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87話「守られる側と」

翌朝の社内は、いつもどおりだった。

樹里は普通に出勤し、普通に書類を処理し、普通に部下へ指示を出している。

陽菜も席についている。だが、目元が少し腫れていた。

中井が心配そうに声をかける。

「陽菜さん、大丈夫ですか」

『大丈夫。ちょっと寝不足』

笑顔は作れる。

作れるが、薄い。

給湯室で二人きりになったとき、陽菜が樹里にだけ小さく言った。

『……昨日は、すみませんでした』

樹里はカップを置かず、短く返した。

『二度とするな』

『はい』

それ以上は、どちらからも出ない。

昨夜の涙も、殴られた頬の痛みも、ここでは言葉にしない。

昼休み、凛が陽菜の様子を見て「無理しないでくださいね」とだけ言った。

陽菜は「うん」と答え、席に戻った。

日常は、残酷なほど普通に回り続けている。


その夜。

陽菜は一人で【Rose】のドアを開けた。

客は少ない。美園はカウンターの奥で、グラスを並べていた。

『……来たのね』

『来た』

陽菜はいつもの席に座る。

美園は何も聞かず、水と酒を出した。

しばらくして、美園が口を開く。

『黙っていたこと、謝る。私は知っていた。総長が消えた理由も、それを条件に交渉した事も』

陽菜の手が、グラスの上で止まる。

『……なんで』

『総長が、話したがらなかったから。無理に聞けば、お前が動くとわかっていたから。実際、動いた』

美園は視線を落とさず、続ける。

『総長は、お前を守るために消えた。チームを守るためでもある。でも、一番はお前だ。

自分が引かなければ、お前が次に何をするか。それが怖かった』

陽菜の喉が、鳴る。

『昨日、組で言ってたろ。“美園と陽菜は私の全てだ”って。

あれは、交渉の方便じゃない。あの人の本当だ』

そこまで聞いたところで、陽菜の目から涙が溢れた。

最初は黙って落ちるだけだった。

次に、肩が震える。

やがて、声を殺しても殺しきれず、カウンターに突っ伏して大泣きした。

『……馬鹿みたい。私、何してたんだろ』

美園は背中には手を回さず、代わりに新しいハンカチを差し出した。

『泣け。今日はそれでいい』

陽菜はハンカチを掴んだまま、何度も息を吐き、何度も泣いた。

発端が自分であること。

守られていたこと。

知らないまま暴れたこと。

樹里の涙。

全部が、一度に出てくる。

店内に客はなく、氷の鳴る音だけが時々混じる。

美園は黙って、その夜の陽菜を見届けた。

守りたかった側も、守られた側も、同じくらい傷ついていた。

それでも三人は、また同じ店に戻ってこれる。

それだけが、今夜の救いだった。

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