86話「全て」
エントランスの下っ端たちは、最初こそ二人を止めようとした。
だが、樹里と美園の動きは、昔と変わっていなかった。
無駄がなく、速く、容赦がない。
派手な乱闘にはならず、前に出た者から順に沈んでいく。
『通る』
樹里の一声で、残った者たちも道を空けた。
奥の部屋の扉を開けると、中には組長と沙月、そして拘束された陽菜がいた。
『……総長』
陽菜の声は掠れている。
樹里は一瞬だけ彼女を見たあと、組長へ視線を固定した。
組長は椅子に深く座り、冷静に口を開く。
「日高樹里。お前が突き付けてきた約束を、破った落とし前は、どうつけるつもりだ」
樹里は前に一歩出た。
『この身一つで、責任を取る。好きにしろ』
組長は、がっかりしたように長く息を吐いた。
「……それだけか。あの場での交渉を忘れたか。それで済むと思っているのではなかろうな」
樹里は遮るように、続ける。
『だが、大切な妹を傷つけたことは、別だ。覚悟しろ』
その目は、交渉の場の目ではなかった。
殺意に近い、静かな怒りだった。
組長の眉が、わずかに動く。
「俺に手を出すか。それこそ本家が黙っていないぞ。
お前の会社ごと潰されかねんが、それでもいいのか」
樹里は一瞬も揺らがなかった。
『関係ない。会社よりも、親よりも、命よりも、美園と陽菜は大事なものだ。私の全てだ』
部屋に、重い沈黙が落ちる。
陽菜は目を見開き、美園は何も言わず樹里の横に立っている。
沙月は、その言葉を興味深そうに聞いていた。
しばらくして、組長が短く笑った。
「……やはり、お前は面白い」
椅子の肘を叩き、手を振る。
「構わん。その小娘を連れて帰れ。今回の落とし前は、それでいい」
沙月が小さく息を吐き、樹里を見た。
「やはりお前は、組長が認めるに足る女だ」
樹里は礼も言わず、陽菜の拘束を外した。
『立て。帰るぞ』
『……はい』
三人は、誰にも止められず事務所を出た。
夜の道。
ビルを離れた路地で、樹里は急に足を止めると、振り返りざまに陽菜の頬を一発、思い切り殴った。
乾いた音が、夜に響く。
陽菜はよろめき、何も言えない。
痛いとか、すみませんとか、そのどれもが、喉で止まる。
顔を上げると、樹里が泣いていた。
初めて見る涙だった。
怒りの形をした、守りきれなかった者の涙。
『……馬鹿野郎』
それ以上、言葉にならない。
美園が二人の間に立ち、静かに言った。
『帰ろう。三人で』
樹里は袖で目元を拭いもせず、先に歩き出す。
陽菜は遅れながらも、その背中に続いた。
美園がバイクを押しながら最後に並ぶ。
夜風が、三人の影を長く伸ばした。
破られた約束は、今夜、別の形で閉じた。
だが、三人の間に残ったものだけは、簡単には乾かない。




