98話「目配せ」
夜の【Rose】に、凛がバイトで入っていた。
客足は落ち着いていて、グラスの音と氷の鳴る音が主に響いている。
美園が会計を打っていると、ドアが開いた。
青柳だった。
「こんばんは。お邪魔します」
『いらっしゃい』
凛が姿勢を正し、水を出す。
「お水をどうぞ。ご注文は……」
「ビールを頂けますか」
青柳は席に着くと、凛の方を見て穏やかに続けた。
「今朝、来客用のスリッパを直していましたね。見ていたんです」
凛の手が、止まる。
「あ……あの、乱れていただけなので」
「乱れたままにしない人がいる、ということです。見ていて、いいなと思いました」
また、耳まで赤くなる。
凛は俯きながらも、嬉しさを隠しきれなかった。
「……ありがとうございます」
会話はそこで一度途切れる。
青柳は酒を傾け、凛は次のグラスを準備する。
花火の話は、青柳からは出ない。
美園が、その空気に痺れを切らした。
『青柳くん。今度の花火大会、誰かと見に行くの?』
青柳が顔を上げる。
「いえ、別に予定はしていません」
美園の視線が、静かに凛へ向く。
目配せだった。
凛の喉が、鳴る。
頭の中で文章を整える暇もなく、口が先に動いた。
「青柳さん、もしよかったら……花火大会、一緒に見に行きませんか」
店内が、少しだけ静かになる。
青柳は明らかに驚いた顔をした。
だが、すぐに柔らかくうなずく。
「ぜひ。ご一緒したいです」
凛の頭の中が、真っ白になる。
「……は、はい」
喜ぶ。
その直後、自分がとっさに誘ってしまった事実が、遅れて押し寄せてくる。
恥ずかしさが、耳の先まで一気に熱い。
思わず美園の方を見た。
美園はカウンターの内側から、軽く舌を出して、いたずらの顔をしていた。
『……よく言った』
声には出さない。
口の形だけで、そう言っている。
凛は布巾を握りしめ、青柳にだけ小さく言った。
「当日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ。楽しみにしています」
青柳は本当に淡々と、でも確かに嬉しそうだった。
花火大会の組み合わせが、また一つ決まった。
凛の心臓だけが、閉店まで落ち着かなかった。




