第5話 誰かが死ぬ道
パトカーのアクセルを踏み込む。サイレンが夜を切り裂いた。
ダッシュボードの端末に、赤い数字が脈打つ。
「残り 2:40:33」
……2時間40分。まだある。まだ、探せる。
ナビが告げた。次の分岐点まで、あとわずか。地図の隅の名前を見て、指が止まった。
あの交差点だ。8年前、葵が死んだ交差点。自動運転車が「最適解」を選んだ場所。
ハンドルを握る手が、一瞬だけ震えた。
……くそ。8年経っても、体が覚えている。
震えを握り潰した。進むしかない。あの交差点で、もう一度だけ天秤を見てやる。
ルームミラーに流れる夜景。8年前のあの日も、こんな夜だった。サイレンの音。葵の——いや。今は、前だけ見ろ。
スマホが震えた。技術科からだ。
「一ノ瀬さん! トラックのマニフェスト、掘りました!」
「言え」
「今朝、このトラックは建材を満載して出発するはずでした。なのに出発直前、積荷が全部降ろされてるんです。記録上は『積載物なし』。空っぽで出たんです」
……空っぽの20トン。最初から引っかかっていた。
「誰が降ろした」
「そこが、おかしいんです。東都ロジスティクスは半年前に買収されてます。買ったのはペーパーカンパニーで、遡っても実体がない。……半年前ですよ、一ノ瀬さん。こいつ、半年前からこの日を用意してたんです」
背筋が冷えた。半年。7人の子供と12人の老人を天秤にかけるために、半年かけた。
……いや、違う。かけさせるために、だ。
「なあ」俺は言った。「空っぽの20トンに、意味はあるか?」
「え?」
「満載なら、ブレーキの効きは積荷で変わる。だが空っぽなら——制動距離は計算できる。正確に、な」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
「……カイロスは、公平に殺したいんですよ。条件を揃えて、等しく。天秤を、傾けないために」
「ああ、もう一つ」技術科の声が沈んだ。「二つのバスのナビも、掌握されてます。分岐点への到着予定時刻が、秒単位で一致するように調整されてる。……こいつ、条件を完全に揃えたんです。7人と12人、同じ速度、同じタイミング。究極の等量ですよ」
「あ、それと——ブレーキの整備記録があります。昨日、テスト走行してます。こいつ、制動距離を実測してたんですよ」
「……試運転までしたか。念の入れようが、殺人者のそれじゃねえな」
ムカついた。殺人に公平もクソもない。だがこいつは、殺人さえも「実験」に仕立てる。等量でなければ実験にならないとでも言うように。
……公平な殺人。聞いたこともない、吐き気のする言葉だ。
その時、別の着信。美咲だ。
「一ノ瀬さん。……ダメでした」
声が、掠れていた。
「配信停止の申し立て、裁判所が却下しました。『国民の知る権利』が優先される、と。80万人が見ているものを、法は止められない——」
……法が、負けた。KAIROSの前で、初めて。
「美咲」
「私の信じてきたものが……こんなに脆いなんて」小さく笑った。泣き笑いだった。「父が信じた『証拠』も脆かった。私が信じた『法』も、脆い。……じゃあ、何を信じればいいんですか」
会議室でのことを思い出した。彼女は言った。「残るのはルールだけです」。そのルールが、今日折れた。
答えは、出なかった。出るはずがない。俺が刑事になったのは、答えを持っていないからだ。
「……お前が信じてきたもんは、間違っちゃいない」俺は言った。「ただ、相手が悪かっただけだ。法は人間を裁くためにある。神を裁くためじゃない」
「……神、ですか」
「ああ。あいつはもう、神の真似事を始めてる」
「一ノ瀬さん。もし——もし法が止められないなら、あなたはどうするんですか」
「……法の外側で止める。お前が言ったろ。法の届かない場所に立てる人が必要だって」
「……はい。気をつけてください」
「……信じるもんは、後で探せ。今は、前に進むだけだ」
「……はい」
電話が切れた。バックミラーに映る自分の顔が、ひどく疲れていた。
スマホを開く。投票画面。数字が、踊っている。
投票総数、80万突破。
老人ホームバス——73%。幼稚園バス——27%。
「老人を犠牲に」が、圧倒的だった。12人の命は、7人の命より重い。数が正義だ。合理的だ。
コメントが滝のように流れる。「12>7、算数だろ」「子供の未来を守れ」「老人はもう十分生きた」「多数決が民主主義だ」——命が、数字に、数字が"正しさ"に変換されていく。
画面の隅に、新しい表示が出た。ユキが始めた「民主主義のカウントダウン」。投票終了まで、あと2時間。命の多数決に、制限時間がついた。
画面の中で、ユキが笑っていた。17歳の"聖女"。カメラに向かって、無邪気に。
「ほら、見て。多数派の人間は、いつも理性的でしょ? みんなで決めれば、誰も悪くないんだよ」
……理性的。そうだ、理性的だ。8年前の報告書も、理性的だった。5と1。計算は正しかった。
正しかったはずなのに、葵は死んだ。
吐き気がした。画面を閉じた。閉じても、数字は瞼の裏で踊り続ける。73と27。命が、パーセントに変換されていく。
……ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな。
ナビを見た。トラックのルート。分岐点まで、あと少し。
その時、古い記憶が引っかかった。この辺りの、古い地図。ガキの頃、親父の運転する車で何度も通った道だ。助手席で広げた古い地図帳。「ここ、昔は貨物線だったんだぞ」——親父の声が、耳の奥で蘇った。
まさか、あの地図が役に立つ日が来るとは。親父、ありがとな。……今度は、俺が運転する番だ。
端末を操作して、古い地形図を呼び出す。20年前のデータ。……あった。
貨物の廃トンネル。分岐点の手前で本線から外れる、使われなくなった旧線だ。トラックなら、ギリギリ入れる幅がある。
技術科に電話をかけ直した。「旧貨物線のトンネル、分岐点の手前だ。今も開いてるか」
「……調べます。……開いてます! 封鎖はされてますが、物理的には通れます。ただし——」
「ただし?」
「ポイントが手動式です。20年前のまま。錆びてるかもしれませんが、構造は単純です。レバーを倒すだけ。問題は——」
「問題は、場所だろ」
「……はい。ポイントは本線の真上です。切り替える人間は、トラックの進路に立つことになります。20トンが、時速100キロで」
言葉が止まった。地図を見た。わかった。
……第三の道は、あった。だが、その道には、死ぬ人が一人必要だった。
その時、ARグラスに文字が滲んだ。
カイロスの声。今度は、静かだった。
「第三の道はある。——誰かが死ぬ道だ。」
声は、楽しそうではなかった。確かめるように、静かだった。こいつは、俺が第三の道を見つけることを知っていた。知っていて、待っていた。
……わかっていた。こいつは、逃がさない。選ばせない代わりに、選ばせる。
電車問題は、終わらない。形を変えて、また出題される。
誰が、死ぬ?
俺か。美咲か。名もない誰かか。それとも——このハンドルを握る、俺自身か。
ハンドルを握る手が、汗で滑った。カウントダウンが、赤く脈打つ。
残り、2時間12分。第三の道は、見えた。だがその先に、誰かの墓標が見えた。
第三の道は見つかりました。でも、その道には「死ぬ人」が一人必要です。廃トンネルのポイントを切り替える人間は、20トントラックの進路上に立つことになる——究極の選択が、また姿を変えました。もしあなたなら、行きますか? A:行く/B:行かない。コメントで教えてください。カイロスは、ちゃんと見ています。評価・ブックマークもお願いします。黒川悠真




