89話「二夜目」
中井の部屋を出る時間になっても、陽菜は靴を履かなかった。
玄関先で立ち止まったまま、後ろを見る。
少しだけ、甘えるような目をしていた。
『……帰りたくない』
中井の手が、ドアノブの上で止まる。
「え」
『今日は、帰りたくない。中井くんのところに、いたい』
声に酒の匂いはない。
目も、酔っていない目だった。
だからこそ、中井の胸に真っ直ぐ届く。
中井は一瞬固まったあと、優しくうなずいた。
「……いてください。いてくれたら、嬉しいです」
部屋に戻る。
電気はつけたまま、二人はソファの近くで向き合う。
中井が、震える声で聞いた。
「お酒、飲んでないのに……受け入れてくれるんですか」
陽菜は小さく笑って、中井の指に自分の指を絡めた。
『中井くんの事、好きだから。抱いてほしい。
酔ってるから、じゃない。好きだから』
その言葉で、中井の目元が熱くなった。
初夜は酒と緊張と暗がりで、記憶が少し霞んでいた。
今夜は違う。
陽菜の声も、体温も、吐息の一つひとつが、愛おしくてたまらない。
背中のタトゥーのことも、頭の端にはあった。
Rose girlsの文字のことも。
でも、今はどうでもよかった。
目の前にいる陽菜が、自分を好きだと言ってくれた。
帰りたくないと言ってくれた。
中井の名前を、柔らかく呼んでくれた。
それだけで、世界が足りていた。
中井は慎重に、陽菜の頬に触れる。
「好きです。陽菜さん。
彼女でいてくれて、ありがとう」
『……なんか、真面目』
『でも、嫌いじゃない』
陽菜はそう返して、自分から距離を詰めた。
夜は、急がなくても進んでいく。
中井は陽菜を壊さないように、大切に触れる。
陽菜はそんな中井の不器用さを、ちゃんと受け止める。
初めての夜より、言葉が少ない。
代わりに、視線も、指先も、全部が「好き」で埋まっていた。
事後、陽菜は中井の腕の中で、ゆっくりと息を整えていた。
中井は陽菜の髪に顔を寄せ、何度も額に唇を当てる。
『……覚えてる』
「え」
『初夜より、今夜の方が覚えてる。中井くんの顔も、声も、全部』
中井は幸せそうに目を細めた。
「僕もです。ずっと覚えてます。
陽菜さんを、こうして抱けたことも。好きだって言ってもらえたことも」
タトゥーも、過去も、今はこの腕の中では遠かった。
中井はただ、目の前の陽菜を愛おしくて仕方なかった。
陽菜も、中井の胸に顔をうずめたまま、小さく笑った。
『……もうちょっと、こうしてて』
「はい。ずっと、でよければ」
夏の夜が、二人の部屋にだけ、少し長く残った。




