88話「誘い」
組の一件から、数日が経っていた。
社内の樹里は、表面上はいつもどおりだ。
指示は正確で、表情も崩さない。
だが、どこか力が入っていない。
神谷には、それがわかった。
書類を渡す手つき。
返事の短い間。
窓の外を見る時間の長さ。
(……日高先輩、元気ない)
終業後、神谷は自分の席で何度も深呼吸をしてから、樹里のデスクへ向かった。
「日高先輩、失礼します」
樹里が顔を上げる。
『何でしょう』
「その……よかったら、食事に行きませんか。最近、少し疲れて見えるので」
余計なことを言った気がして、神谷は慌てて付け足す。
「業務の話とかじゃなくて、ただの食事です。無理なら断ってください」
短い沈黙。
樹里は書類の端を揃えながら、あっさりと答えた。
『いいですよ』
神谷の動きが、止まる。
「え……いい、んですか」
『はい。日程が合えば』
前回のメッセージと同じ言葉なのに、今度は目の前で言われた。
神谷の頭の中が、真っ白になる。
「あ、ありがとうございます……! では、今週末とか……来週の平日とか……」
『今週末は空きです。土曜の夕方以降なら』
「土、土曜で! 夕方で!」
声が大きい。周囲がちらりと向く。
樹里は特に気にした様子もなく、カレンダーを確認した。
『では、土曜の十八時に、駅前で』
「は、はい……! わかりました……!」
神谷は深々と頭を下げ、自分の席に戻ると、そのままデスクに突っ伏した。
(……あっさり、すぎる……)
成功している。
なのに、落ち着かない。
遠くから、その一部始終を見ていた陽菜が、小さく息を吐いた。
『……総長、意外と素直なときあるよね』
中井が「何ですか?」と聞くと、陽菜は「なんでもない」と笑って誤魔化した。
樹里と神谷の食事の日程は、あっさりと決まった。
問題は、当日の神谷が生きて帰ってこられるかどうかだった。




