80話「観察」
閉店間際の【Rose】に、一人の女が入ってきた。
二十八、九くらい。派手ではない。
黒いコートに、落ち着いた髪型。笑っているのに、目が笑っていない。
美園はグラスを拭く手を止めず、普通に声をかけた。
『いらっしゃい。もう閉店時間だけど』
「大丈夫。一本だけでいい」
女はカウンターに座り、水を先に頼んだ。
常連のような癖のない注文。なのに、場の空気だけがわずかに変わる。
美園は気づいていた。
ただの客ではない。
女は一口飲んでから、店内を見渡した。
「いい店だ。静かで、変な客がつきにくい」
『褒めても、サービスはないよ』
「褒めてる。中村美園の店だもんな」
美園の目が、細くなる。
『……誰』
女は名刺も出さず、名前だけを置いた。
「桐生沙月。昔、少しだけ同じ空気を吸ってた」
その言い方で、美園には通じた。
表の人間の言葉ではない。
『用は』
「用というほどじゃない。見に来ただけ」
『何を』
「組長が気に入って、認めた女が、その後どう立ち回ってるか」
美園の指が、グラスの縁で止まる。
樹里のことだと、一瞬でわかった。
『……その話は、ここではしない』
「する必要はない。今日はあなたの顔を見にきただけ」
沙月はそれ以上踏み込まず、酒を短く煽った。
『伝えておいて。日高樹里に。
潰しに来たわけじゃない。興味があるだけだ、と』
美園は黙って相手を見た。
敵意は薄い。だが、無害でもない。
『帰って』
「帰る。また来るけど」
沙月は会計を済ませ、ドアに手をかけたところで一度だけ振り返った。
「三人、まだ揃ってるんだな。意外だった」
ドアが閉まる。
店内に、夜の静けさだけが戻る。
美園はスマホを取り出し、短い文面を打った。
『今日、変な客が来た。桐生沙月。樹里に用があるらしい』
送信してから、カウンターに肘をつく。
『……面倒なのが、また来た』
観察は、もう始まっていた。




