9話「棘」
森下彩花の嫌味は、最初は本当に小さかった。
「櫻井さん、その書類、もう一度見直した方がいいんじゃない? ミスってると思う」
「新人さんって大変だよね。私も昔はそうだったなぁ」
「日高先輩、櫻井さんに仕事振りすぎじゃない? 可愛がられすぎも考えものだよ」
表向きは笑顔で、声のトーンも明るい。
でも、その言葉の端々に、小さな棘が混じっていた。
陽菜は最初、気にしないようにしていた。
相手にするだけ無駄だと思っていたし、樹里との機密条約もある。
だが、日が経つにつれて、徐々に積み重なっていく。
ある日の午後。
陽菜が少し大きな声で資料を探していると、彩花がまた近づいてきた。
「また何か落としたの? ちゃんと管理しなきゃだよ、櫻井さん」
その瞬間、陽菜の指が止まった。
樹里がそれを見逃さなかった。
席を立ち、陽菜の隣に来る。
『櫻井さん』
低く、短い呼びかけ。
陽菜は顔を上げ、樹里の目を見た。
『……はい』
『少し、休憩にしましょう』
樹里にそう言われて、陽菜はゆっくりと息を吐いた。
限界の一歩手前で、止められた。
彩花は二人の様子を見て、少しだけ眉を寄せた。
でも、それ以上は何も言わなかった。
夕方、柚希が彩花に小声で聞いた。
「ねえ、さっきの日高先輩と櫻井さん、なんか怖くなかった?」
彩花はしばらく黙ってから、曖昧に笑った。
「……気のせいじゃない? ただの先輩と後輩でしょ」
真相には、たどり着かなかった。




