95話「未読」
金曜日の朝。
凛は出社してすぐ、来客用のスリッパ棚の前に立っていた。
左右が揃っていない。サイズもバラバラに詰め込まれている。
彼女は黙って、一つひとつ向きを正し、大きさ順に戻していった。
(……美園さんに、偉そうなこと言っちゃった)
昨夜の自分の言葉が、胸に残っている。
間違っているとは思わない。でも、あの人に対して、少し出しゃばりすぎた気がする。
最後の一足を揃えたところで、廊下の向こうに人影があった。
青柳だった。
彼は何も言わず、その様子を遠くから見ている。
凛が気づく前に、静かに歩き去った。
(遠藤さん、いつも本当に真面目だ)
青柳はそう思っただけで、声はかけなかった。
午前中のフロアは、すでに中井が走り回っていた。
「陽菜さん、こっちの部数は三部でいいですか」
『五部。あと、総務にも一部寄って』
「はいっ!」
「陽菜さん、電話取り次ぎました。折り返しは十四時で」
『ありがとう。中井くん、えらい』
頭をよしよしされる中井の顔が赤い。
樹里はそれを見て、短く息を吐いた。
『……便利に使いすぎだ』
『本人が喜んでるもん』
『喜んでいるのと、使っていいのは別だ』
中井は「僕は大丈夫です!」と全力で否定し、また走っていった。
終業後。
陽菜と樹里は、零を誘って近所のラーメン屋に入った。
『今日は塩でいいっすか』
『何でもいい』
三人で卓を囲み、仕事の話、店の話、どうでもいい話をする。
零は最初こそ固いが、徐々に緊張がほぐれていく。
陽菜が麺をすすりながら言う。
『来月、花火だね。』
『ああ』
『総長は? 誰かと行くの』
『特に予定はない』
零が「自分はまだ決めてないっす」と続ける。
そのとき、樹里の鞄の中で、スマホが一度だけ短く振動した。
席の下なので、樹里は気づかない。
陽菜も零も、普通に話を続けている。
一方、会社近くの公園。
神谷はベンチに座り、送信ボタンを見つめていた。
文章は、もう二十回は書き直している。
『日高先輩、お疲れ様です。三週間後の花火大会なのですが、もしよろしければご一緒できませんか』
これでいいのか。
硬すぎるか。
デートに見えるか。
見えるとして、悪いのか。
指が、震えている。
(……当たって砕けろ)
佐藤との約束が、頭をよぎる。
神谷は目を閉じ、送信した。
既読はつかない。
既読がつかない時間が、異常に長く感じられる。
神谷はスマホを裏返し、空を見た。
(……届いてる、よな)
届いている。
ただ、樹里はラーメンを食べていて、まだ見ていない。
その夜、樹里の通知は未読のまま朝を迎えた。
神谷のドキドキだけが、一人で夜を越えていく。




