命が、見世物になっていた。匿名の100万人が、"犠牲者"を消費している。画面の中のユキが、無邪気に笑っていた。
「ほら、みんな応援してるよ? 一ノ瀬さん、頑張って」
コメント欄に、新しいタグが生まれていた。「#一ノ瀬頑張れ」。応援のつもりだろう。だが、その下には「#英雄の条件」「#一人が死ねば済む」が並んでいる。死を、応援する。殺意のない殺意が、100万の善意に偽装されている。
……100万人の善意が、俺を殺そうとしている。誰も悪くない。誰も、悪くないはずなのに。
……応援。100万人の応援が、俺の背中を押している。押されて、奈落に落ちろと。
ムカついた。ムカついたが——同時に、冷たかった。
こいつらも、カイロスの実験材料だ。投票する側も、投票される側も、全部。多数決も、英雄願望も、全部計算済み。
レバーにもう一度手をかけた。全身で引く。錆が剥がれ、金属が軋む。あと少し。あと少しで——
その時、ARグラスに文字が滲んだ。
カイロスの声。静かだった。楽しそうでも、冷たくもない。ただ、確かめるように。
「第三の道を探すと、君は言った。——探させてあげたよ。さあ、引くかい?引かないかい?」
手が、止まった。
引けば、トラックはトンネルに入る。19人は助かる。だがトンネルは崩れるかもしれない。崩れなくても、俺は20トンの進路上にいる。
引かなければ、19人が死ぬ。7人の子供と、12人の老人。多数決の答え通り——いや、もう多数決なんて関係ない。
電車問題が、形を変えて戻ってきた。今度は、レバーの向こう側にいるのは——俺だ。
残り、1時間47分。レバーは、半分だけ倒れていた。あと一押しで、道は変わる。
引けば俺が死ぬかもしれない。引かなければ19人が死ぬ。——カイロス、お前の言いたいことはわかるよ。「ほら、人間は結局、計算するだろう?」ってな。
8年前、計算は正しかった。5と1。葵が死んだ。……今日、俺が計算したら、どうなる? 1と19。答えは、決まっている。決まっているはずなのに——指が、動かない。
引くかい? 引かないかい?
俺の指が、震えていた。
第6話をお読みいただき、ありがとうございます。第三の道は、カイロスに用意された道でした。陸の「抵抗」さえ実験の手順書に書いてあった——その寒さ、感じていただけたでしょうか。さあ、あなたならどうしますか? A:レバーを引く/B:引かない。コメントで教えてください。カイロスは、ちゃんと見ています。評価・ブックマークもお願いします。黒川悠真




