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94話「都合」

夜の【Rose】は、いつもより少し静かだった。

凛がバイトに入り、グラスを下げている。

美園はカウンターの内側で、常連の会計を済ませていた。

ドアが開く。

佐藤だった。

「……お疲れ様です」

『いらっしゃい』

キスのことは、どちらからも出ない。

出せないまま、席に着く。

最初は普通の会話だった。

仕事がどうとか、最近の客がどうとか。

凛の前でもあるので、佐藤の背筋は最初から伸びきっている。

酒が半分ほど減ったところで、佐藤はグラスを置いた。

「美園さん。三週間後の、花火大会なんですが」

美園の手が、止まる。

「よかったら、一緒に行きませんか」

声は小さいが、はっきりしていた。

凛は注文票を持つ手を止め、視線を落とす。

美園は少しだけ考えてから、答えた。

『店のこともあるし、都合がつくかわからない。考えておくね』

肯定でも、否定でもない。

佐藤は「はい」と笑ったが、目は笑いきれていない。

前進したのか、していないのか、自分でもわからない顔だった。

「……お願いします。それでは」

会計を済ませ、佐藤は丁寧に頭を下げて店を出る。

残された凛は、閉まったドアを見ていた。

(……誘うとき、人はああいう顔になるんだ)

青柳の顔が、一瞬よぎる。

凛は何も言わず、布巾を畳んだ。


閉店後。

客もいなくなり、店内に二人だけが残る。

凛が、カウンターの向こうの美園に向かって静かに言った。

「佐藤さん、美園さんを誘うとき、すごく緊張してましたね」

美園はレジを閉じながら、軽く息を吐いた。

『そうみたいね。でも、彼には私なんかより素敵な人を見つけて、頑張ってもらいたいかな。だから断ろうと思ってる』

短い沈黙。

凛が顔を上げる。

「それは、少し卑怯じゃないですか」

美園の手が、止まる。

「美園さんの佐藤さんへの態度は、前から曖昧すぎると思っていました。

あんなに優しくして、結局断るのは、佐藤さんが可哀想です。

それに……美園さんの本音は、本当にその言葉どおりなんですか」

怒っている。

でも、声は荒れていない。怖くもない。

ただ、真面目で、真っ直ぐだった。

美園は、少し面食らった顔をした。

しばらくして、小さく笑う。

『……凛ちゃんの言う通りだと思う』

カウンターに両手をつく。

『彼のことは、好きなんだと思う。

でも、前に失敗して、離婚してから。恋愛に逃げ腰で』

それ以上の詳細は言わない。

それでも、今夜の美園は、いつもの「わかってるママ」ではなかった。

凛は指を組んで、一生懸命に言葉を選ぶ。

「好きなら、曖昧にする方が傷つくと思います。

都合がわからない、じゃなくて。行きたいのか、行きたくないのかを、先に決めた方がいい。

佐藤さんは、美園さんの本当の気持ちを待ってると思います」

美園は否定しなかった。

『……考えてみる』

即答はしない。

でも、流しもしない。

店の明かりを落としながら、美園は首元のネックレスに一度だけ触れた。

凛が扉の前で振り返る。

「お先に失礼します。美園さん、おやすみなさい」

『おやすみ』

一人残された店で、美園は長く息を吐いた。

花火大会まで、あと三週間。

佐藤への「考えておくね」が、今夜から本物の宿題になっていた。

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