90話「機嫌」
会議が終わったあと、会議室に数人が残っていた。
凛、陽菜、彩花、青柳、神谷。
次の打ち合わせまでの隙間で、軽い雑談が始まる。
神谷が陽菜を見て、少し驚いたように言う。
「櫻井さん、今日機嫌いいですね」
彩花が続けた。
「化粧ノリも良いんじゃない? なんか、内側から違う」
陽菜は椅子に深く座り、悪戯っぽく笑った。
『昨日お泊まりで、彼氏にたくさん愛してもらったのでー。へへ』
会議室が、一瞬で凍る。
凛が顔を真っ赤にして、無意識に青柳の方をチラッと見た。
青柳は真顔のまま資料を揃えつつ、穏やかに口を開く。
「それは……羨ましいですね」
神谷が苦笑いする。
「羨ましいぞ、中井のやつ」
彩花も肩をすくめた。
「このやろう、って感じ。でも、本人が幸せそうならいいんじゃない」
陽菜は「でしょでしょ」と満足げに答え、凛は耳まで赤い。
青柳は凛の様子には気づいていない様子で、次の議題の紙を配り始めた。
「では、残りは短く済ませましょう」
会議室に、笑いと照れが混ざった空気が残る。
その夜。
【Rose】では、凛がバイトに入っていた。
客足は落ち着いている。
美園が会計を済ませていると、ドアが開いた。
青柳が、一人で入ってくる。
「こんばんは。お邪魔します」
凛が顔を上げ、思わず姿勢を正す。
「あ、青柳さん……」
青柳はカウンターに座り、静かに続けた。
「森下さんに、今日は遠藤さんが入られていると聞きましたので。お邪魔しました」
凛の顔が、また赤くなる。
恥ずかしそうで、それでも嬉しいのが、表情に出ていた。
「……ありがとうございます。ご注文は」
「お酒は少しだけ。あと、水を」
凛が動く横で、美園がグラスを拭きながら小さく息を吐いた。
『なるほど。そういうことね』
完全に察している顔だった。
青柳は凛の接客を受け取り、短く礼を言う。
「昨日も思いましたが、遠藤さんの動きは丁寧ですね。見ていて安心します」
「そんな……普通です」
「普通ができる人は、意外と少ないです」
凛は俯きながらも、口元が緩んでいた。
美園は二人の距離感を眺め、心の中でだけうなずく。
(……この子には、この人の温度がいい)
店内に、静かな夜が流れる。
陽菜の大胆な宣言から始まった一日は、凛の小さな高鳴りで終わろうとしていた。




