99話「応え」
閉店後の【Rose】に、美園と凛だけが残っていた。
椅子を上げ、床を軽く掃る。
いつもの作業なのに、今夜は少し空気が違った。
美園が、布巾を畳みながら言った。
『青柳くん、よく誘ったね。えらかった』
凛が顔を赤くする。
「とっさに出てしまって……美園さんの目配せ、ズルかったです」
『ズルくて悪かった。でも、凛ちゃんのおかげであたしも勇気もらった』
凛が顔を上げる。
『ウジウジしてちゃ、カッコつかないもんね』
短い沈黙のあと、凛は静かにうなずいた。
「美園さん……応援してます」
『ありがとう』
凛はそれで帰り支度を済ませ、扉の前で一礼する。
「お先に失礼します」
『気をつけて』
一人になった店で、美園はスマホを取り出した。
文面は、長くない。
『夜分遅くにすみません。もしお時間ありましたら、これから少し話せませんか』
送信する。
佐藤は、その通知でほぼ飛び起きた。
着替えて、髪を直して、走るように【Rose】へ向かう。
来るまでが早すぎた。
ドアを開けた佐藤を見て、美園は目を丸くする。
『……早すぎない?』
「すみません。すぐ出ました」
『座って。少しだけ』
美園は店側の椅子ではなく、カウンターの外側、佐藤の隣に座った。
酒を二つ並べ、自分も軽く一杯だけ口をつける。
『謝らないといけないことがあって』
佐藤が姿勢を正す。
『私、一度結婚して、失敗してる。離婚した。
それから、人が自分に向けてくれる好意なんてものから、逃げてきてたの。
それなのに、いきなりキスしたりして。弄ぶみたいになって、ごめんね』
静かな声だった。
言い訳ではなかった。
佐藤は、すぐに首を横に振る。
「弄ばれたとは、思っていません」
『でも、私は逃げてた。だから——』
美園が言葉を続けようとする。
『やっぱり佐藤くんには、もっと素敵な人が……』
言いかけた横顔へ、佐藤が体を寄せた。
隣の席から、肩に手を添えて、キスをする。
強引ではない。でも、逃げさせない。
美園は目を見開いたまま、拒否しなかった。
長いキスのあと、二人の距離は少しだけ開く。
佐藤の声は、震えていた。
「花火大会、ご一緒してもらえますか」
美園は、しばらく彼の顔を見ていた。
そして、小さくうなずいた。
『……はい』
店内に、氷の溶ける音だけが残る。
佐藤の目が一気に輝く。
美園は少し照れたように視線を外し、空になったグラスを下げた。
『閉店後に呼び出す女のところに、本当にすぐ来るんだね』
「呼ばれたら、来ます」
『……そう』
隣り合わせの席で、花火の約束がようやく形になった夜だった。




