91話「閉店後」
凛がバイトを上がり、青柳も帰ったあと、店には美園だけが残っていた。
最後のグラスを下げ、レジを締めようとしたところで、ドアが開く。
佐藤だった。
『あ。……ちょうど閉店時間だよ』
佐藤は入り口で足を止め、深く頭を下げる。
「そうですよね。すみません、改めます」
そう言って踵を返そうとした瞬間、美園が声をかけた。
『ちょっと待って。少し話さない?』
佐藤の動きが止まる。
「……いいんですか」
『いいよ。座って』
美園は店の看板を「閉店」に変え、鍵をかけ、カウンターの内側から隣に回る。
二人はカウンター越しではなく、隣り合わせの席に座った。
佐藤は背筋を伸ばしたまま、手元を見ている。
緊張が、肩に出ていた。
美園は水を二つ出してから、静かに話し始めた。
『私ね、昔は色々やんちゃしてたんだ。
そのあと、この仕事を長くやって、色んな人を見てきた。
そうすると、大体わかっちゃう。人の心の内とか、下心とか』
佐藤が顔を上げ、必死に否定する。
「僕は、下心なんかで美園さんに近づいたりしていません。本当です」
美園は短く笑った。
『わかってる。佐藤さんは優しいし、真面目だよ。
てか、島川不動産の人たちは、みんないい人』
その言葉に、佐藤は少しだけ肩の力を抜いた。
だが、次の言葉が続かず、また黙ってしまう。
沈黙が、優しく長い。
美園が先に立ち上がった。
『……そろそろ、帰り支度しようかな』
「あ……遅くまでお話ししてもらって、すみません。失礼します」
佐藤は慌てて礼をし、ドアノブに手をかける。
その背中へ、美園の手が伸びた。
肩を引かれる。
振り返った佐藤の唇に、短く、確かな感触が触れた。
一瞬だけ。
深くもない。長くもない。
でも、逃げられないほどはっきりしたキスだった。
美園が先に顔を離し、いつものトーンで言う。
『じゃあね。おやすみ』
佐藤は何も言えず、ドアを開け、夜の空気に出た。
店の灯りが消える。
彼は歩道に立ち、自分の唇に指を当てた。
残っている。温度も、距離も。
空を見上げる。
星は少ない。
なのに、今夜の空だけは、ひどく近く感じられた。
(……夢じゃない)
佐藤は一人、長く息を吐いた。
閉店後の数分が、彼の中で一日より重く残っていた。




