93話「花火」
地域の花火大会まで、あと三週間。
夏の終わりを飾る、この街いちばんの大きなイベントだ。
カップルにとっても、誰かに思いを寄せる者にとっても、外せない夜になる。
もちろん、彼ら彼女らにとっても例外ではなかった。
その日の終業後。
中井は陽菜の席に行き、普通の声で言った。
「陽菜さん、三週間後の花火大会、一緒に行きませんか」
陽菜は画面から顔を上げ、すぐに笑った。
『いいよ。中井くんと見るの、初めてだね』
「は、はい……! じゃあ、約束ということで」
『約束』
あまりにもあっけなく成立した。
中井は嬉しそうに席へ戻り、陽菜は「花火か」とだけ呟いて、また仕事に戻った。
翌日。
会議が終わり、会議室に残っていたのは陽菜、凛、神谷、佐藤、柚希。
資料をまとめながら、陽菜が何気なく言った。
『そういえば昨日、中井くんと花火大会の約束してね。
やっぱり花火デートっていいよね。自然と距離も近くなるし』
誰に言うでもない、軽い感想だった。
だが、残った四人の内側では、それぞれ別の火がついていた。
神谷は、書類の角を指で折った。
(日高先輩と、花火か……)
日程が合えば、と食事はできた。
でも花火は、食事より明確に「二人の夜」になる。
誘って、断られたらどうする。
そもそも日高先輩は、花火をデートだと思うのか。
胸の奥が、熱くて痛い。
佐藤は、無意識に自分の唇に触れた。
美園がつけたネックレスの感触が、まだ残っている。
キスの温度も、忘れられない。
(……誘っていいのか)
閉店後のあの空気は、夢じゃなかった。
なのに、次にどう進んでいいのかがわからない。
美園さんは何を思うのか、花火を一緒に見たら、何かが変わる気がする。
変わらなかったら、どうしよう。
柚希は、手元のペンを転がした。
零となら、行ける気がする。
でも「花火に行こう」は、ランチよりずっと重い。
零ちゃんは、どう受け取るだろう。
友達の延長か、それ以上か。
(……好き、なんだよな。私)
言わなきゃ、始まらない。
でも同性との恋なんて、始め方すらわからない。
言うのが、怖い。
凛は、静かにファイルを閉じた。
青柳さんの顔が、浮かぶ。
見ていてくれる人。丁寧な人。
でも、こちらから誘う理由が、まだ自分の中で言葉にならない。
(あたしが入る日に店に来てくれた。)
あの一言だけで、十分すぎた。
それ以上を望んでいいのか、わからない。
陽菜は四人の微妙な沈黙に気づかず、椅子を引いた。
『じゃあ、私は戻るね。中井くんと場所取りとか考えなきゃ』
先に出ていく陽菜の背中を、四人はそれぞれ別の思いで見送った。
花火大会まで、あと三週間。
約束できた者と、まだ誘えない者の間で、夏の終わりは静かに動き始めていた。




